魔導国による、リ・エスティーゼ王国への侵攻が遂に始まった。
「宣戦布告から一ヶ月後に進軍する」という表向きの宣言とは裏腹に、ナザリックの守護者たちは水面下で嬉々として動き出し、北と東の都市や村を徹底的に蹂躙し始めていた。王国側の情報は完全に遮断され、同盟候補だったアーグランド評議国への接触ルートも、デミウルゴスたちの周到な包囲網によってすでに断ち切られている。
俺はというと、アインズ様の直属の副官として、血の匂いとは無縁の執務室で大量の報告書と格闘する日々を送っていた。
そんなある日、アインズ様が第五階層の『氷結牢獄』内にある屋敷へと足を運ぶことになり、俺も副官として同行することになった。
呼び出したのは、メイド長のペストーニャと、アルベドの姉であるニグレドだ。
「こちらです、アインズ様、八幡様」
セバスの案内に従い、冷気に包まれた屋敷の一室へと通される。
そこにいた二人の姿を見て、俺は思わずビクッと肩を震わせた。
ペストーニャの犬の顔は見慣れているが、もう一人の女性――ニグレドとは、これが初対面だった。
(……うおっ、ビビった。完全に『貞子』じゃん……)
喪服のような黒いドレス。顔全体を覆い隠す長い黒髪。隙間からチラリと見えたその顔には、なんと『皮膚』が存在しなかった。剥き出しの筋肉と歯茎が覗くそのホラーすぎる風貌に、俺の心拍数は跳ね上がった。
アインズ様が席につき、俺はその斜め後ろに直立不動で控える。
「……して。私を呼び出した用件とはなんだ?」
アインズ様が問うと、ペストーニャとニグレドは深く頭を下げ、悲痛な声で訴えかけた。
「アインズ様……どうか、これ以上人間を殺すのはおやめください。あ、ワン」
「お願いします……せめて、二歳に満たない赤子たちだけでも……っ!」
二人の願いは、『人間への慈悲』だった。
ペストーニャは、人間の可能性と成長を示すための一例として、手作りのビスケットを差し出した。
「これは、人間の料理人が作ったビスケットです。彼らには、このような文明を発達させる力がありますワン」
アインズ様はそのビスケットを手に取り、骸骨の口元へ運んで「カプッ」と齧るような動作をした。当然、アンデッドであるアインズ様に味覚はなく、物理的に飲み込むこともできない。
アインズ様は、ただその『柔らかさ』だけを確かめると、齧りかけのビスケットをスッと後ろに差し出した。
(えっ、俺が食うの?)
俺は一瞬戸惑ったが、アインズ様からの下賜品を断るわけにもいかず、それを受け取って口に放り込んだ。
サクッ、とした素朴な食感と、控えめな甘さ。
(……うん。素朴で、田舎のビスケットって感じだな。美味い)
俺が咀嚼している間にも、アインズ様と彼女たちの対話は続いていた。
「ペストーニャよ。人間は文明を発展させるからこそ、私は危惧しているのだ」
アインズ様の声は、冷徹な統治者のそれだった。
「私たちは『強くなれない強者』だ。対して人間は『成長する弱者』。今は私たちが圧倒的な優位に立っているが、時間が経てば、その文明や魔法技術の発展によって、パワーバランスがひっくり返る日が来るかもしれない」
(……まあ、確かにそうかもな)
俺はビスケットを飲み込みながら、内心で同意した。強大なレベルキャップに縛られたYGGDRASILの存在に対し、この世界の住人は独自の武技や魔法を生み出し続けている。いずれ牙を剥く可能性はゼロではない。
「さらに言えば、これは単なる慈悲や気まぐれでは片付けられない。この『飴と鞭』はナザリックの戦力強化も兼ねているのだ」
論理的で、隙のない正論。
その圧倒的な言葉を前に、ペストーニャとニグレドは返す言葉を失い、絶望に俯いてしまった。
(……あー、この空気、胃に悪い)
ナザリックの絶対の主に口答えするなど、本来なら許されない。だが、彼女たちの純粋な善意も、少しだけ伝わってくる。
俺は、死んだ魚の目を細め、誰にともなく、ボソリと呟いた。
「……もし逃げ延びた人間がいたら、魔導国のことを周りにどう伝えるんだろうね。……『恐怖の伝承』として、良い宣伝塔になりそうだけど」
そのパス(独り言)に、ペストーニャがハッと顔を上げた。
「そ、そうですワン! 命からがら逃げ延びた者がいれば、魔導国の恐ろしさを後世に、そして周辺諸国に『伝承』として深く刻み込むことができるはずですワン!」
アインズ様は、少しばかり眼窩の赤い光を瞬かせ、黙考した。
「……そうか。逃亡者による恐怖の伝播……。わかった。では、ペストーニャの意見を一部採用し、私が担当する地域では『一部の人間を意図的に逃がす』ようにしよう」
「アインズ様……! ありがとうございます、ワン!」
