新バ戦での勝利から数週間。レッドディザイアは、トレーナーに呼び出された。
「次のレースだが、どうする?」
トレーナーの問いかけに、レッドディザイアは即座に答えた。
「エルフィンステークスに出たいです」
「エルフィンステークス? まだ2戦目だぞ。オープン特別だ」
「分かっています。でも、出たいんです」
その瞳には、強い意志が宿っていた。
「...理由は?」
「憧れのウォッカさんが勝ったレースだから」
トレーナーは少し驚いた表情を見せたが、すぐに納得したように頷いた。
「分かった。調整が順調なら、出走させよう。ただし、格上のウマ娘も出てくる。簡単なレースじゃないぞ」
「もちろんです。全力で臨みます」
トレーナーは満足そうに微笑んだ。
「よし。じゃあ、メニューを組み直す。気合い入れていこう」
エルフィンステークスまで、約一ヶ月。レッドディザイアは、一層トレーニングに打ち込んだ。
早朝、ジョギングで体を温める。
ストレッチで筋肉をほぐし、関節を軽く動かす。
直線コースでのスピード走。一定のペースを維持し、フォームを確認する。
インターバルを数本繰り返し、呼吸と脚の動きを整える。
最後にスタートダッシュを数回。反応速度と加速を確認する。
一つ一つのメニューを、順序通り、確実にこなしていく。
新バ戦の時とは違う。今度は、自分に何ができて、何が足りないのか、少しずつ見えてきていた。スタートダッシュの切れ味。直線での伸び。コーナーワーク。まだまだ改善の余地がある。
坂路を駆け上がる。呼吸を整え、もう一本。トレーナーが組んだメニューを超えることはしない。マンハッタンカフェに教わったことを、レッドディザイアは忘れていなかった。
焦らない。でも、手を抜かない。
トレーニングの合間、寮に戻る途中、マンハッタンカフェと廊下ですれ違った。
「...レッドディザイアさん。お疲れさまです。そういえば、次のレース、エルフィンステークスだと聞きました」
「はい」
マンハッタンカフェは、少し驚いたような表情を見せた。
「オープン特別ですよね。その...大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ウォッカさんが勝ったレースで、私も走りたいんです」
「ウォッカさんの...」
マンハッタンカフェは、どこか懐かしそうに目を細めた。
「...素敵な目標ですね。きっと、レッドディザイアさんなら、良いレースができると思います」
「ありがとうございます」
「その...無理はしないでくださいね。でも、応援しています」
そう言って、マンハッタンカフェは会釈をして去っていった。
その姿を見送りながら、レッドディザイアは小さく微笑んだ。温かい言葉が、心の支えになる。
旧理科準備室にて
「最近、レッドディザイア君にお熱なようだが、何か光るものでも見つけたのかい、カフェ〜?」
アグネスタキオンが、いつもの飄々とした口調で声をかけてきた。マンハッタンカフェは、少し驚いたように振り返る。なぜ彼女がそんなことを知っているのだろうか。
「タキオンさん...」
「いやいや、隠さなくてもいいんだよ。トレーニングの様子を見に行ったり、励ましに行ったりしてるんだろう? 私の目は誤魔化せないよ」
マンハッタンカフェは、少し困ったように俯いた。
「その...別に、特別なことをしているわけでは...」
「ふふん。でもまぁ、確かにあの子は面白いね。新バ戦、見させてもらったよ。ハナ差での勝利。ギリギリまで諦めない粘り強さ。なかなかだねえ」
アグネスタキオンは、興味深そうに続ける。
「で、次はエルフィンステークスに出るんだって? オープン特別。2戦目でそこに挑むとは、なかなか大胆だ」
「カフェはレッドディザイア君が勝つと思う?」
「...分かりません。でも、良いレースはできるはずです」
「ふむ。私はね、アジュールラピス君が気になるんだよ」
「アジュールラピス...?」
「ああ。出走表を見たんだが、その子も出るらしい。デビューからずっと人気に推されながら、新バ戦以来まだ勝ち星がない。でも、何か惹かれるものがある」
マンハッタンカフェは、少し意外そうな顔をした。タキオンが、そこまで具体的にウマ娘の名前を挙げるのは珍しい。
「どちらが勝つと思う? レッドディザイア君か、アジュールラピス君か」
「...それは、走ってみないと」
「つまらないなぁ。じゃあ、賭けをしよう」
「賭け...ですか?」
マンハッタンカフェは、警戒するように一歩引いた。アグネスタキオンの賭けは、いつも面倒なことになる。
