桜の木が淡い衣を脱ぎ去り、新緑の葉を身にまとい始める季節。
湿気をはらんだ風には、これからくるだろう梅雨の時期を予感させる。
高校に入学してから2度目の夏だ。だからといって、何か心躍ることがあるわけでもない。
入学当初は何か変わるんじゃないかと根拠のない希望があったが、そんな淡い期待は1ヶ月もすれば消え去っていた。
環境が変わったところで、自分が変わるわけでないのは知っているつもりだった。
中学のころと変わらない淡々とした日々、いつも通りの朝の木漏れ日が射す通学路、顔しか知らないクラスメイト、知らない同級生達、知らない先輩や後輩が見知ったエントランスに吸い込まれて行く。
眠気が残るゆったりとした動作で、自分の靴箱まで歩き、使い慣れた上履きを手に取ると底に見慣れない新緑色の封筒が入っていた。
あまりの見慣れなさに体が固まってしまう。
眉間に皺がより眼だけを動かして周囲を見回す。
こちらに誰も注目していないことを確認してから、そっとポケットへ封筒を忍ばせた。
いつのまにか止めていた息を吸い込み、いつも通りを意識して教室まで歩く。
ポケットに手を入れると指先に当たるサラッとした感覚が、気のせいでは無かったことを教えてくれる。
ぼんやりしていた脳が一気に醒めた。この封筒はいったい何だろうか。
靴箱に、しかも誰にも見えないよう底に設置してあった。一瞬見ただけだがオシャレな緑色の封筒には手紙が入っているだろう重みもあった。
もしかして、恋文ではないだろうかと思い至り心臓が高鳴る。
いや落ち着け、冷静になり廊下で立ち止まっているのに気付く。一度、教室まで行ってしまおうと再び歩いた。
だが、思い出しても誰かに好かれるような覚えは無かった。もしかして、ドッキリ的なものかもしれない。
ドッキリを仕掛けられるほどの友好関係があるわけではないが、怖いもの見たさのお調子者達による気まぐれの可能性もある。
そんなこんなと考えている内に教室についた。自分の席に付きつつ、隣の多田に適当な挨拶をする。特に何も言って来ないことから顔に動揺が出ていなかったようだ。
今すぐにでも封筒の中身を見たいのをグッと我慢して内ポケットから文庫本を取り出す。
開いてはみるが全く文章が頭に入って来ない。
一つ溜息をついて、昼休みになるのを待ち遠しく思うのだった。
昼休みを告げるチャイム鳴る。
それと同時に弁当を持ち、文芸部の部室へと向かう。あそこなら部員は自分だけなので、人に封筒の内容は見られないはずだ。
部室の前まで来ると少し鼓動が早まっている。いつの間にか急ぎ足で部室まで来てしまったようだ。
昼食そっちのけで封筒を開く。出てきたのは白の背景に花が描かれているシンプルな便箋だった。
やはり手紙だったかと思い、二つ折りにされていたそれを開く。
丁寧に書かれた文字には、真っ直ぐな思いが綴られている。
内容は、少し前に困っていたところを助けられ気になるよになったこと、そこから部活に打ち込む姿に心打たれたといった恋文で、今日の放課後に特別棟の空き教室で待つとのことだ。
読んでいて眉が潜む。内容に心当たりが無かった。誰かを手助けしたような覚えも無ければ、文芸部の自分が部活に打ち込む姿を顧問以外の誰かに見られるはずが無かったからだ。
やはり、ドッキリのため適当に書かれた手紙かとも考えたが、それにしては文章が丁寧で思いが詰まっている気がする。
いくら考えても答えは出ない。放課後になればわかることかと、手紙のことは忘れることにするのだった。
あっという間に放課後となった。
特別棟へと向かう。なんというか不思議な感覚だった、本当は自分を好いてくれる存在がいるのではないかという期待と嘘だった場合の恐怖が混在していた。
すぐに空き教室までたどり着く、ドアを開けるとまだ誰もいなかった。
先についてしまったのだろうか、心に一抹の不安がよぎる。
椅子に座っては立ち、窓の傍まで行き外を眺めたり、無意味に掃除用具入れを開いたり閉じたりと忙しなく動いているとコンコンと控えめなノックがした。
そのまま、失礼しますと震えた声の女の子が入って来た。
やはり知らない子だ。真新しいブレザーと胸元のリボンの色から1年生だとわかる。
ぎこちなく伏し目がちにこちらへとゆっくりと歩いて来る。
明らかに緊張している彼女の雰囲気から、自分の鼓動も高まった。
向かい合う彼女を見れば顔色が悪い。お互い何を言うわけでもなく少し沈黙が続く。
手汗で手が湿る。なんだか俺が告白するかのような気分だ。
すると、俯いた彼女が意を決したのか、静かに息を吸い込むのが聞こえてくる。
バッと顔が上がり目が合った。瞬間、勢いよく90度に腰から曲げる彼女。
「ごめんなさい!!」
空の教室に彼女の声が響いた。反響する言葉の意味を段々と理解していく。
……?あれ、いきなりフラれた……?
