朝の光は、何も知らない顔でプールを照らす。
瑞希はエプロン姿で大鍋の蓋を開け、湯気を顔に浴びた。塩をひとつまみ、砂糖をわずかに。
「焦らず食え。ほら、こぼすな」
眠たげな少年の利き手にスプーンを差し替え、包帯の端を切り揃える。結び目は小さく、ほどけにくく。
――いつもの瑞希だ。
腰のククリは見える位置にあるのに、誰も怖がらない。ここでは、それが安心の印になっていた。
アリスと宇佐木は少し離れたテーブルでパンを分け合う。
昨夜の血の影は、まだ胸のどこかでひっかかっている。けれど目の前の瑞希は、たしかに“あの先輩”だった。
「……戻ってるな」
「うん」宇佐木は頷く。「生きるための顔に」
風が運んできたのは、潮の匂いではなく、ざわめきだった。
走ってくる連絡係の靴音。
短い合図。
低く、冷たい言葉。
「――ボーシヤが“ゲームオーバー”になった。」
ざわめきが波紋のように広がった。
椅子が引かれ、コップが倒れ、誰かが笑って取り繕い、誰かが泣いた。
瑞希は鍋の火を弱めた。ほんの一拍だけ目を閉じ、すぐに手を動かす。
「食べ終わったらホールへ。転ぶなよ」
声色は変わらない。けれど、その背に硬い板のような沈黙が貼りついた。
---検証 ― 映像と沈黙(続)---
記録室。
アンは昨夜の解析から別フォルダを開き、今朝届いた断片映像を並べた。
外部のゲーム会場近く。熱の揺らぎ、フレームに混じる粉塵。
音声はない。それでも会話のリズムは読み取れる。
――男の肩が怒りで跳ねる。もう一人の男は静かに首を振る。
近距離。
閃光。
倒れる影。
「弾道は……」アンは息を止め、指先だけでコマ送りする。
近接発火痕。火薬残渣。
“ゲームの罰”ではない。これは――人為。
扉がノックされ、チシヤが顔を出す。
「で?」
「公式見解は“ゲームオーバー”」アンはモニターを伏せる。「でも、現実は別だ」
「誰が撃った?」
アンは答えない。
チシヤは肩をすくめ、飴を口に落とす。
「真相はあとでいい。今は――空位を誰が埋めるか、だよ」
---幹部会 ― 空席と火種---
ホールの照明は昼の色に戻っていた。
長卓の上にカード一覧、供給表、当番表。
席順は変わらない――ただ、中央の椅子だけが空だ。
アグニは黙って腕を組み、ニラギは椅子に乱暴に腰を投げた。
九頭竜はペン先で卓を小さく叩き、ミラは遠い海を眺めるように微笑む。
チシヤは相変わらず退屈そうで、アンは手帳を開いたまま視線を上げない。
瑞希は最後に入ってきて、空席から半歩だけ外れた位置に立った。
アリスと宇佐木は後列、壁際。呼ばれたのは“居合わせた証人”として、そして――次局の駒として。
九頭竜「議題は二つ。一、次の指揮体制。二、外部ゲームの出動方針。追加があれば。」
ニラギがあくびを噛み殺し、笑う。
「簡単だろ? 力のあるやつが座る。俺か、アグニさんだ」
空気がざらつく。武闘派の列が目だけで同調する。
ミラは指を組み、やわらかく首を傾けた。
「“理想”は継承されるべき。形を壊すと、人は簡単に獣になるわ」
チシヤが横目で笑う。「もう十分獣だけどね」
アンが短く咳払いした。
「まず安全保障。ボーシヤ不在で“儀式”が機能不全になる。恐怖の半減期は三日。補填には“ルール”が要る」
九頭竜が頷く。「数値上も同意。今日中に暫定体制を」
アグニは前を見たまま、低い声を落とした。
「俺はやらねぇ」
ニラギが肩をすくめる。「じゃ、俺だな。文句あるか?」
その瞬間、瑞希が半歩前に出た。
視線だけで場が止まる。
「裏切りが出る」と、誰も口にしていないのに、全員が想像する沈黙。
瑞希の声は静かだった。
「いま必要なのは“処刑”じゃない。“食料と当番と出動の線表”。三日で“楽園”が腐る。順番を決める」
アリスの喉が動く。
(先輩、やっぱり……)
ミラが笑む。
「提案をどうぞ?」
瑞希は卓上の供給表に目を落とした。
「三頭体制。九頭竜――供給と記録。アン――治安と調査。ミラ――住民管理と心理。
武闘派は当番制で巡回。指揮系統はこの三人に並走、拒否権は無し」
ざわつき。
ニラギが椅子を蹴る。「は? 誰がそんなもんに従う――」
刹那、瑞希の視線が刺さる。言葉が勝手に喉で止まる。
(昨夜の血の匂いを、彼はまだ覚えている)
「さらに」瑞希は続ける。「外部ゲームは志願制。ただし“勝ち筋”が見えない局には出さない。死体は“理想”を育てない」
