薄暗い部屋の中、埃と血の匂いが混じっていた。
割れた窓から流れ込む夜風が、静かにカーテンを揺らしている。
瑞希は壁際に座り、
鬼から奪ったククリナイフを布で拭っていた。
刃の血が乾いてこびりつき、鈍い光を放つ。
彼女の指先が冷たく、それでいて滑らかに動く。
チョータは隣でうめき声を漏らしていた。
左足には包帯が厚く巻かれ、OLが必死に介抱している。
アリスは壁に背を預け、
その光景を見ながら無言で拳を握っていた。
沈黙が長く続いた。
けれど、誰もその沈黙を壊そうとしなかった。
――カチ、カチ。
瑞希の手が刃を磨く音だけが、
この部屋で“生きている”音だった。
カルベが、耐えられなくなったように口を開いた。
「……それ、まだ持ってんのかよ。」
瑞希は顔を上げない。
「生き残るために必要なものだ。」
「はぁ……“必要”ね。」
カルベは笑いながら立ち上がった。
その笑みには、怒りと恐怖が混ざっていた。
「お前さ、何も感じねぇのか?
あの時、お前がやったこと……鬼の頭、踏み潰したんだぞ。」
シブキの手が止まる。
チョータが顔を上げ、怯えたように瑞希を見た。
カルベは続ける。
「見たんだよ、俺は。あの床、血の海だった。
笑いも泣きもしねぇで、あんなことできる人間がいるかよ!」
瑞希の指が止まる。
布の動きが静かに止まり、
そのままククリナイフの刃を光の下に傾ける。
「……お前の言葉、軽いな。」
「は?」
「誰かが殺さなきゃ、誰かが死んでた。それだけのことだ。」
カルベは一歩前に出る。
「だからってあんなやり方あるかよ。
お前、化け物みてぇなんだよ……!」
その瞬間、空気が変わった。
瑞希が静かに立ち上がる。
何の音もなく、影が伸びる。
一瞬で、部屋の温度が数度下がったように感じた。
「……もう一度、言ってみろ。」
その声には怒鳴りも激情もない。
ただ、底なしの冷たさだけがあった。
カルベが口を開きかけた、その瞬間。
バチンッ。
アリスの拳がカルベの頬を打った。
鋭い音が狭い部屋に響く。
「黙れよ!」
カルベの身体が壁にぶつかる。
アリスの肩が震えていた。
「……いい加減にしろ。瑞希先輩は“助けた”んだ。
その結果がどんな形でも……責める資格、あんたにはねぇ!」
沈黙。
シブキが息を呑み、チョータが目を逸らす。
瑞希はゆっくりと息を吐き、
テーブルに置いてあった布を握りしめた。
「……もういい。」
立ち上がり、ククリナイフを手に取る。
刃がわずかに光を反射した。
「次のゲームには出ない。」
アリスが声を上げかけるが、
瑞希はそのまま背を向けて言葉を続けた。
「お前らがどう思おうが構わない。
でも――生きろ。それだけは守れ。」
ドアノブが軋み、
瑞希の足音が遠ざかっていく。
扉が閉まった瞬間、
部屋の中の空気がようやく動いた。
シブキは震えながら呟いた。
「……人の頭を……潰した……の?」
カルベは顔を押さえたまま黙り込み、
アリスは唇を噛んでいた。
瑞希の言葉だけが、
胸の奥に焼きついて離れなかった。
「――生きろ。それだけは守れ。」
そして時は流れ瑞希は4人の元から離れ翌日フラフラと歩いていたら観光ドームの所からアリスの姿が見えた。
観光ドームの天井は半分崩れ、ガラスの破片が太陽光を乱反射していた。
湿った土の匂いと焦げた植物の匂いが、
焼けた金属の臭気と混じって鼻を刺す。
足元には水が溜まり、破裂したパイプから水滴が落ち続けていた。
かつては観光客で賑わった“人工の楽園”。
今は、命の名を借りた死の箱庭だった。
アリスはその中心で立ち尽くしていた。
額には汗と涙の区別がつかないほどの湿気。