◇ ◇ ◇
間違えちゃった!間違えちゃった!!
何度も後悔の言葉が頭の中で反響する。
昨日、夜中まで何度も手紙の内容を書き直したせいだろうか。それとも、徹夜明けの興奮と好意を伝える緊張で舞い上がっていたせいだろうか。
近藤先輩の隣の靴箱へ書いた手紙を入れてしまったのだ。
朝、入れた手紙を受け取ってくれるかなと少し離れたところから見守っていると、その靴箱から知らない先輩が手紙を取って行くのが見えた。
えっ?と困惑していると先輩は足早に去ってしまい、後に来た近藤先輩が手紙を入れた隣の靴箱から上履きを取り出すのを見て完全に理解する。
入れる場所を間違えてる!?
しかも、なんだか体が大きくて威圧感のある先輩だった。手紙を見つけたときも難しそうな表情をしていたし、もし間違いだなんて言ったら怒られるよね……。
早鐘を打っていた心臓はすっかり治まり、胸を覆う不安から瞼が熱くなってくる。
早くあの先輩に間違いだったと伝えなければならないと思うが、2年生の教室に行くのは緊張するし、もしかしたら沢山の人の前で、告白しようとしていたのが露見する可能性もある。
無理だ、そう思った。そんなことになれば、しばらく学校に来れなくなってしまう。
そういえば名前は書いていなかったなと思い出し、一瞬、邪な考えが頭をよぎるがいけないと首を左右に振る。
もし、逃げ出してしまえば、関係のない先輩に迷惑が掛かってしまう。それに、学校に来るたびに後悔することは目に見えていた。
やっぱり、放課後に行くしかないよねと結論づける。そうして、うんうんと唸りながら机に突っ伏していると友人から声を掛けられた。
「よっす~。どしたの、そんなに唸って悩み?顔色も悪いし。」
気楽な挨拶から私を見て、薫が心配そうに顔を覗き込んでくる。
「あっ、おはよう薫ちゃん。ちょっと自分のせいなんだけど困ったことになって……。
顔色はたぶん寝不足のせいかな。」
自分でも分かるぐらい、ぎこちない笑顔をしていたと思う。
「ふ~ん、珍しいね。彩が夜更かしするなんて。それで、何に悩んでいたの?力になるけど。」
目をまっすぐ見て、当然のように手を差し伸べてくれる薫にはいつも助けられる。
「でも、完全に私の失敗だから。」
恥ずかしさも相まって机の上の手に視線を落とす、いつも薫に頼ってしまう申し訳なさから断ろうとした。
「まあまあ、話すだけでも違うかもしれないじゃん?それに、私も彩には勉強とかで助けられてるし、お互い様ってやつよ。」
私を気遣う言葉に胸が熱くなる。
加えて、ニコリと笑う薫は頼もしかった。
それじゃあと意を決して今朝のことを包み隠さず話したーーー。
「アハハハハッ!!なにそれ!?コメディじゃん!」
ものすごく笑われた。目尻に涙まで浮かんでいる。
もう二度と相談はしないと心に決める。
幸い、クラスは朝の喧噪でこちらに注目する人がいなかった。
「そんなに笑うことないじゃん……。」
自分でも声が低くなっているのがわかる。
「ごめん、ごめん。ちょっと待ってね。ふう……プフッ!」
軽く謝りながら一度落ち着く薫。こらえきれなかった笑いが噴き出していた。
瞬間、顔が熱くなり体に力が入る。
「笑うことないじゃん!!」
大きな声が出た。騒がしかったクラスが静かになったが、すぐにもとの喧騒に戻る。
「わわっ、ごめん、ごめんなさい!」
立ち上がった私を薫が落ち着かせるように、手をワタワタとさせて慌てながら謝る。
大声を出したことが恥ずかしくなり、静かに座りなおす。
「やっぱり、放課後に行くしかないと思うよ。」
一息ついてから、真面目な顔で薫が言う。
そうだよねと返すと薫が顔に手を当て少し考える仕草をする。
「よかったら、私もついていこっか?」
