人間関係に修復不能なエラーが発生した場合、どうすべきか。
再起動か、初期化か、それとも諦めて電源を落とすか。
奉仕部という小さな箱庭で俺たちが追い求めた『本物』という名の理想は、その実、互いを傷つけるための刃でしかなかったのかもしれない。雪ノ下雪乃の依頼、由比ヶ浜結衣の願い、そして俺の自己犠牲という名の欺瞞。それらが複雑に絡み合い、解きほぐせない結び目となって俺たち三人を雁字搦めにしていた。
気まずい沈黙が支配する部室からの帰り道は、いつも以上に足が重い。家に帰り着き、妹の小町に当たり障りのない会話で取り繕って自室に逃げ込むと、俺は制服も脱がずにベッドへ倒れ込んだ。
(もう、疲れた……)
思考することを放棄するように、俺は固く目を閉じた。このまま何も考えず、眠ってしまおう。明日になれば、何か変わるかもしれない。そんなありもしない希望に微かに期待して。
比企谷八幡の意識は、泥のような眠りの中へと沈んでいった。
次に意識が浮上した時、最初に感じたのは酷い倦怠感ではなかった。首を動かすと、視界に飛び込んできたのは見慣れた自室の木目の天井ではない。
彫刻が施された豪奢なドーム状の天井。磨き上げられた大理石の床に、壁には見たこともない意匠のタペストリーが飾られている。空気はひんやりと澄み渡り、まるで巨大な美術館か、あるいは王宮の一室にでもいるかのようだ。
「……は?」
掠れた声が漏れる。状況が全く理解できない。夢か?にしては、肌を撫でる空気の冷たさも、シーツの滑らかな感触も、やけにリアルだった。
体を起こそうとして、ズキリ、と脳の芯が疼いた。
(なんだ……これ……)
次の瞬間、俺の頭の中に、俺のものではない『何か』が濁流のように流れ込んできた。
偉大なる我らが創造主、至高の御方々に絶対の忠誠を。
我が製作者、スーラータン様。その御身は我らの理想。
ここはナザリック地下大墳墓、第九階層。至高の御方々の住まいし場所。
我は比企谷八幡。階層守護者には及ばぬものの、スーラータン様によって生み出された特別なNPC。
役職は『ナザリック学園』教頭。現在は計画が凍結されているため、待機状態にある。
忠誠を。アインズ・ウール・ゴウンに永遠の忠誠を捧げよ。
知らないはずの知識。知らないはずの忠誠心。知らないはずの記録。
それらが俺の脳を蹂躏し、俺自身の記憶と混ざり合い、境界線を曖昧にしていく。
総武高校に通う比企谷八幡としての十六年間と、ナザリックのNPCとして設定された記録が、互いに存在を主張し合い、激しく衝突する。
「ぐっ……う、あああああああああああっ!」
割れる。頭が、割れる。
耐えきれない激痛に、俺は頭を抱えてベッドから転げ落ち、ただ絶叫した。意識が朦朧とする中、重厚な扉がゆっくりと開く音が、遠くに聞こえた気がした。
同時刻。ナザリック地下大墳墓、第九階層。玉座の間。
アインズ・ウール・ゴウン――かつてのモモンガは、リザードマンの集落を支配下に置き、一つの実験を終えた後の静かな思索に耽っていた。
今後のナザリックの方針、この世界の情報の収集、そして、いつかこの世界にいるかもしれないかつての仲間たちのこと。
そんな彼の思考を遮るように、守護者総監督であるアルベドが、緊張を滲ませた声で報告を上げた。
「アインズ様、緊急のご報告です。第九階層より、所属不明の絶叫が確認されたとの報せが、当直のメイドから入りました」
「……第九階層から?何かの侵入か?」
アインズの内なる鈴木悟は冷静に状況を分析する。第九階層は、至高の41人のプライベートエリア。ここに侵入できる者がいるとは到底思えない。