「おお……慈悲深き至高の御方……っ!」
二人が感極まって平伏する中、俺は静かに息を吐いた。
(とりあえず、丸く収まってよかった……)
その後、執務室に戻った俺は、椅子に深く腰掛けたアインズ様に尋ねた。
「……どうするんですか? 他の守護者たちには、一割程度とはいえ人間を逃がす合理的な理由を説明しなきゃならないと思いますが」
アインズ様はしばしの沈黙の後、ゆっくりと頷いた。
「大丈夫だ。考えがある」
(おお、流石はアインズ様。もう守護者たちを納得させるロジックを組み立ててるのか)
俺は心の中で拍手を送った。
「何か俺にできることがあれば、いつでも言ってください。手伝いますんで」
「うむ、感謝するぞ、八幡」
それから数日後。
アインズ様の宣言通り、御自身が担当する戦域では、死の騎士(デス・ナイト)や死の戦士(デス・ウォリアー)といった最低限の低位アンデッドのみが投入され、意図的に人間を逃がす包囲網が敷かれていた。
ナザリックの監視室では、守護者たちが集まり、次に滅びる都市の映像をモニター越しに楽しみに眺めている。
次の標的は、アインズ様が担当する都市『エ・ナイウル』だ。
「さあ、愚かな人間どもがどう足掻くか……見物でありんすね」
シャルティアが嗜虐的な笑みを浮かべる中、映像がエ・ナイウルの攻防を映し出す。
城門の前で、王国の冒険者たちが必死に防衛線を張っている。そこに投入された二体の死の騎士と死の戦士が、彼らを蹂躙しようと迫った、その時だった。
『――ズドドドドドドドッ!!』
突如、空から飛来した真紅の『機械の鎧』――パワードスーツが、けたたましい銃撃音と共にアンデッドたちを蜂の巣にした。
さらに、重力系の高位魔法が炸裂し、ナザリックの精鋭であるはずの死の騎士と死の戦士が、いとも簡単に破壊されてしまった。
「なっ……!?」
「死の騎士が、あのような一撃で……!?」
モニターを見ていた守護者たちの間に、激しいどよめきと戦慄が走った。
絶対の強者であるはずのナザリックの軍勢が、たった一人の謎の存在によって撃破されたのだ。
だが、アインズ様だけは、玉座に深く座り直したまま、低く、威厳に満ちた声で笑った。
「――フッフッフ……。かかったな。全ては計画通りだ」
「「「おおおっ……!!」」」
守護者たちが、弾かれたようにアインズ様を絶賛し始めた。
「流石はアインズ様! 強者を釣り出すために、あえて手薄な軍勢を派遣しておられたのですね!」デミウルゴスが歓喜に打ち震える。
(はぇ〜。アインズ様、すごっ。エ・ナイウル戦の低位アンデッド運用は、ニグレドたちの願いを叶えるためだけじゃなく、こうして敵の隠し玉を誘い出すための二段構えの罠だったのか……!)
俺も、心からの感嘆の息を漏らした。
その時、アインズ様が手招きし、俺を傍らに呼んだ。
「……八幡。緊急任務だ」
周囲の守護者たちに聞こえないよう、アインズ様が極小の声で囁く。
「あのパワードスーツの奴を追ってくれ。あれはYGGDRASILのアイテムだ。奴の正体、そして背後にいる組織について、できるだけ情報を持って帰ってこい」
アインズ様の声には、かつてないほどの真剣な響きがあった。
「……だが、決して無理はするな。お前の命が最優先だ。完全装備で後を追え。頼んだぞ」
「承知いたしました」
俺は短く応え、監視室を後にした。
未知の強敵。しかも、YGGDRASILのプレイヤーに連なる存在の可能性が高い。
これは、いつもの「交渉」や「お使い」とは違う。純粋な『潜入と諜報』のガチ任務だ。
俺は自室へと急ぎ、隠し金庫を開け放った。
「……持っていくか。腐らせておくには惜しい」
俺は、金庫の中に眠っていたスーラータンのPKの産物――遺物級アイテムの数々を取り出した。
ステータスを大幅に底上げする呪われた外套、そして『絶氷の篭手』をはじめとする強力な隠密・防具類を身に纏う。
鏡に映る俺の姿は、もはや完全に『現代風アサシン』そのものだった。
準備を整え、アインズ様が待つ転移門(ゲート)の前へと向かう。
「頼んだぞ、八幡。……必ず生きて戻れ」
アインズ様が、心配そうに俺の肩を叩いた。
「ご心配なく。俺の逃げ足の速さと、自己保身への執念を舐めないでください」
俺は軽く口角を上げ、死んだ魚の目に明確な気合いの火を灯した。
「――行ってきます」
渦巻くゲートの闇の中へ、俺は一歩を踏み出した。
挿絵のリクエストです。
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おまかせ
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