王都の石畳を歩く私の心臓は、先ほどから耳元で鐘を打つようにうるさかった。
背後には、あの特訓以来ようやく再会できたハチが、臨時護衛として付いてきてくれている。彼が後ろにいてくれる、ただそれだけの事実が、今の私にどれほどの勇気を与えてくれているか。
けれど、目的地が近づくにつれ、私の心には別の不安が影を落としていた。
(……叔父様。よりにもよって、今日、彼に会わせることになるなんて)
私の親族の中でも、アズス叔父様は最悪と言っていいほど素行が悪い。王国最強のアダマンタイト級冒険者として尊敬はしているけれど、その私生活は、ハチのような高潔で芯の強い人に見せられるようなものでは決してなかった。
「……ハチ、みんな。一応、中に入る前に言っておくわ」
私は廊下で立ち止まり、深く重いため息を吐き出した。
「これから会う私の叔父は、正直に言って……かなり破天荒で、不謹慎な人物なの。身内として恥ずかしいのだけれど……何があっても、気にしないでちょうだい」
「……そんなにクソなのか?」
ハチが、あの少し眠たげで、けれど全てを見透かしているような瞳で私を見る。
「……ええ、否定できないわ」
私は情けなさで胸が締め付けられる思いをしながら、重い扉に手をかけた。
その瞬間、扉の隙間から漏れ聞こえてきたのは、聞くに堪えない女たちの嬌声だった。
頭がクラクラする。視界が真っ赤に染まるような羞恥心が、私の全身を駆け抜けた。最悪だ。私の大切な人たちを、こんな不浄な場に立ち会わせてしまうなんて。
「…………マジかよ」
ハチの低い呟きが、鋭い刃のように私の胸を刺す。
私は逃げ出したい衝動を必死に抑え、意を決して扉を開けた。
案の定、そこにいたのは二人の女性を両膝に乗せた、だらしない笑みを浮かべるアズス叔父様だった。
「叔父様! いい加減にしてください! これから大事な話し合いの場だと言うのに……!」
私は精一杯の軽蔑を込めて叫んだ。ハチに見られている。その事実が、私を余計に攻撃的にさせた。
「別にいいだろう? ヤッてる訳じゃあるまいし」
叔父様は悪びれもせず、女の胸を弄る。その卑俗な振る舞いに、私は自分の血筋すら呪いたくなった。
イビルアイが呆れたように魔法で女性たちを下がらせてくれたけれど、一度汚された空気は元には戻らない。叔父様への怒りと、ハチに対する申し訳なさで、私の指先は微かに震えていた。
(……消えた?)
不意に、ハチの気配が霧が晴れるように消失した。
彼が《不可視化》を使ったのだと理解すると同時に、私は少しだけ安堵した。あんな叔父様の姿を、これ以上彼に直視されずに済む。
だが、安堵の時間は一瞬で終わった。
扉から入ってきた三人の男女。彼らが纏う空気は、先ほどまでの叔父様の卑俗さを一瞬で塗りつぶすほど、鋭く、そして重かった。
(……っ! なに、この人たち……!)
背筋を氷の柱が突き抜けるような感覚。冒険者としての私の本能が、最大級の警鐘を鳴らしている。
私よりも強い。それも、少しやそっとの差ではない。
金髪の男――交渉役らしき男が浮かべる笑みは、完璧に計算され、慈悲の裏に冷酷な選別を隠しているように見えた。
その後ろに立つ、岩のような大柄な男。彼が戦斧を床に叩きつけた瞬間、その衝撃波だけで私の心臓が潰されそうになった。
(魔導国だけじゃない……世界には、こんな怪物がまだ潜んでいたというの……?)
魔女と呼ばれた女と叔父様が毒を吐き合う中、私の喉は完全に干上がっていた。空気そのものが重粘な液体のようで、呼吸をするのさえ苦しい。
彼らの正体も目的も分からない。ただ一つ分かるのは、今ここで彼らがその気になれば、私たちは一瞬で屠られるだろうということだけだ。
「……スカウトしに参りました」
男が放った言葉に、意識が遠のきそうになる。アダマンタイト級を『スカウト』? 私たちを、自分たちの配下として使える駒だと思っているというの?