「そんなに身構えなくてもいいよ。簡単な賭けさ。アジュールラピスが勝ったら、カフェは私の実験に付き合う。レッドディザイア君が勝ったら、私がカフェのコーヒーに付き合う。どうだい?」
「遠慮しておきます。タキオンさんの実験はロクなことが起こりませんから...」
「まぁまぁ、そう言わずに。カフェがレッドディザイア君を信じてるなら、受けて立てるだろう?」
アグネスタキオンの挑発的な笑みに、マンハッタンカフェは少し迷った。普段なら断るところだが、レッドディザイアさんのことを信じていないように思われるのは、何だか嫌だった。
「...分かりました。でも、変な実験は困ります
」
「私を誰だと思ってるんだい。安心しなよ~、ちゃんとした実験だから」
アグネスタキオンは満足そうに笑った。
「じゃあ、レースが楽しみだね。カフェの見立てが正しいか、私の直感が正しいか」
そう言って、アグネスタキオンは去っていった。
マンハッタンカフェは、小さく溜息をついた。レッドディザイアさんには、この賭けのことは言わないでおこう。
余計なプレッシャーになってしまう。
「...レッドディザイアさん、頑張ってください」
小さく呟いて、マンハッタンカフェも旧理科準備室を後にした。
エルフィンステークス当日。
京都競馬場は、早春の陽気に包まれていた。まだ寒さは残るものの、少しずつ春の気配が漂い始めている。
レッドディザイアは、パドックで他の出走馬を見渡した。
オープン特別。新バ戦とは、明らかに雰囲気が違う。周囲のウマ娘たちからは、実績と自信が滲み出ている。
その中でも、一際目を引くウマ娘がいた。
アジュールラピス。青みがかった美しい髪を持つウマ娘。表情は落ち着いているように見えるが、どこか緊張が見て取れる。
このレース一番の実力バだと、レッドディザイアは聞いていた。
「レッドディザイア」
トレーナーの声に、視線を戻す。
「覚えてるな? 無理に先頭を狙う必要はない。自分のペースで走れ」
「はい」
「ただし、最後まで諦めるな。新バ戦のように、勝負どころでしっかり脚を使え」
「分かりました」
ゲートイン。周囲のウマ娘たちの気配が、ひしひしと伝わってくる。
心臓が高鳴る。でも、恐怖ではない。これは、高揚感だ。
憧れのウォッカが走った、このエルフィンステークス。その舞台に、今、自分が立っている。
(ウォッカさん。私も、あなたのように)
ゲートが開く直前、レッドディザイアは深く息を吸い込んだ。
ガシャン!
――私は、ずっと追いかけてきた。
憧れだったG1ウマ娘の称号を、この手で掴むために。そのためには厳しい練習にも耐えてきた。だからこそ新バ戦を勝った時はひとしおの喜びだった。やっとスタートラインに立てたんだって。でも、
「アジュールラピス、また人気してるね」
「でも結果が出ないんじゃ、私はパスかな……」
そんな声が、耳の奥に残っていた。
デビューからずっと"あの娘は強い"と言われ続けて。1番人気に押されながらも、G3も、500万下も、4着。あと少し。あと一歩。
勝ちたい。いや、勝たなきゃいけない。
期待という名の鎖が、脚に絡みついて離れない。
それでも、私は走る。
スタートは良かった。すぐに好位を取る。先頭集団が形成されていく中、私は3番手につけた。
前を行くのは、逃げるウマ娘と、その後ろで様子を窺うウマ娘。周囲には、実力者たちの気配。
そして、少し後方。
見えた。
赤い影――レッドディザイア。
新バ戦を勝ったばかりの新星。まっすぐで、眩しくて、少し怖いくらいに力強い走り。
向こう正面に入る。ペースは速くも遅くもない。でも、張り詰めた空気が、緊張を煽る。
私の脚は重い。いつもの、あの感覚。
期待に応えなきゃ。人気に応えなきゃ。また4着だったら、また"次こそは"って言われる。
(怖い)
その感情を、押し殺す。考えちゃいけない。走ることだけに集中する。
三コーナー。四コーナー。
先頭のウマ娘が、少しずつペースを上げ始めた。後続も、それに呼応する。
私も、脚を使う。でも、体が重い。
後ろから、気配が迫ってくる。
レッドディザイア。
あの赤い影が、じわじわと近づいてくる。
(追いつける。いや、追いつかなきゃ)
最後の直線。
先頭のウマ娘が、懸命に粘っている。私は、その外から並びかける。
残り200メートル。
先頭に立つ。でも、まだ抜けない。脚が、思うように前に出ない。
そして、外から。
レッドディザイアが、凄まじい勢いで迫ってきた。
(速い...!)