「いえ、侵入の形跡は一切ございません。音の発生源は……かつての至高の御方、スーラータン様の私室であるとのこと」
「なに?スーラータンの?」
スーラータン。ギルド《アインズ・ウール・ゴウン》の仲間の一人。
トリッキーな戦術と、悪趣味なジョークをこよなく愛した男。彼はギルドメンバーの中でも特にNPCのキャラ設定に凝っており、「いつかナザリックで学園モノをやろうぜ!」などと提案し、ペロロンチーノたちと一緒にはしゃいでいたことを思い出す。
(彼の部屋に何か異常が?彼が残したギミックか、あるいは……)
一抹の不安と、微かな期待がアインズの心をよぎる。
「アルベド。万が一に備え、お前は完全武装で私に続け。他の者は下がらせろ。私が行く」
「はっ!御身に危険が及ばぬよう、このアルベド、命に代えてもお守りいたします!」
忠誠心を示すアルベドを伴い、アインズは転移でスーラータンの部屋の前へと移動した。そこは、ユグドラシル時代から何一つ変わらない、懐かしい扉。だが、その向こうから、確かに微かな呻き声が聞こえる。
アインズはアルベドに目配せし、ゆっくりと扉を開いた。
そこにいたのは、異形の怪物ではなかった。
見慣れない黒い詰襟の制服を着た、黒髪の青年が床に倒れている。その目はひどく濁っており、苦痛に顔を歪めていた。
そして、こちらに気づくと、彼は驚愕に目を見開いたまま、ふっと意識を失った。
(誰だ……?NPCリストにこんな者はいなかったはず。だが、この部屋にいるということは……スーラータンの隠しNPCか?)
アインズは亡き友の遺産かもしれぬ存在を前に、慎重な対応を心に決めた。
次に俺が目を覚ました時、頭痛は嘘のように消え去っていた。
しかし、安堵する暇はなかった。
俺の目の前に、玉座に鎮座する巨大な骸骨がいたからだ。
豪華なローブを纏い、その空虚な眼窩からは赤い光が妖しく揺らめいている。骸骨の魔王、あるいは死の神。そんな陳腐な表現しか思いつかないほどの、圧倒的な存在感と威圧感。
そして、その周囲には、純白のドレスを纏った絶世の美女、重厚な鎧に身を包んだ昆虫の怪物、双子っぽい幼女と少年……人ならざる者たちが、冷たい殺意を込めた視線で俺を見下ろし、武器を向けていた。
(……終わった)
比企谷八幡の人生、ここで強制終了のお知らせ。
トラックに轢かれるでもなく、通り魔に刺されるでもなく、異世界で化け物に囲まれて死ぬ。ラノベの主人公ならここからチート能力覚醒の胸熱展開だが、俺は違う。俺はただの千葉のぼっち高校生だ。何もできない。
混乱と恐怖で声も出せずにいると、玉座の骸骨が、その顎をこつりと鳴らした。地獄の底から響くような、荘厳な声が響く。
「―――目覚めたか。我が前にありながら、意識を失うとは良い度胸だ。……だが、今は許そう。まずは問う。名を言えるか?」
死の宣告を待つ罪人のように、俺はただ震えていた。だが、その問いに答えるべきだと、頭のどこかで誰かが叫んでいる。脳に流れ込んできた、あの『記録』が。
「ひ、きがや……はちまん……」
かろうじて絞り出した自分の名前に、骸骨の王――アインズはわずかに頷いたように見えた。彼は再び、重々しく口を開く。
「では、次の問いだ。私の名は分かるか?」
その質問をされた瞬間、俺の口は、俺の意思とは関係なく動いた。
疑問など微塵もなかった。知っている。分かっている。この御方こそが、このナザリックの、我々の、絶対の支配者。
「……モモンガ様」
その名を口にした瞬間、場の空気が変わった。
俺に向けて放たれていた殺意が霧散し、周囲の化け物たちが動揺しているのが分かる。
そして、俺自身が一番驚いていた。なぜ、俺はこの骸骨の名前を知っている?