あっけらかんに言われた言葉に驚く。でも、今日は何か用事があったのではないかと聞く私に、そんなに時間も掛からないでしょと言う薫はやっぱり心強い存在だ。
それなら教室で待っていて欲しいと伝える。少し驚いて遠慮はいらないよと言われるが、つい薫の優しさに甘えそうになるのを我慢する。
「なんというか、それは不誠実な気がするから。私、1人で行くよ。」
私の言葉に少し眉を上げた後、優しく微笑む薫がわかった教室で待ってると言ってくれる。
こうやって、私の言葉を尊重してくれる薫は、自分にはもったいない親友だ。
あっという間に放課後となった。
よしっと拳を胸に当てる。薫に行って来ますと声を掛けて特別棟へ向かう。
目的地へ近づくたびに心臓の鼓動が早まる。
なんて言おうか、怒鳴られるかなとあれこれ考えていると目的の空き教室にたどり着いていた。
深く呼吸してから、ドアを開けると朝見た先輩がすでに待っていた。
先輩へと近づき、いざ言葉を発しようとして頭が真っ白となる。
だが、謝らないといけないことを辛うじて思い出し、息を吸い込んだ。
「ごめんなさい!!」
私の声が空き教室を反響させる。下を向いてしまったので先輩の表情はわからない。
しばらく沈黙が続く。もしかして怒っているのだろうか。
「あー、えっと、どういうこと?」
こちらを探るような当惑した先輩の声音が聞こえてくる。
言葉の意味を考えていると先輩に事情を説明していなかったことを思い出す。
そこで、間違えて手紙を先輩の靴箱に入れてしまったことを伝えて、いよいよ怒られると体に力が入る。
「そういうことか……。気にしていない、頭を上げてくれ。」
穏やかな、緊張している私を気遣うような口調で本当に気にしていないようにいう先輩に、つい驚いてしまう。
「おっ怒っていないんですか?」
つい聞いてしまった。
「怒る?まさか、むしろ君の行動には敬意を表するよ。」
予想外の返答に驚く。
「手紙には差出人の名前は書かれていなかった。だから、すっぽかしたところで誰にも責められはしない。そうでなく、君はここまで謝りに来た。」
ハッキリとした口調で本当に感心したように言い切る先輩に言葉が詰まる。
「そ、それは私が間違えたから、そうしないといけないと思ったからで……」
まさか、褒められるとは思っておらず、気恥ずかしさに尻すぼみになる。
「そう簡単では無かっただろう。名前も知らないうえに見た目が近づき難い先輩だ。なかなか出来ることじゃないと俺は思う。」
先輩の言葉になんだか胸がいっぱいになる。確かに体が大きくて、目つきが鋭いがこうして話してみると優しい人なのだと分かった。
「ありがとうございます!」
自然と感謝の言葉が口から出た。
すると、そっと先輩から私の書いた手紙を差し出される。
「申し訳ないが、中身は読ませてもらった。真っ直ぐな思いが詰まった良い手紙だったよ。文芸部の俺が言うから間違いない。」
私の拙くも頑張って書いた手紙を褒められることは、自分を認めてもらったような気がして嬉しくなる。
読まれた恥ずかしさはあるが、大丈夫ですと答えた。
先輩なら変に周りに言ったりはしないだろう。
「近藤さんとはあまり交流が無くて、協力はできないが陰ながら応援している。」
バツが悪そうに頭をかきながら苦笑する先輩。
「いえいえ!そんな協力だなんてとんでもないです!応援していただけるだけでも心強いです!」
私が迷惑をかけているのに、そんなことまでしてもらうわけにはいけないと慌てる。
「そうか、それじゃあ、頑張って。」
そういって優しく微笑んだ後に、先輩は教室から去っていった。
ふうと一息つき、体から力が抜けていく。
今朝は怒られると思っていたが、すごく優しい先輩で気を遣わせてしまった。
そう言えば、名前を聞いていなかったなと最後の優しい笑顔を思い出しつつおもうのだった。