『嘆きの谷』での任務を終え、俺は転移門から第九階層の廊下へと帰還した。 全身に、一連の戦闘の疲労が重くのしかかっている。肉体的な消耗以上に、精神的な消耗が大きかった。あの『谷の主』との死闘、そして、ナザリックを脅かすかもしれない陰謀の片鱗。それらが、俺の脳裏に焼き付いている。
(……報告はデミウルゴスに済ませた。アインズ様への直接報告は、後日改めて、か)
そう考えながら、自室へと向かって歩いていた、その時だった。 角を曲がった先で、思いがけない光景を目にした。
そこにいたのは、第九階層執事長であるセバス・チャン。 そして、その隣には、見慣れない……いや、見覚えのある、一人の人間が立っていた。 女性だ。 メイド服のような服を身につけ、顔にはわずかに疲労の色が浮かんでいるものの、その佇まいには、どこか芯の強さが感じられる。
(……人間?)
第九階層に、人間がいる。
それも、セバスが、まるで護衛するかのように隣に立っている。 俺の脳裏に、かつてセバスが帝国で助けたという、あの人間の女性のことが鮮明に蘇った。
『ツアレニーニャ・ベイロン』
あの時、俺はセバスの行動を『個人的な感情』と割り切ろうとしたが、まさか、本当にナザリックに連れ帰っていたとは。 そして、今、こうして目の当たりにした彼女の存在は、俺の捻くれた心に、強烈な違和感と、そして、かすかな、しかし確かな『羨望』のような感情を呼び起こした。
俺の足は、無意識のうちに止まっていた。 セバスも、こちらの気配に気づいたのか、その完璧な姿勢のまま、俺に視線を向けた。
「おや、八幡様。ご帰還でしたか。お疲れ様でございます」
「……ええ」
俺は、セバスの隣に立つ女性に、ちらりと視線を向けた。 彼女は、俺の視線を感じ取ったのか、僅かに身をこわばらせ、セバスの背に隠れるようにした。だが、その怯えの中に、不思議と、俺の腐った目には、真っ直ぐな光が見えた。
(……これが、セバスが助けた女、か)
俺は、一歩、また一歩と、セバスとツアレに近づいた。
いつもの俺なら、見て見ぬふりをして通り過ぎるはずだ。 だが、この時ばかりは、抑えきれない疑問が、俺の口を開かせた。
「……セバス。あんたは、タッチ・ミー様の創造物だ。絶対的な強さと、絶対的な忠誠心を持つ存在」
俺は、ツアレを一瞥し、そして再びセバスの目を真っ直ぐに見据えた。
「なぜ、助けた? 絶対的な力の前では、個人の感情など、無意味なはずだ。ましてや、失う怖さも知らずに、なぜ、そんな『弱さ』を、敢えて抱え込む?」
俺の問いは、彼らへの質問であると同時に、俺自身への問いかけでもあった。
俺が『本物』を求めるあまり、全てを切り捨ててきた。失う怖さから、何も手にしようとしなかった。 だが、この男は、ナザリックという絶対的な力の中で、敢えて『失うかもしれないもの』を、その手で掴んだ。
セバスは、俺の問いに、一切動じることなく、静かに答えた。
「八幡様。おっしゃる通り、私はタッチ・ミー様の創造物であり、ナザリックへの忠誠こそが全てです。ですが……それは、私が人間という存在の価値を見誤る理由にはなりません」
セバスは、ツアレを慈しむような視線でちらりと見やった。ツアレは、顔を赤らめ、俯いている。
「私が彼女を助けたのは、それが、タッチ・ミー様が私に教えられた『正義』に適う行動だったからです。そして、彼女の内に秘められた『生きたい』という純粋な願いは、私にとって、何よりも尊いものと感じられました」
「……しかし、失う怖さはないのか? あなたのその『正義』や『願い』が、あなたの身を滅ぼすことになったらどうする? ナザリックの秩序を乱すことになったらどうする?」
俺は、畳み掛けるように問い詰めた。
「結局、それは、個人の感傷に過ぎない。絶対的な力の前では、無力なはずだ」
セバスは、ゆっくりと、しかし確固たる口調で答えた。