チシヤが口笛を飲む。「言うねぇ。ボーシヤが泣くよ」
誰も笑わない。ミラだけが、ゆっくりまばたきした。
九頭竜は計算を終え、ペンを置いた。
「数字は通る。三日間の暫定なら、被害は最小化できる」
アンも頷く。「治安と調査は引き受ける。ただし情報は私に集めて」
アグニが低く言う。「武闘派は回す。……だが俺の部下を“見せしめ”に使うな」
(借りは作らない。作らせない――彼の横顔が固く、瑞希は目だけで返事をした)
ニラギが不満を手で潰した。
「ちっ……好きにやれよ。どうせ俺の番は来る」
その言葉に、瑞希の目が一瞬だけ細くなる。見逃した者はいない。
九頭竜「では決定する。
暫定:ミラ、九頭竜、アンの三頭。武闘派はアグニ指揮で巡回。当番表は一時間後に掲示。
瑞希は――」
アンが遮る。「瑞希は抑止。必要な時だけ動く。普段は、食堂と救護のままで」
瑞希は小さく頷いた。
(それが、たぶん今の正解)
---空位の重さ ― 表の発表、裏の囁き---
掲示板に新しい紙が貼られる音。
「暫定体制」「巡回ルート」「外部ゲーム志願」。
人々は紙の前で立ち止まり、噂が噂を上書きしていく。
『ボーシヤはゲームで死んだ』
『いや、人に撃たれたらしい』
『誰に?』『言えるわけないだろ』
『瑞希さんは?』『食堂にいた。子ども抱えてた』
『あの人がいれば、とりあえず大丈夫だ』
瑞希は厨房で鍋を拭き、包丁を研ぐ。
研ぎ目は薄く、刃は静かに寄ってくる。
(“理想”のあとに残るのは、腹と傷だ。まず、満たす)
そこへアンが入ってくる。
「ひとつ、確認。……昨夜、あなたは迷った?」
瑞希は返事をしない。
アンはそれでよかったらしい。「迷えるなら、まだ戻れる。だから――壊れないで」
彼女は出ていく。背に、瑞希は小さく「ありがとう」とだけ落とした。
---議場の影 ― それぞれの胸中---
アグニ(空位は腐る。俺の拳で塞げるなら塞ぐ。だが“あいつ”に借りは作らねぇ。武闘派の魂のほうが重い)
彼は拳を開き、ゆっくり握り直す。骨が鳴る音は、誰にも聞こえない。
ニラギ(今は引く。だが引いただけ跳ねる。力は見せるタイミングだ)
彼は笑い、銃の安全装置を指先で撫でた。
ミラ(舞台は整う。空位は“事件”を呼ぶ。心が剥がれる音を、私は待つ)
微笑は海風のように薄い。誰もその温度を測れない。
九頭竜:
(三日。恐怖の半減期。四日目に来る反動を、どのルートで逃がす?)
紙の角を揃え、数字の端を撫でる。秩序は端から崩れる。
チシヤ(理想が死んだ。次は“真理”の出番。――さて、心臓を最初に露出するのは誰?)
飴玉を転がし、退屈そうに天井を見た。
アン(真相は知っている。けれど今、暴くことは国を壊す行為だ)
手帳の新しい頁に線を引く。――“火種:内密”
アリス(先輩は、戻っていた。食堂の先輩だ。でも、あの刃も先輩だ)
胸の中で二枚の瑞希が擦れ合い、音が出ない。
瑞希(“理想”は形だ。生かすには、まず温度を戻す。三日。……間に合え)
鍋の蓋を閉じ、火を落とす。匂いが、ほっとする匂いに変わった。
---小さな合図---
夕刻。
太陽が斜めに差し、プールの水面が硝子のように硬く見える時刻。
掲示板の下で、アリスと瑞希がすれ違う。
言葉は要らなかった。
瑞希は顎で「食べたか」と訊き、アリスはうなずく。
ほんの一瞬、彼女の目に生の色が戻る。
次の瞬間には、また“死んだ目”に似た静けさが降りる。
(必要になれば、刃になる。その約束が、彼女を生かしている)
その背を、宇佐木が見送った。
「ねぇ、アリス。——あの人さ、きっと自分のこと、まだ人間だと思いたいんだよ」
アリスは笑わなかった。
「思いたい、じゃなくて。……そうであってほしい」
---告知 ― 次のゲーム---
夜、館内放送が短く鳴った。
“ハート/10”の札ではない。まだあの地獄は来ていない。
けれど、ぞくりと背が冷える。
“スペード/高難度”――外部制圧班、志願制。
瑞希はエプロンを外し、刃の鞘に指を添えた。
アンが通路の向こうで頷く。
アグニは無言で部下を指さし、当番表の列を入れ替えた。
ニラギは笑い、チシヤは飴を嚙み砕いた。
ミラは鏡越しに自分の瞳を見る。九頭竜は時計を一度だけ見る。
空位のまま、国は回り始める。
三日限りの理性が、薄い膜のように夜を覆った。
そして始まった楽園の崩壊の音が…「魔女を探せ! 見つけ次第、燃やせ」