火の匂いが、空気を侵していた。
風は熱を運び、ホテルの壁を赤く染める。
夜のビーチが地獄に変わるまでに――そう、時間はほとんどかからなかった。
ホールの中央には、ひとりの女性の亡骸が横たわっている。
胸には包丁。心臓を正確に貫き、抜かれた跡もない。
その姿を見下ろしながら、アグニは唇を噛み切っていた。
「……魔女がいる。こいつじゃねぇ。まだ、どこかに隠れてる。」
武闘派の部下たちは顔を見合わせる。
リーダーの命令を疑うことはできない。だから一人が吠えた。
「魔女を探せ! 見つけ次第、燃やせ!!」
その瞬間、秩序は崩れた。
悲鳴。泣き声。炎。銃声。
理想の国《ビーチ》は、たった一言で地獄の舞台になった。
---アンの検視---
混乱の中、アンはホールへ駆け込む。
焼ける匂いが鼻の奥を刺す。
床に膝をつき、手袋をはめ、亡骸の胸に刺さった包丁の柄に指をかけた。
ゆっくりと抜く。血の塊が滴り落ちる。
刃の向き、刺入角度、深度、心臓の貫通点――。
「……逆手、だ。」
声が震える。完璧な“自殺”。
柄の指紋は彼女自身のものだけ。誰にも殺されていない。
クイナが肩を支えた。
「……自分で?」
アンは頷く。
「彼女は“魔女”だった。誰も殺していない。ただ、終わらせたのよ。」
クイナの目に涙が滲む。
「皆を……守るために、死んだんだね。」
---アリスの叫び---
アリスは燃える廊下を駆けた。
煙が目に刺さり、喉が焼ける。
扉を押し開け、炎の向こうへ叫ぶ。
「アグニ! やめろ!」
ホールの奥で、アグニが振り返る。
煤で汚れた顔、涙で濡れた目。だが拳銃は下りない。
「魔女を探すんだ! 俺は理想を守る!」
「違う! その理想は、ボーシヤと一緒に死んだ!」
「黙れ!」
アリスは歯を食いしばる。
「親友を失った痛みは、俺が一番わかる! でも、これ以上は違う!あんたは……魔女なんかじゃない!」
アグニの肩が揺れる。わずかに銃口が下がる。
そのとき、別の怒号が火の海を切り裂いた。
「魔女を見たぞ!」
「燃やせぇ!!」
銃声が重なる。炎が跳ね、天井が軋む。
---瑞希の決断---
廊下の奥から、瑞希が歩いてきた。
炎の反射が頬を舐め、汗が首筋を伝う。表情は静かだ。
腰のククリナイフを抜く。刃が赤く光る。
彼女はアグニの前に立ち、低く言った。
「もうやめろ、アグニ。これは処刑じゃない。」
「邪魔するな!」
「お前は、守るためにここにいるだろ。」
一瞬、アグニの手が震えた。
瑞希はその隙に踏み込み、手首を取り、肘を軽く返す。
鈍い音。拳銃が床に落ちる。
アグニの身体が前に崩れかける。瑞希の腕が受け止め、頬を軽く叩いた。
「……もう休め。」
アグニは糸が切れたように気を失う。
駆け寄ったアリスを見ることなく、瑞希は短く告げた。
「こいつを頼む。」
背を向けて、炎の方へ消える。
---混沌の炎と住民の守護---
ビーチの建物全体が火に包まれていた。
プールが蒸気を吐き、ガラスが爆ぜ、空気そのものが焦げていく。
武闘派は狂乱の渦に飲まれ、住民を壁際へ追い詰める。
「子どもがまだ中に――!」
「やめろ、撃つな!」
「うるせぇ、魔女かもしれねぇだろ!!」
瑞希は走った。迷いがない。
目に映るのは“守るべき命”だけ。
角を曲がる。三人の武闘派が母子を囲む。
男のひとりが笑い、引き金に指をかけた――その瞬間、瑞希の姿が掻き消える。
次の瞬間、刃の軌跡が一筋、宙を裂く。
最初の男が崩れ落ちるより速く、瑞希は二人目の腕を取り、肘を折り、膝裏を蹴る。
三人目の銃口が火を噴くが、弾は壁に吸われ、瑞希は一歩で間を詰め、喉を断つ。
音は短く、確か。叫びは途切れ、通路が開く。
「通れ。」
ただそれだけ。
母親が子を抱えて走り抜ける。
背中が消えるまで、瑞希は動かない。
別の通路。五人編成の武闘派が“壁”を作る。
彼女は近づき、止まらず、告げる。
「――来るなら、全員で来い。」
誰も動けない。
彼女の刃がひとたび閃くと、二人が沈む。
残りが撃とうとした瞬間には、もう手遅れだ。
喉、脇腹、足首。最短の軌道で止める。
結果として、誰も立っていない。
瑞希の顔には怒りも涙もない。
使命だけ。
“殺すためではなく、生を通すために奪う”という、冷たい決断。
遠巻きに見ていたアリスは、息を呑む。
(処刑人じゃない。……本当の先輩だ。)
---ニラギ、地獄からの帰還---
轟音。
天井が裂け、火の粉とともに一つの影が落ちてくる。
ニラギ。
全身を焼き、目は狂気で濁り、笑う口だけが白く残っている。
「ハハハッ、最高だろ!? これが楽園の終わりだ!」
弾はないのに、引き金を引き続ける。金属音だけが乾いて響く。
瑞希はナイフを握り直した。
「もう終わりにしよう、ニラギ。」
「終わり? 俺はまだ燃え足りねぇ!」
突進。
刃と刃が火花を散らす。
力で押すニラギを、瑞希は腕を絡めて軸を奪い、膝を逆に折る。
悲鳴。返す一拍で首を極め、後ろから抱き込む。
「……もう、誰も殺させない。」
炎の壁が迫る。
アグニが目を覚まし、叫ぶ。「やめろ、瑞希!」
彼女は首を横に振り、アリスと宇佐木を一瞥で制した。
「行け。これは、私の仕事だ。」
アリスの喉が震える。
「先輩!」
振り向かない。
瑞希はニラギを抑えたまま、炎の中へ踏み出した。
狂笑が一瞬で掻き消え、炎が二人を飲み込む。
爆ぜる音、白い光。
音が、消える。
「……ごめんなさい。」
その声だけが、確かに届いた。
---灰の夜明け---
朝。
ビーチは燃え尽き、灰の匂いが沈む。
瓦礫の間に、一本のククリナイフが転がっていた。
アリスはそれを拾い上げ、刃を見つめる。
焼けた金属に自分の顔が揺れる。
「……生きろ。」
夜の声が胸の底で反響する。
アグニは膝をつき、手を合わせた。
「借りを作っちまったな、瑞希。」
アンは記録帳を閉じ、静かに涙を拭う。
クイナは空を見上げ、低く言う。
「最後まで、人を救うために戦ってた。」
宇佐木がアリスの隣に立ち、頷いた。
「行こう、アリス。まだ終わってない。」
アリスはナイフを腰に差し、煙の向こうの光を見た。
理想は燃えた。
それでも、生は残った。
瑞希が繋いだ火が、確かにそこにあった。