今日も今日とて部活に勤しむ。とはいっても静かに本を読むだけだ。
普段なら背中を温める日差しがないことに気づき、窓の外に目を向けると暗雲が立ち込めていた。
朝に見たアプリの予報では雨マークは出ていなかった。
ためしに窓を開けてみると湿った土のような匂いが、塊となった温い風と共に流れてくる。
私の行動に外が分厚い雲で暗くなっていることに気づいた先輩が、今日は早めに帰ろうかと提案した。
もう終わりかと少し残念に思う気持ちになるが、雨に降られるのも嫌なのでそうですねと返す。
先輩と美味しいパンを見つけた話や昨日見た面白い動画なんかの話をしながら、昇降口まで歩いていく。
ドアを開けるとさっきよりも冷ややかな風が体を押し、タイルに雨粒が叩きつけられる音が耳に届いてきた。雨が振り始めていた。
傘は持っていなかった。
どうしよう、先輩に部室のカギを借りてしばらく待ってみようかな。
でもいつ止むかわからないよね。
そう考えあぐねていると、置き傘を取りに行っていた先輩から傘を差しだされる。
「はい、これ使ってくれ。それじゃ、また明日。」
忘れ物を届けるかのように傘を手渡されて、何を疑うことなく受け取ってしまう。
平然とカバンを頭の上に乗せて、走りだそうとする先輩を慌てて止めた。
「ちょっ、ちょっと何してるんですか!」
腕を掴んで止める私に眉を顰めて振り返る。
「いや、走って帰ろうかと。」
えぇと困惑の声が出てしまう。
当然のように真顔でそう言う先輩に、何だか私が間違っているような気さえしてきた。
「そんな……急に傘だけ渡されても困りますし、なんですぐ走り去ろうとすんですか。」
そう咎めるように言う私に、先輩が言いづらそうに首を撫でながら目をそらす。
言い逃れさせまいとジッと見ていると口を開いた。
「いや……ちょっと気恥ずかしさがでちゃって。」
その言葉に目を丸くする。
普段の落ち着いた感じは無く、年相応の雰囲気に心の内側がむず痒く感じた。
「もうっ!いつも堂々としてるのに、なんでこんな時は恥ずかしがるんですか!」
誤魔化すように苦笑いをする先輩に文句を言いつつも、先輩の珍しい表情と気遣われたことに、心臓の鼓動が早まるのを感じる。その優しさが嬉しかった。
だが、先輩を濡れて帰すわけにはいかない。
ただ、傘を返そうとしても絶対に受け取らないだろう。
ふぅと一息入れて意を決する。
「あの!……良かったら一緒に帰りませんか?」
ちょっと声が上擦ったかもしれない。
「いや、悪いからいいよ。」
にべもなくそう言う先輩に、不意にされたように感じてムッとしてしまう。
負けないと心に闘志が燃える。
じゃあ、傘を返しますと言うと大丈夫、走って帰るからと返す先輩。
そんなやり取りをエントランで何度も繰り広げる。
強情な先輩に煮え切れなくなった。
「じゃあ、先輩が走って帰るなら私も走って帰りますからね!」
私がそう言うと先輩は何か言おうと口を開けるが、言葉が見つからなかったのか溜めていた息を吐き出した。
「わかった。一緒に帰ろう。」
よし!勝った!