「八幡様。私は、失うことを恐れて、得られるかもしれない『尊いもの』を捨てるような愚か者ではありません。そして、私が彼女と出会い、そして守るという選択をしたことで、私の忠誠心が揺らぐことはありません」
彼の視線は、真っ直ぐに俺を射抜いた。
「むしろ、守るべきものができたことで、私の忠誠心は、より強固なものとなりました。私にとって、ツアレは、この世界における『正義』の象徴。彼女を守り抜くことこそが、タッチ・ミー様から授かった私の役割であり、ひいては、アインズ様への最大の奉仕と、私は信じております」
セバスの言葉は、俺の、冷徹な理屈の壁を、音もなくすり抜けていった。
守るべきものがあるからこそ、強くなれる。
守るべきものがあるからこそ、忠誠心は揺るがない。
そんな、あまりにも綺麗事で、しかし、彼の全身から滲み出る揺るぎない確信。
その時、セバスの背後に隠れていたツアレが、おずおずと、しかしはっきりと顔を上げた。
「……あの」
彼女は、俺の目を真っ直ぐに見つめ、小さく、しかし力強い声で言った。
「セバス様は……私に『愛』を教えてくださいました。人を信じること、生きることの尊さを……。私にとって、セバス様は、命の恩人であると同時に、私を、人間として扱ってくれた、唯一の光です」
彼女の瞳には、一切の迷いがなかった。
「『愛』は、決して弱さではありません。時に、人を超えた力を……絶望さえも打ち破る力を、与えてくれるものだと、私は信じています」
『愛』
その、あまりにも陳腐で、俺が最も嫌悪してきた言葉が、この場所で、これほどまでに説得力を持って響くとは。 俺は、言葉を失った。
(……なんだ、これは)
俺が、徹底的に排除し、存在しないものとして扱ってきた、個人の感情。 それを、このナザリックで、しかも至高の存在の創造物と、一介の人間が、俺の目の前で、あまりにも『本物』として示している。 俺が探し求めていた『本物』は、こんな場所で、こんな形で、俺の前に現れるのか。
セバスとツアレ。 二人の間に流れる、静かで、しかし強固な絆。 それは、俺がこれまで生きてきた中で、一度も手にしたことのない、あまりにも眩しい『何か』だった。 俺の、捻じ曲がった思考回路が、完全にフリーズする。
(……愛が、力……? 守るべきものがあるからこそ、強くなる……?)
そんなことは、これまで、一切信じてこなかった。
『人間は一人で生きるべきだ』
それが、俺の哲学だった。 失うことを恐れるな、と言われても、失うことしか知らなかった俺には、その言葉の重みが、理解できない。 理解したくなかった。
俺は、混乱した。 『嘆きの谷』での死闘よりも、この二人の存在が、俺の精神を、深く、そして大きく揺さぶった。 ナザリックの絶対的な秩序の中で、人間が、しかも『愛』を語る。 それは、俺が今まで見てきた、この世界のどんな理不尽よりも、よほど理解しがたい、異物だった。
俺は、一言も発することなく、セバスとツアレから視線を外し、自室へと向かって歩き出した。 セバスは、俺の背中に、静かに声をかけた。
「八幡様。旅の疲れが出たのでしょう。どうか、ごゆっくりお休みください」
その声には、一切の嘲りも、侮蔑もなかった。ただ、純粋な気遣いだけが込められているように聞こえた。
自室の扉が閉まる音を聞きながら、俺は、その場に崩れ落ちるように座り込んだ。 全身の疲労が、一気に押し寄せてくる。 だが、肉体的な疲労よりも、精神的な混乱の方が、はるかに大きかった。
(……本物、か)
俺は、自分が本当に求めていたもの。 そして、自分が、この世界で何を見つけようとしているのか。 それが、一体何なのか、再び、見失いかけていた。 『嘆きの谷』で、新たな『仕事』を見つけたはずだったのに。 ナザリックの内部で、俺の『根源的な問い』が、再び、浮上してきた。 俺の『休暇』は、いつの間にか、俺自身の存在意義を問う、終わりのない旅へと変貌を遂げようとしていた。
挿絵のリクエストです。
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