ナザリックでの短い滞在を終え、俺は転移門を通り、帝国の北東、人里離れた辺境の荒野に降り立った。
ここから、地図に載らない『嘆きの谷』までは、おそらく徒歩で数日の距離。
アインズ様から賜った『リング・オブ・サステナンス』のおかげで、食料も水も、そして睡眠すらも不要。それは、これから始まるであろう、本当のサバイバルにおいて、絶大なアドバンテージだった。
文明の痕跡が完全に消え、人の匂いがしなくなったのは、歩き始めて二日目のことだった。 見渡す限り、荒涼とした岩山と、枯れた灌木が続くだけ。時折、この地に適応したのだろう、奇妙な姿の魔獣が遠巻きにこちらを窺っているが、俺のレベル89という存在が放つオーラを感じ取ってか、決して近づいてはこなかった。
(……悪くない)
誰に命令されるでもなく、誰の視線を気にするでもなく、ただ一人、己の目的のためだけに歩を進める。 それは、ナザリックの豪華な自室で過ごすよりも、帝都の雑踏に紛れるよりも、遥かに、俺の性に合っていた。 孤独。それは、俺が最も得意とし、そして、最も落ち着ける環境だ。
噂だけが頼りの谷を探すのは、骨の折れる作業だった。 俺は、スカウトとしての全スキルを駆使し、地形、風の流れ、そして、この地に残る微弱な魔力の残滓を読み解いていく。 三日目の夕暮れ。俺は、ついにそれを見つけた。 巨大な岩山の、裂け目。 まるで、古代の巨人が、その手で大地をこじ開けたかのような、不自然な亀裂。そして、その奥から、まるで生きているかのように、白く、濃密な霧が、とめどなく溢れ出してきていた。
(……ここか)
霧は、明らかに異常だった。
肌にまとわりつくような、冷たい湿気。音を吸い込み、方向感覚を狂わせる、魔術的な性質。 そして何より、この霧には、人の精神に直接作用し、不安と悲しみを増幅させる、呪いのような力が込められているのを、俺のスキルは見抜いていた。
例の老いぼれワーカーが言っていた、『嘆き声が聞こえる』というのは、この霧が見せる幻聴だったのだろう。
(……さて)
俺は、短く息を吐くと、その白濁した、世界の終わりへと続くかのような霧の中へ、何の躊躇もなく、足を踏み入れた。
一歩、中へ入っただけで、世界は完全に変わった。 外の光は、一切届かない。音は、自分の呼吸の音すらも、霧に吸い込まれて消えていく。
視界は、数メートル先も覚束ない。 唯一の光源は、足元や、ねじくれた枯れ木に寄生するように生えている、青白い光を放つ苔だけ。
そして、聞こえる。 ひゅう、ひゅう、と、岩の隙間を抜ける風の音が、まるで、亡霊の嘆き声のように、谷底から響き渡ってくる。 ここは、生者のための場所ではない。
俺は、短剣を抜き放ち、神経を極限まで研ぎ澄ませながら、谷の奥へと進んでいく。 通常の五感は、ほとんど役に立たない。頼りになるのは、魔力探知と、この腐った目だけだ。
どれくらい、進んだだろうか。 不意に、俺の探知スキルが、すぐそばに『何か』の気配を捉えた。 速い。そして、完全に、無音。
俺は、咄嗟に身を翻し、短剣でそれを受け止めた。
キィン! という、甲高い金属音。 霧の中から現れたのは、カマキリの鎌のような、鋭利な爪だった。 衝撃で、後方に数メートル吹き飛ばされる。受け止めた短剣が、ギリギリと軋んでいた。
霧が、一瞬だけ晴れる。 そこにいたのは、俺の知る、どんな魔獣とも違う、異形の怪物だった。 全長は、3メートルほど。白く、ぬめりとした外皮を持ち、蜘蛛とカマキリを混ぜ合わせたような、六本の鋭い脚。そして、顔があるべき場所には、ただ、大きく裂けた口があるだけ。 霧の中での狩りに、完全に特化した、この谷の捕食者。
俺が体勢を立て直すよりも早く、怪物は、再び霧の中へと姿を消した。 気配も、完全に消えている。
(……なるほどな)
俺は、口の端を吊り上げた。 これだ。俺が求めていたのは、こういう、一瞬の油断が『死』に直結する、本物の戦場だ。
「……歓迎パーティーは、これ一匹か?」
俺は、誰に言うでもなく、呟いた。
「だとしたら、少し、物足りないな」
俺の腐った目が、闇と霧の向こうに潜む、見えざる敵を、爛々と、捉えていた。 俺の、本当の『休暇』が、今、始まった。
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