二人が、横一線。
残り100メートル。
私は、必死に脚を動かした。もう、期待とか、人気とか、そんなこと考えてる余裕はない。
ただ、勝ちたい。
この一瞬のために、どれだけ練習してきたか。どれだけ悔しい思いをしてきたか。
全部、全部、この直線に込める。
レッドディザイアも、負けていない。あの子の瞳には、強い意志が宿っている。絶対に譲らないという、闘志が。
ゴール板が迫る。
最後の最後まで、脚を動かし続ける。
ゴール!
二人が、ほぼ同時に駆け抜けた。
私は、荒い呼吸を整えながら、電光掲示板を見上げた。
『1着 2番 レッドディザイア』
『2着 7番 アジュールラピス』
ハナ差。
「あ...」
声にならない声が、喉から漏れた。
また。また、届かなかった。
レッドディザイアが、こちらを見ていた。
その視線からは、勝者の喜びと、どこか敬意のようなものが宿っていた。
「...強かったです」
レッドディザイアが、そう言った。
「あなたも」
私は、そう返すのが精一杯だった。
悔しい。でも、不思議と、前のような重い感覚はなかった。それどころか、楽しかった。またあの娘と走りたいという欲望があふれてくる。
期待という鎖は、まだ解けていない。でも、少しだけ前を向けるそんな気がした。
ウイニングランを終えたレッドディザイアは、ライブに向かう途中、深く息を吐いた。
ハナ差での勝利。アジュールラピスは、本当に強かった。最後の直線、あの粘りには驚かされた。
「良いレースだったぞ」
トレーナーが、満足そうに言った。
「ありがとうございます」
「アジュールラピス、良いウマ娘だ。また、どこかで当たるかもしれないな」
「はい。その時は、また全力で」
数日後。
レッドディザイアは、トレーニングセンターの練習場で調整をしていた。エルフィンステークスの疲労も抜け、体は順調に回復している。
「レッドディザイアさん」
声をかけられて振り返ると、マンハッタンカフェが立っていた。
「マンハッタンカフェさん。こんにちは」
「こんにちは。その...偶然通りかかって。調整、順調ですか?」
「はい。おかげさまで」
「...エルフィンステークス、本当に素晴らしいレースでした。ハナ差での勝利。最後まで諦めない姿、見ていて感動しました」
マンハッタンカフェの言葉には、心からの称賛が込められていた。
「ありがとうございます。でも、アジュールラピスさんも本当に強くて。もう少しで負けてました」
「それでも、勝ったのはレッドディザイアさんです。自信を持ってください」
「...はい」
マンハッタンカフェは、優しく微笑んだ。
「...次はいよいよ本番ですね。いまのレッドディザイアさんならブブエナビスタさんと勝負にはなるはずです。胸を張ってください」
「はい。頑張ります」
マンハッタンカフェが去った後、レッドディザイアは再びトレーニングに戻った。
憧れのウォッカが走った舞台で勝てた。次は、もっと大きな舞台で。そんな思いを胸に。
一方、旧理科準備室では。
「ふむふむ。レッドディザイア君の勝利か」
アグネスタキオンが、レース映像を見ながら呟いた。
「アジュールラピスも良い走りだったけどね。惜しかった」
ドアが開かれ、マンハッタンカフェが入ってきた。
「タキオンさん...」
「やぁ、カフェ。約束だから仕方ない。約束通り、コーヒーに付き合わせてもらおうかな」
「...その前に、一つ聞いてもいいですか」
「なんだい?」
「タキオンさんは、本当にアジュールラピスさんが勝つと思っていたんですか?」
アグネスタキオンは、少し驚いたように目を丸くした。それから、楽しそうに笑った。
「鋭いね、カフェ。正直に言うと、五分五分だと思ってたよ。どちらが勝ってもおかしくない、良いレースになると思ってた」
「じゃあ、なぜ...」
「カフェの反応を見たかったのさ。レッドディザイア君のことを、どれだけ信じているのかね」
アグネスタキオンは立ち上がった。
「さて、約束通りコーヒーに付き合おう。砂糖はたっぷりで頼むよ」
「...分かりました」
二人は、旧理科準備室を後にした。
外では、春の陽気が少しずつ強まっている。クラシックシーズンはもう、すぐそこだ。
次回からいよいよ本番の予定です。新馬戦やエルフィンステークスは探してもレース映像があまり出て来なかったので半分くらい私の想像になります。申し訳ない。
そんなこんなで不束者ですが完結まで応援してくださると幸いです。
それではまた