その傲慢さに憤る余裕さえ、今の私にはなかった。魔女から放たれた、逃れようのない本気の殺意。
(まずい……殺される……!)
私が死を覚悟した、その時だった。
「「「「ッ!!?」」」」
目の前の空間が爆ぜたかのように、ハチが姿を現した。
気づかなかった。彼がいつ移動したのか、そして、侵入者たちの中にもう一人の『不可視の者』がいたことさえ。
ハチは、その潜伏者の喉元を完璧に制圧していた。
一瞬前までこの場を支配していた侵入者たちの余裕が、驚愕へと変わる。
「やめとけ、殺すぞ」
ハチの声。
それは凍てつくほど冷たく、けれど今の私には、どんな聖歌よりも気高く、頼もしく聞こえた。
彼から溢れ出す圧倒的な威圧感。侵入者たちの動きが、石像のように止まる。
私たちの誰もが気づけなかった脅威を、彼は当たり前のように排除してみせたのだ。
(ああ……ハチ。あなたは、どこまで凄いの……?)
彼を止めなければならない。けれど、彼のその強さと、私を守ろうとしてくれているその姿に、私の心は激しく打ち震えていた。
私が声をかけて彼が人質を放すと、その場の緊張感は、どこか奇妙な、彼を中心とした均衡へと変わった。
「……そちらの方は?」
金髪の男が、ハチを怪物を見るような目で見つめながら尋ねてくる。
私は、熱を持った頬を隠すこともせず、ハチを見上げた。
彼を『護衛』として紹介することはできない。『護衛』として紹介してしまうと、『依頼主を信頼していない』『いつでも攻撃できるようにしていた』と言うことになる。今の現状でそれはまずい…
それにハチを、私の大切な世界の一部として、この人たちですら手出しできない『神聖な場所』に置かなければならない。
私の胸に、あの母から言われた『月下銀晶』の花言葉が、誇らしく響いた。
「……私の、婚約者よ」
言い終えた瞬間、私の内側にあった迷いは消えていた。
驚愕の声を上げる叔父様や仲間たち。けれど、不思議と恥ずかしさはなかった。
むしろ、彼を自分の横に並ぶ者として宣言できたことに、言いようのない充足感を感じていた。
「叔父さん、あとで説明します」
口を挟もうとする叔父様を制し、私はハチを……私の大切な婚約者を、その実力に見合うだけの尊厳をもって守ることを決意した。
(ハチ、怒っているかしら……。でも、こう言うしかなかったの。私にとって、あなたはもう、ただの冒険者仲間ではないのだから)
金髪の男がハチをスカウトしようとした時、彼がそれを徹底的に無視する姿を見て、私は誇らしくさえ思った。彼は媚びない。彼は、自分の信じるもの以外に興味を示さない。
話し合いが進み、彼らが『漆黒聖典』という、スレイン法国の伝説的な部隊であることを知った。
それでも、私の決意は揺らがなかった。
「私は断るわ」
ガガーランたちが私に賛同してくれた時、ハチが微かに口元を緩めたのを、私は見逃さなかった。
ああ、よかった。彼は私たちの絆を認めてくれた。
漆黒聖典が去り、再び不気味な静寂が訪れる。
叔父様の鋭い視線がハチへと向けられた。
「……さて。とりあえず、その男について……じっくりと説明してもらおうかな、ラキュース?」
「え、ええ……。その……」
いざ二人きり(蒼の薔薇もいるけれど)になると、先ほどまでの勇気が嘘のように霧散して、顔が燃えるように熱くなった。
窓の外の青空を見上げ、徹底して目を合わせてくれないハチ。
(……本当のことを言ったら、彼は逃げてしまうかしら。それとも……)
私は、自分で投げた言葉の重みと、彼への止まらない想いの狭間で、ただひたすらに翻弄されるしかなかった。
挿絵のリクエストです。
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