降参するように言った先輩の言葉に心の中でガッツポーズする。
強情な先輩を打ち負かしたことで達成感が湧いた。
先輩が私の手から傘を取る。
「これは俺の傘だから、俺が差すよ。」
そう言い傘を広げて、横のスペースを私にために空ける。
そのスペースへ入り、よろしくお願いしますと言いつつ、煙る雨の中へ歩き出す。
近い。傘がそこまで大きくないので、肩が触れ合いそうな距離だ。
お互い沈黙の中、雨音で周囲の雑音がかき消されて、まるで静かな世界に2人だけしかいないような気になる。
部室の静けさは穏やかで心地いいものだが、今の沈黙は何というか嫌ではないが逃げ出したいような、いつまでもこうしていたいような、もどかしい思いだ。
先輩はどうなのだろうと思い、斜め上へ目を向ける。
いつもの凛々しい表情で、まっすぐ前を向いている。
その変わらない姿に先輩らしいなと安心感がありながらも、少しは意識してほしい気持ちがチクリと心に針を刺す。
いや、ちょっと待て……よく見ると耳が若干、朱に染まっている。
先輩が照れている。
その事に気付いた途端、雨なんてものともしないほど、心の中が晴れ渡った。
私を意識して、私と同じように照れている。
その事が、何だか嬉しくて、恥ずかしくて、可愛くて体の底から弾けだしそうな気分だった。
自然と緩みそうになる頬に、力を込めて平静を装おうとする。
少し空いていた隙間を近寄って埋める。
降りしきる雨の中、この時間が続けばなと願うのだった。
「平野さんは、最初に夏が来たと感じるのはどんな時?」
沈黙に耐えかねたのか、突然聞かれる。
ぼんやりしてた頭を振り現実に戻る。
いつ夏だと感じるか……桜が散って、若葉をつけ始めた時は体感まだ春だし、夏だなと思うのは梅雨かなあと考える。
「梅雨ですかね。梅雨入りしたと聞くと、もうそんな時期かあってなるかも?」
パッとは他に思いつかなくて、尋ねるように答えてしまう。
「確かに、梅雨は夏の始め頃に来て、これから夏本番ですよと言ってくれてるみたいだよな。」
納得したような声で言う先輩。
なるほど、梅雨は夏の到来を知らせる便りとは、先輩らしい解釈だと思う。
「先輩はどうなんですか?」
先輩がなんてと答えるのか気になって聞いてみる。
「俺はそうだな、やっぱり蝉の鳴き声を聞いたときかなあ。」
以外だ、もっと風流な物が出てくると思っていた。
まあ、割とシンプルな物を好む先輩らしいと言えば先輩らしい。
「そうなんですね。でしたら、結構夏が本格的になりだして夏を感じるんですね。」
自分の感覚だと、梅雨明けぐらいからのイメージだ。
私の言葉にそうだなと答え、続きを喋り始める。
「何というか、夏が来たことがしっくりくると思うんだ。
それまでの梅雨や焼けるような日射しが、蝉の鳴き声と相まって心に落ち着いてくる。
このことを夏が落ちると言うのはどうだろうか。」
ニヤリと得意気な表情でそう言う先輩に、ロマンチストだなと思った。
夏が落ちるか、なんとなく私の心にもしっくり来たような気がした。
「良いですね。夏が落ちてくる。
何か小説の冒頭みたいです。」
そうだろうと喜色を含んだ声の先輩が、どんな小説だろうかと考え出した。
青春物語ですかね私が言うと、先輩がそれも想像出来るが以外とSFとか面白そうじゃないかと話が弾み、いつもの部室でするような時間が流れた。
しばらく話していると、キラリと光が目に入ってくる。
どうやら、いつの間にか晴れていたみたいだった。
雨粒が乾いた傘に、雨が止んでもしばらく傘の下で並んでいたことを教えてくれる。
その事に気付いて、私たち晴れた後も傘差してたんですねと先輩と笑いあった。
傘を畳んだ先輩を見ると、私から反対側の腕が濡れていた。
先輩は体が大きいのだから、私と並べば傘からはみ出すのは当然だ。
自分のことばかりで、すぐに分かるようなことが抜け落ちていたことに罪悪感が襲い来る。
「ごめんなさい!先輩の肩を濡らしてしまいました!」
慌ててハンカチを取り出し、申し訳なさで震える手で先輩の手を拭く。
すると、忙しなく動かす私の手をそっと止められる。
「大丈夫だ、この程度何ともない。」
「でもっ!」
軽く腕を回して、気にしていないことをアピールしながら穏やかに言う先輩に言葉が詰まってしまう。
気遣かわれたことが情けなくて、目の奥が熱くなってくる。
「あー、何というか……肩が暑かったから冷ましたかった的な?」
不安そうな私を見かねたのか、普段しっかりとした物言いなのに、あやふやな変なことを言い始める。
何と言えばいいのかをわからなくて、固まってしまう。
「いや、自分でもベタなことしたなと思うが、ここは先輩にカッコつけさせてくれると……嬉しい。」
恥ずかしいのか不器用な笑みを浮かべて少し早口で言う。
確かによく見るようなベタな展開だ。
でも、実際に自分がそういう立場になると申し訳なさが勝ってしまう。
だか、先輩にそう言われてしまっては、引き下がるしかない。
それと正直、ときめいてしまった。
「わ、わかりました。でも、今日はしっかり温まってください。
その、心配ですから……。」
もちろんそうするよと言って去っていく先輩の後姿を見えなくなる眺めるのだった。