荷馬車が裏門を通過し、警備兵たちの意識がそちらへ向いた、ほんの数秒。
その隙を、俺が見逃すはずもなかった。
俺は屋根から飛び降りると、着地の音すら立てずに屋敷の壁際に吸い付く。そのまま、蜘蛛のように壁を駆け上がり、計画通り三階の小さな窓へと到達した。鍵はかかっていたが、ナザリック製の細いワイヤーを使えば、赤子の手をひねるより容易い。カチリ、と小さな音を立てて錠が外れた。
窓から滑り込んだ先は、おそらく物置として使われている小部屋だった。
埃と、古いリネンの匂いがする。俺はすぐさま扉の隙間から廊下の様子を窺った。人影はない。完璧な侵入だ。
(……まあ、ここまでは計画通り。問題は、この先だな。広い家ってのは、迷子になるリスクも高い。俺みたいなぼっちには、アウェー感満載の鬼門だ)
俺はスキルを常時発動させ、気配と音を完全に消しながら、屋敷の内部構造を探り始めた。
廊下は、俺の安宿の部屋がいくつ入るか分からないほど広く、深紅の絨毯が敷き詰められている。壁には、俺には価値の全く分からない肖像画や風景画が飾られ、磨き上げられた鎧のオブジェが鈍い光を放っていた。
(趣味が悪ぃな。金持ちってのは、どうしてこうも見栄と虚飾で自分を塗り固めたがるのかね。この鎧一つで、『泥濘』の連中が何ヶ月暮らせると思ってんだ)
俺は、すれ違うメイドや使用人たちの気配を事前に察知し、物陰や装飾品の影に身を隠してやり過ごす。彼らの顔に浮かんでいるのは、疲労と、主への恐怖からくる無表情。この華やかな館も、内側から見れば、ただの金箔で飾られた鳥籠に過ぎない。
目指すは、地下。
だが、メインの階段を使えば、警備兵と鉢合わせるリスクが高い。俺は、使用人たちが使うであろう、裏手の小さな階段を探し、そこから慎重に階下へと降りていった。
一階まで降りると、厨房から漏れる料理の匂いや、談笑する声が聞こえてきた。どうやら、貴族様方は、すぐ下の地下でおぞましい実験が行われていることなど露知らず、優雅なディナーの真っ最中らしい。
(反吐が出る光景だ。まあ、奉仕部で見てきた、人間の上辺だけの関係性に比べれば、こっちのほうがよっぽど分かりやすくて清々しいがな)
俺は厨房や大広間を避け、屋敷の構造から地下へ続くであろう階段の位置を割り出していく。
おそらく、入り口は偽装されているはずだ。書斎の隠し扉、ワインセラーの奥、暖炉の中。お約束のパターンはいくつか思い浮かぶ。
俺は、屋敷の中でも特に警備が手薄で、かつ人の出入りが少ない場所……当主であるエリオン伯爵の私室や書斎がありそうな区画へと、狙いを定めた。
案の定、一番奥まった場所に、ひときわ重厚な扉で守られた書斎を見つけた。
鍵は、先程よりも複雑なものだったが、俺の時間と技術の前では、無意味な抵抗に過ぎなかった。
書斎の中は、革と古い紙の匂いが満ちていた。
壁一面を埋め尽くす本棚。巨大な執務机。そして、暖炉の上には、鹿の剥製が飾られている。
俺は部屋の隅々まで、慎重に探索を始めた。
本棚を一つ一つ調べ、隠しスイッチがないか確認する。絨毯をめくり、床に隠し扉がないか探る。
そして、俺はそれを見つけた。
暖炉の奥。一見、ただの石壁に見える部分。だが、俺のスカウトとしての目が、そこに不自然な継ぎ目があるのを見抜いた。
俺が特定の煉瓦を押し込むと、ゴゴゴ、と低い駆動音と共に、暖炉の奥の壁がスライドし、暗い地下へと続く螺旋階段が現れた。
(……ベタすぎるだろ。ラノベの読みすぎか、この伯爵は)
俺は心の中で毒づきながらも、その暗い穴の向こうから漂ってくる、あの忘れもしない匂いに、神経を集中させた。
甘ったるい薬品と、濃厚な血の匂い。
『泥濘』の廃墟で嗅いだものよりも、遥かに濃く、そして強い。
ここが、帝国の闇の、本当の中心。
俺は、音もなく、その螺旋階段へと足を踏み入れた。
一歩、また一歩と下りていくにつれて、地下から響いてくる音が、より鮮明になっていく。
機械の駆動音。液体の流れる音。そして……何者かの、苦悶に満ちた、低い呻き声。
階段の終わりが見えてきた。
その先には、松明の明かりに照らされた、広大な空間が広がっているようだった。
俺は壁に身を寄せ、その光景を、息を殺して窺う。
そこにあったのは、もはや『研究施設』などという生易しい言葉では表現できない、おぞましい光景だった。
俺の脳裏に、かつてアインズ様から聞いた、ユグドラシルにおける『あるギルド』の話が、不意によみがえった。
人間の皮で家具を作り、NPCを拷問して楽しんでいたという、悪趣味の極みのようなギルド。
今、俺の目の前に広がっている光景は、それに勝るとも劣らない、人間の悪意と狂気が凝縮された、地獄そのものだった。
そして、その地獄の中心で、数人の白衣の男たちに囲まれながら、悠然と椅子に座り、ガラスケージの中で蠢く『何か』を満足げに眺めている男の姿を、俺は視界に捉えた。
金髪をオールバックにし、高価そうな貴族服を着こなした、優雅な佇まいの男。
エリオン伯爵、本人だ。
俺の任務は、証拠の確保。交戦は、許可されていない。
だが、俺の腐った目の奥で、かつて感じたことのないほど、冷たく、そして静かな怒りの炎が、音もなく燃え上がっていた。
奉仕部で感じていた、人間関係のいざこざに対する苛立ちなどとは、次元が違う。
これは、絶対的な『悪』に対する、純粋な嫌悪感だった。
俺は、ナザリックの刃である前に、比企谷八幡だった。
そして、比企谷八幡は、こういう胸糞の悪い光景が、何よりも嫌いだった。
俺は、静かに短剣の柄に手をかけた。
デミウルゴスの命令が、頭の中で警鐘を鳴らす。だが、それよりも強く、俺の中の何かが、ここで引き返すことを、拒絶していた。
挿絵のリクエストです。
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おまかせ
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八幡+シャルティア
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八幡+アルベド
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八幡+デミウルゴス
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八幡+マーレ
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八幡+アインズ様
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八幡+メイド達