「走れ……! 振り返るな、走り続けるんだ!」
妻の最期の声が、今も夜の闇に落ちるたびに耳の奥で蘇る。
狂気に支配されたエルフの王が統べるあの国は、まさに地獄だった。王の胤(たね)を宿すための道具として女たちが狩られ、戦火の最前線へと放り出される。さらに森の外には、私たちを生きる道具――奴隷として高値で取引しようと牙を剥くスレイン法国の部隊が徘徊していた。
私たち家族は、絶望の森から這い出るように逃げ出した。だが、その道中で妻は囮となり、法国の追手に捕らえられてしまった。
私は血の涙を流しながら、娘の手を強く引き、ただひたすらに北へと走った。そして幾多の死線を越え、魔導王の庇護下にあるこの都市――エ・ランテルの路地裏へと、逃げ延びたのだ。
ここでは他種族であるという理由での迫害はない。だが、長年の人間至上主義の根付いた街で、エルフの料理屋に足を運んでくれる客はほとんどいなかった。
あの日、あの御方が扉を開けるまでは。
「い、いらっしゃいませ……」
カラン、という鐘の音と共に入ってきたその男を見て、私は思わず肩を震わせた。
細身で猫背。だが、彼が纏う気配は、私がかつて森で遭遇したどの恐ろしい魔獣よりも異質で、冷たく研ぎ澄まされていた。死んだ魚のような気怠げな瞳の奥に、恐るべき強者の業が隠されているのが本能で分かったのだ。
魔導国の恐ろしい役人か、あるいは裏社会の暗殺者か。
びくびくと怯えながら接客をした私だったが、言葉を交わすうちに、その印象は大きく変わっていった。
彼は私の身の上話を静かに聞いてくれた。そして、私が共に逃げてきた娘を「妻」と勘違いし、死別したことを知ると、あの恐ろしい気配を消し去り、心から申し訳なさそうに素直に頭を下げたのだ。
その不器用な誠実さに、私は「ああ、この御方は、とても優しい人なのだな」と感じた。
そして帰り際。彼は私の出した素朴な料理を「美味い」と心から褒め、信じられないほどの大金をテーブルに置いた。
『この金は、情報料もひっくるめてるから、遠慮なく受け取ってくれ』
そう言って去っていった彼の背中を見送りながら、私は震える手で金貨を握りしめた。見ず知らずの他種族の難民に対し、これほどの対価を支払い、敬意を払ってくれる人間が果たしているだろうか。
私は、彼がとてつもない人格者であると確信した。
『ハチ』と名乗ったその御方は、その日を境に、本当に毎日私たちの店に足を運んでくれるようになった。
「いらっしゃいませ、ハチ殿!」
「おう。今日も適当に頼む」
いつもの奥のテーブルに座り、娘が運ぶ料理を美味しそうに平らげた後、彼は必ず私に『エルフ』についての質問をしてきた。
「なあ、エルフの国以外にも、集落を作って住んでるようなところはあるのか?」
「そうですね……法国の目から逃れるように、深い森の奥で隠れ住む小さな集落はいくつかあると聞いています」
「エルフってのは、一般的にどんなものが好きなんだ? 嫌いなものとか、これだけはやってはいけない『特有の常識』みたいなものはあるか?」
「我々は森の恵みと静寂、そして調和を愛します。逆に、無闇に森の木々を傷つけることや、自然の理を汚すような行いは忌避されますね」
彼は私の答えを、一つひとつ真剣な眼差しで聞き入り、頭の中で反芻しているようだった。
彼は単なる好奇心で聞いているのではない。エルフという種族そのものを、文化から深く理解しようとしてくれているのだ。その真摯な姿勢に、私の胸は熱くなった。
ある日、彼は少し考え込むようにして、こんなことを聞いてきた。
「エルフから見て……『ダークエルフ』ってのはどんな感じに映るんだ? 同種なのか、それとも別の種族として認識してるのか?」
「ダークエルフ、ですか」
私は顎に手を当てて答えた。
「肌の色や住む環境、文化は少し違いますが、同じ森を愛する『遠い親戚』のような感覚ですね。激しく対立することはありません。……狂王も、強い個体が生まれるのであれば、エルフもダークエルフもあまり区別していないでしょう」
「なるほどな……。じゃあ、もう一つ。左右で目の色が違う『オッドアイ』のエルフって、見たことあるか?」
その質問に、私は驚いて目を丸くした。
「左右の目の色が違うエルフ……ですか? いえ、私はお会いしたことはありません。ですが、伝承では聞いたことがあります。それは非常に特別な血筋の証……王族に現れる特徴かもしれない、と」
「……特別な血筋、ね。わかった、ありがとう」
ハチ殿は何かを納得したように小さく呟き、静かに頷いた。
ハチ殿が毎日来てくれるようになってから、変わったのは私だけではなかった。
母親を亡くし、見知らぬ街で塞ぎ込みがちだった娘が、ハチ殿の来店を心待ちにするようになったのだ。
「ハチ様、今日のお料理はいかがでしたか?」
「ん? ああ、美味かったぞ。木の実の使い方が絶妙だな」
「えへへ……ありがとうございます!」
ぶっきらぼうではあるが、決して冷たくはない彼の態度に、娘はすっかり懐いてしまっていた。
そんな娘が厨房へ戻っていく後姿を見つめながら、ハチ殿がふと、私に言った。
「なあ、店長。お前の娘、ただの料理の手伝いだけさせとくのは勿体ないぞ」
「と、言いますと?」
「歩く時の足運び、視線の配り方、それに気配の消し方。……あいつ、天性の『斥候(スカウト)』の才能がある。ちゃんと鍛えれば、凄腕になれる素質だ」
一流の強者である彼に娘の才能を見出され、私は驚きと共に、深い喜びを感じた。
「そうですか……。あの子にそんな才能が……。ハチ殿にそう言っていただけるとは、親として誇らしいです」
店を閉めた後の静かな夜。私はカウンターを磨きながら、よくハチ殿のことを考える。
恐るべき力を秘めながらも、弱き者の声に耳を傾け、他種族の文化を敬い、理解しようと努める気高き御方。
あの狂王や法国の者たちとは違う。彼のような人がいるのなら、この絶望に満ちた世界にも、まだ希望はあるのかもしれない。
(ハチ殿……。貴方のような御方にこそ、いつか……人間とエルフ、ひいてはすべての種族を繋ぐ、架け橋のような存在になっていただきたい)
私は、明日も来店してくれるであろう恩人のために、彼が一番気に入ってくれた香草の仕込みを、心を込めて始めるのだった。
まじで今月は忙しいんで更新頻度が低くなると思われます。
誠に申し訳ございません。
挿絵のリクエストです。
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