青い青春のひとかけら 作:逆襲
ゲヘナからシャーレへと続く通りは、昼の陽射しに少しけだるさをまとっていた。
こんな日には自室にこもって昼寝でもしたいところだが、いつもの指令が入ってしまってはそうもいかない。
舗装された道を、とぼとぼと歩く。
大きく伸びをしながら、その少女はゆっくりと足を進めていた。
ふわふわとした赤い髪が風に揺れる。
通りすがりの猫が彼女の前を横切った。
彼女は立ち止まり、ぼんやりと猫を見つめる。
「……あなたは自由に生きれてそうで良いですねぇ」
ひとりごちて、またダラダラと歩き出す。
坂を下れば、もう目の前に見えるのはシャーレの建物。
「……とりあえず、行くだけ行って、あとはソファでごろごろ……それでいいですかね」
今日やる気のあるのは“そこまで”だと自分に言い聞かせながら、ゆっくりと自動ドアの前に立った。
静かな「ピン」という音とともに、ドアが開く。
「おじゃましま〜す……」
中に入ると、いつもの静かなシャーレの空気が広がっていた。
だけど、いつもと違うのは——中央のデスクで、先生がぐったりと項垂れていたこと。
「……え?」
目の前の光景に小さく瞬きをする。
いつもなら机に向かってカタカタと仕事をしているか、誰かと話しているのに。
今日は背中に疲労がべったりと貼りついたような姿勢で、突っ伏していた。
「……先生、もしかして……死んでます?」
冗談半分で近づいてみると、先生はぴくりと指先を動かした。
「…やぁイロハ…見ての通り…生きてるよ…」
先生の手元を見ると、書類と端末がごちゃっと積み上がっている。
残っているコーヒーは、すっかり冷めきっていた。
「なるほど……これは……」
イロハは机に突っ伏してる先生をじっと観察する。
サボりの天才である彼女の目には、先生の“今”の状態が一発でわかった。
(……これはサボらせるしかないですね)
イロハの口元にゆるい笑みが浮かぶ。
今日は自分がサボる日じゃない。
先生をサボらせる日だ。
「先生? 最後に休憩したのはいつですか?」
少し間を置いて、先生が答える。
「えーっと……二日前の、いや三日前だったっけ……」
その言葉を聞いて、イロハは目を丸くした。
「……先生。一つ申し上げますが、今の状態で仕事をしてもただ非効率なだけです。今すぐ休息をとることをお勧めします」
「いや、でも……今日までの書類が……」
「先生が倒れるほうが困るんです。いいから、こっちに来てください」
イロハは先生の手を掴み、ずるずると椅子から引きはがしてソファの方へと引きずっていく。
「はい、とりあえず寝ててください」
抵抗する先生を強引にソファへ寝かせたあと、ブランケットをふわりとかける。
「あとはこれと……」
イロハは棚を探り、あるものを取り出す。
彼女の手にあったのはホットアイマスクだった。
封を破り、ほんのり温かいそれを先生の顔にそっと乗せる。
「はい、これで完全にサボり体制ですね〜。…他になんか欲しいものありますか?」
「……」
「先生?」
イロハが顔を近づけると、すでに小さな寝息が聞こえてきていた。
「はぁ……そんなになるまで仕事してたんですか……」
イロハは自分の鞄から一冊の本を取り出し、床に座りソファに背中を預ける。
「じゃ、私も遠慮なく……」
そして、しおりを挟んであったページをめくる。
いつもは遠くからペンやキーボードの音が聞こえてくるが、今日はすぐ後ろから寝息が聞こえる。
少々、新鮮な気分だった。
「んんぅ……?」
目を開け、まず視界に入ったのは赤一色。
「あ、起きましたか先生」
イロハは振り向かずに、先生に声をかける。
いつもの調子よりも、ほんの少しだけ声がやわらかい。
「……ごめん、私、寝ちゃってた?」
「はい、ぐっすりでしたよ。最初はちょっと心配しましたけど、すぐ寝息が聞こえてきたので大丈夫だなって」
「……少し、すっきりした気がする」
「それはよかったです。先生、サボるのも立派な仕事ですよ」
イロハは本をぱたんと閉じ、ひょいと立ち上がる。
「いや、それはどうなんだろうか……」
苦笑いしながら上体を起こす先生。
毛布の端を持ち上げると、ほんのりと残る温もりに、自分がしっかり眠っていたことを実感する。
「ずっとそこにいたの?」
「はい。せっかくなので私も“静かな時間”を堪能してました」
イロハは先生の隣に腰かけ、肩に軽く寄りかかる。
いつものダラけた雰囲気だけど、不思議とそれが心地いい。
「……先生って、ほんとに働きすぎなんですよ」
イロハの声が、ほんの少しだけ真面目な色を帯びる。
「もし倒れたら、イブキが悲しみますよ?」
「あはは……気をつけるよ」
「では、今日から“強制サボりタイム”を週一で作るってことで」
「それは困るなぁ……けど、ちょっとは休む時間を増やそうかな……」
こういう少し緩い時間も悪くない——そう思った。
ふと、先生はイロハに問いかける。
「そういや、さっき言ってた“もし私が倒れたら”ってやつ。イロハは悲しんでくれるの?」
「さぁ? どうでしょうか」
イロハはそう言って、いつものようににやりと笑った。
ソファにかけていた毛布を先生の膝の上にぽんと置くと、大きく伸びをする。
「さて、それじゃあ私はそろそろ帰りますかね〜。」
イロハがシャーレに来てから既に3時間程度経過していた。
昼と夕方の境目、やさしい光が窓から差し込み、シャーレの中を照らしていた。
「イロハ、今日はありがとうね。」
「別にいいですよ。サボり仲間を増やすのも、悪くないですし」
イロハはくすりと笑い、ドアの方に歩いていく。
「……じゃ、また近いうちに来ると思いますが、くれぐれも無理せずに、ですよ。」
「うん、気を付けるよ。イロハも気を付けて帰ってね。」
イロハの足音が通りへと消えていく。
シャーレの中は、再び静けさに包まれた。
先生は軽く息をつき、デスクの方へと戻る。
まだ積み上がった書類は山ほどあるけれど——
さっきまでと違って、肩が少しだけ軽い。
ペンを手に取り、書類に向かう。
いつもよりも、手が自然と動いていた。
頭がすっきりしているのが自分でもわかる。
(……不思議なもんだな)
小さく笑いながら、一枚目の書類にペンを走らせる。
静かなシャーレの空気に、規則的なペンの音が心地よく響いていた。