「……本当に、大丈夫なのだろうか」
私、元冒険者組合長であり、現在はここ冒険者育成機関の長を務めるアインザックは、モモン殿が連れてきた『ハチ』と名乗る男の背中を見送りながら、思わず独りごちた。
エ・ランテルの守護者であり、絶対の信頼を寄せる漆黒の英雄、モモン殿。彼がわざわざ「特別講師に」と連れてきたのだから、無能であるはずがない。頭ではそう理解している。
だが、あのハチという男。細身で、姿勢は悪く、何よりあの「この世の全てに絶望しきったような死んだ魚の目」はなんだ。どう見ても歴戦の強者には見えない。その辺の村から逃げてきた村人か、せいぜい日雇いの労働者にしか見えなかった。
彼が向かった第三訓練場は、協調性のない者や、パーティーを追放された血気盛んな『問題児(ソロ)』たちの吹き溜まりだ。彼らは腐っても冒険者志望。あの冴えない男が、若者たちのリンチに遭って大怪我でもしたら、モモン殿に顔向けができない。
私は居ても立っても居られず、執務室を抜け出し、第三訓練場の扉の隙間からこっそりと中の様子を窺った。
ちょうど、三十人近くの若者たちが、武器を振りかぶって一斉に彼に襲い掛かるところだった。
「あっ……!」
私が思わず止めに入ろうと声を上げかけた、その瞬間。
「…………なっ!?」
私の目は、信じられない光景を捉え、限界まで見開かれた。
群れの中へ、スッと滑り込むハチ殿。
右から振り下ろされた大剣を、手首のわずかな動きだけで軌道を逸らし、左から来る魔法詠唱者の顎を指先で弾き飛ばす。背後からの奇襲には、振り返りもせずに足を引っかけて転倒させる。
(な、なんという体捌きだ……!)
私は、冷や汗が背中を伝うのを感じた。
訓練生たちは、最高でもゴールド級以下の実力しかない。それでも、三十人がかりの連携(あるいは乱戦)を無傷で凌ぐなど、オリハルコン級以上の前衛でなければ不可能だ。
しかも、彼はただの一度も『武技』を使っていない。一切の魔法も使っていない。
ただ純粋な身体能力と、重心を操作する完璧な技術、そして相手の初動を完全に読み切る眼力だけで、三十人を文字通り「赤子のように」あしらっているのだ。
三分。
いや、三分もかかっていなかっただろう。
気がつけば、訓練場の床には三十人以上の若者たちが一人残らず這いつくばり、痛みに呻き声を上げていた。そして、ハチ殿は息一つ乱さず、彼らを整列させて正座させている。
「……素晴らしい」
私は震える手で口元を覆い、感嘆の息を漏らした。
圧倒的だ。モモン殿のあの「神の領域」に到達した絶技には及ばないかもしれないが、それに匹敵する……少なくとも、王国最高峰のアダマンタイト級に名を連ねるに相応しい、理外の強さ。
(流石はモモン殿の御友人。なんという途方もない逸材を見つけてきてくださったのだ……!)
彼がその後、訓練生たちの『適性』を瞬時に見抜き、的確な職業を割り振っていく様子を見て、私の評価は確信へと変わった。
あの男は、戦士としての強さだけでなく、他者の本質を見抜く『指導者』としての目も超一流だ。
(絶対に、逃がすわけにはいかない。次の運営会議でこの件を提議しよう。どのような好条件を提示してでも、彼にはこの機関で働いてもらわねばならない)
私は、扉の隙間からハチ殿の姿を見つめながら、頭の中で猛烈に算段を弾き始めた。
金か? 地位か? 彼は何に興味を示すだろうか。
ふと、私の脳裏に「ある計画」が蘇った。
かつて、モモン殿という人類最高の英雄を前にした時、私が密かに企て、そして見事に玉砕したあの計画。
(……そうだ。高級娼館だ)
私は、ゴクリと唾を呑み込んだ。
現在、この世界は魔導王という圧倒的なアンデッドの支配下にある。我々人類がこの先も種として生き残っていくためには、一人でも多くの『強き者』を育て、そして未来へと繋いでいかなければならない。
モモン殿には「特定の女性を作る気はない」と断られてしまった。あの崇高な御方に、俗世の欲望を押し付けようとした私が愚かだったのだ。
だが、このハチ殿はどうだ?
英雄としての重圧を背負っているようには見えないし、あの死んだ魚の目は、どこか世俗の泥水にまみれてきたような人間臭さを感じさせる。
モモン殿には使えなかったが、私が懇意にしている最高級の娼館のツテがまだ残っている。絶世の美女たちを手配し、彼を極秘裏に招待するのだ。
(彼がもし、あの娼館の娘たちを気に入ってくれれば……このエ・ランテルに、あの理不尽なまでの強さと才能を受け継ぐ『ハチ殿の子供(優秀な種)』が残るかもしれない!)
強き人間の血脈を、少しでも多く後世に残す。
それは、人類の未来を憂う者として、決して間違った判断ではないはずだ。
「……待っていてくだされ、ハチ殿。貴方のための『最高の夜』は、このアインザックが必ずや手配してご覧に入れますぞ……!」
私は、自らの完璧な閃きに静かに興奮を覚えながら、エ・ランテルの、いや、人類の未来のために、決意の炎を燃やして執務室へと駆け出していったのである。
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