骸骨の王は、空の眼窩で俺をじっと見つめた後、周囲に命じた。
「皆、武器を下げよ。どうやら、彼は我らに敵意を持つ者ではないようだ」
そして、彼はゆっくりと玉座から立ち上がると、俺に言った。
「立てるか、比企谷八幡。私のことはアインズ・ウール・ゴウンと呼ぶがいい。……少し、二人で話がしたい」
案内されたのは、先程とは別の豪奢な一室だった。
アインズと名乗った骸骨の王と二人きり。他の化け物たちがいないだけマシだが、この絶対的な存在と差し向かいで座るプレッシャーは尋常ではない。
「さて……単刀直入に聞こう。お前は何者だ?なぜスーラータンの部屋にいた?」
アインズの問いに、俺は正直に話すしかなかった。
千葉県の総武高校に通う高校二年生であること。奉仕部という部活に所属していること。人間関係に疲れ果てて眠ったら、ここにいたこと。
支離滅裂な話だとは自分でも思う。だが、それ以外に説明のしようがない。
俺の話を、アインズは黙って聞いていた。時折、感心したように頷きながら。
「なるほど……そうか。スーラータンめ、そこまで詳細なバックグラウンドストーリーを作り込んでいたとは。さすがと言うべきか……」
(バックグラウンドストーリー?何を言っているんだ、この骸骨は……)
俺の困惑をよそに、アインズは何かを深く納得した様子だった。そして、しばらく沈黙した後、どこか言いにくそうに、しかし有無を言わせぬ響きで、俺に宣告した。
「比企谷八幡。お前にとっては、受け入れ難いことかもしれん。だが、真実を伝えねばなるまい」
ゴクリと、喉が鳴る。
「落ち着いて聞いてほしい。……今の君は、もはや人間ではない」
その言葉は、どんな罵詈雑言よりも、どんな暴力よりも、俺の心を深く抉った。
俺は再び、最初の部屋――スーラータンの私室に戻されていた。
人間ではない。
アインズの言葉が、頭の中で何度も反響する。そんなはずはない。俺は比企谷八幡だ。平塚先生にしごかれ、戸塚の可愛さに癒され、小町のあざとさにため息をつく、ただの高校生だ。
(ステータス……)
ふと、脳裏にそんな単語が浮かんだ。ゲームでよくある、あれだ。
祈るように、あるいは念じるように意識を集中すると、目の前に半透明のウィンドウが現れた。
名前: 比企谷八幡
種族: 妖怪(アヤカシ)
レベル: 88
称号: 創造主の忘れ形見、ひねくれ者
(その他、膨大なスキルとデータが続く)
「……ははっ」
乾いた笑いが漏れた。
Lv88。妖怪。人間ではないという事実は、紛れもないデータとして俺の目の前に突きつけられた。ショックというよりも、もはや呆然とするしかなかった。
それから三日間、俺は部屋に閉じこもって考え続けた。
元の世界でのことを。
必死に守ろうとした日常。雪ノ下も、由比ヶ浜も、小町も、ここにはいない。俺が必死に求めて、そして見つけられなかった『本物』の関係。それら全てが、もう手の届かない、遠い世界の出来事になってしまった。
絶望に、沈んだ。
もうどうでもいいか、とすら思った。
だが、腐った目で世界を斜めに見てきたこの性根は、絶望の淵でもまだ思考を止めなかった。
(元の世界では、見つけられなかった)
欺瞞に満ちた自己犠牲で、上辺だけの関係を取り繕って、俺は結局何も手に入れられなかった。
だが、ここは違う。
俺はもう人間ですらない。失うものは、もう何もない。
ならば。
(ならば、ここで探せばいいんじゃないか?)
高校生の比企谷八幡にはできなかったやり方で。人間という枷を外された、この自分で。
誰にも理解されなくていい。誰かに認められなくてもいい。
俺が「これだ」と信じられる、ただ一つの『本物』を。
そう思い至った瞬間、心の靄が少しだけ晴れた気がした。
俺はゆっくりと立ち上がり、鏡に映る自分を見た。そこにいたのは、以前と変わらない、目の腐った青年だ。
だが、その瞳の奥に宿る光は、以前の諦観に満ちたそれとは、わずかに違って見えた。
俺は部屋の扉を開け、アインズへの謁見を求めた。
玉座の間で、再び絶対的な支配者の前に膝をつく。
「アインズ様。お願いがあります」
「……申してみよ」
俺は顔を上げ、まっすぐに骸骨の王を見据えた。
「このナザリックで、俺に何かできる仕事はありませんか?」
比企谷八幡の異世界での奉仕活動が、今、始まろうとしていた。
彼の求める『本物』が、この絶望と栄光に満ちたナザリック地下大墳墓にあるのか、まだ誰にも分からない。
挿絵のリクエストです。
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