視線は虚ろで、手は震えていた。
カルベ、チョータ、シブキ。
名前を呼んでも、返ってくるのは風だけだった。
「……みんな、いない。」
その呟きが、緑の残骸の間で吸い込まれる。
喉が焼けるように痛い。
それでも、声を出さずにはいられなかった。
――どうして俺だけ。
その時、前方から足音が響いた。
アスファルトではない。濡れた土を踏む、静かな音。
アリスが顔を上げると、光の向こうに影があった。
逆光の中でゆらめく長い髪。
腰に差したククリナイフが鈍く光る。
瑞希だった。
「……先輩。」
アリスの声は掠れていた。
瑞希は数歩近づき、立ち止まった。
「……みんなは?」
その声には冷たさよりも、わずかな震えがあった。
彼女の瞳が、アリスの顔をまっすぐ捉える。
アリスは下を向いたまま答えた。
「……もう、いない。
カルベも……チョータも、シブキさんも……。」
瑞希の視線がわずかに揺れる。
息が詰まるような静寂。
彼女は一瞬、口を開きかけて、閉じた。
「……そう。」
たったそれだけ。
けれどその声は、鉄よりも重かった。
沈黙の中、アリスが絞り出すように言葉を継ぐ。
「……チョータとカルベが、伝えろって言ってたんだ。」
瑞希は顔を上げた。
光が頬を照らし、目元に涙の影が落ちる。
「チョータは……『先輩にいつも助けてもらった』って。
“勉強も、仕事も、何度も救われた”ってさ。
“母さんを助けられたのは、先輩のおかげだ”って言ってた。」
瑞希の喉が小さく鳴る。
遠い記憶が蘇る。
勉強を見てやった放課後。
困った顔で笑うチョータの顔。
「……あの子が、そんなことを。」
アリスは続けた。
「カルベも、言ってたよ。
“あの時、ひどいこと言った。化け物なんかじゃねぇ。
俺らを守ってくれた人だ”って。
“死ぬ前に、それだけは伝えてくれ”って。」
瑞希は俯いた。
ククリナイフの柄を握る手が震える。
革が軋み、刃が鈍く鳴る。
そして――頬を伝う涙が、一筋、刃に落ちた。
光を弾いて、小さな音を立てて弾けた。
〈バカが……なんで、私がいないところで死にやがって〉
心の奥で呟きながら、
瑞希は息を殺した。
それでも、涙だけは止められなかった。
アリスは見つめたまま、何も言えなかった。
彼女の涙は静かで、それがかえって痛かった。
瑞希は小さく息を吸い、かすれた声で言う。
「……ありがとう、アリス。」
そして、ゆっくりと前を向いた。
出口の向こうに、崩れたガラスの光が滲む。
「……生きろ。」
それだけを残して、彼女は歩き出した。
アリスが立ち尽くすその先――
ドームの出口で、一人の女性が瑞希の進路を塞ぐ。
宇佐木。
おにごっこの夜、
共に生き延びたロッククライマー。
互いの存在に気づいた瞬間、空気が張り詰めた。
瑞希は涙を拭わず、真っ直ぐ宇佐木を見た。
その目に宿るのは、強さと痛みの両方だった。
宇佐木は息を呑み、思わず立ち止まる。
「あの時の……」
瑞希は短く息を吸い、
低く、しかし確かな声で言った。
「――アリスを頼む。」
その言葉には命令も懇願もない。
ただ、“託す”という意志だけがあった。
宇佐木は迷わず頷く。
「……分かった。」
瑞希はそれを確認すると、何も言わずに歩き出す。
涙を拭わず、声を殺しながら。
光の中へ消えていく背中を見ながら、
宇佐木は胸の奥で呟いた。
「……人の心を、まだ持ってたんだね。」
風が吹く。
崩れたガラス片が陽光を反射し、きらめいた。
アリスは静かに拳を握る。
瑞希が残した言葉が、心の奥に焼きついて離れなかった。
「――生きろ。」
その声はもう聞こえなかった。
けれど確かに、アリスの中で息づいていた。