青い青春のひとかけら 作:逆襲
昼下がりの空気は、まだ少しだけ夏の熱を残していた。
アスファルトがぼんやりと陽炎を立て、制服の上からでもじんわりと汗が滲む。
「……暑い……」
気の抜けた声を漏らしながら、合歓垣フブキは帽子のつばを少し下げて影を作った。
こう見えて一応、今日はパトロール中である。
無線で「巡回行ってきまーす」とだけ伝え、あとはこの通りをだらだら歩いているだけ。
「んー……異常なし。うん、異常なし……たぶん」
交差点の角に立って一応きょろきょろと辺りを見回してみる。
平和そのものだ。
目に映るのは、気だるそうに歩く学生と、アイスを食べながら座り込む子ども。
「パトロールってさー……こういう時は、ちょっとくらい休憩してもバレないよねぇ」
フブキはため息混じりに、制服の胸ポケットに忍ばせていた小さなドーナツを取り出す。
半分ほどを口に含むと、口の中に甘い味が広がった。
「やっぱオールドファッションが一番だよねぇ」
目的地は、いつもの“サボり場所”――シャーレ。
この時間帯は人の出入りも少なく、ソファの座り心地もいい。
涼しい部屋で冷たい飲み物をもらって、ちょっと転がるだけのつもり。
(……ちょっと涼んで、ちょっとゴロゴロして、良い時間になったら帰る。うん、完璧だね)
帽子の下の表情はいつも通りの眠たげな半目。
でも、彼女の足取りはちゃんとシャーレの方向へと伸びている。
心なしか、歩く速度が少しだけ速くなっている気がした。
やがて、坂道の向こうに見えてくるガラス張りの建物。
陽の光を反射して、きらりと光った。
「……到着〜」
フブキは背筋をぐーっと伸ばして欠伸をひとつ。
ぐったりした空気のまま、自動ドアの前に立つ。
ピン、と音が鳴り、ドアが静かに開いた。
「おじゃましまーす……」
目の前に広がっていたのは、いつもと同じシャーレの光景だった。
薄く差し込む午後の光のなか、静まり返った部屋。
そしてその真ん中、机に突っ伏すようにして動かない先生の姿。
だが、空気だけが違った。
いつもの穏やかな気配が、そこにはなかった。
「先生? また仕事のしすぎ? まったく、先生はほんと力の抜き方が下手なんだから」
わざと軽い調子で声をかけながら近づく。
けれど、冗談を言っても先生はいつものように顔を上げてくれない。
よく見れば、肩も胸も上下していない――呼吸の気配が、ない。
心臓がドクンと強く鳴った。
空気が一瞬で冷たくなったような錯覚を覚える。
「……先生? ね、寝たふりなんて冗談、やめてよ……」
少しだけ震える声でそう言い、フブキはそっと肩に手をかける。
だが、その体は石のように重く、反応は何も返ってこなかった。
焦りが喉を焼き、手に力が入る。
もう一度、今度は強く揺する。
「先生っ!……あっ!」
バランスを崩した先生の体が、椅子からずるりと滑り落ちた。
床に倒れた音が、静かなシャーレにいやに大きく響く。
「……先生?」
膝をつき、すぐに先生の顔に耳を近づける。
息が――聞こえない。
喉元に指を当てる。脈も弱く、感じるのがやっとだった。
胸の奥がギュッと締めつけられるようだった。
のんびりした午後のはずが、今は一刻を争う状況だ。
「え、ええっと……こ、こういう時って……どうするんだっけ……!」
頭の中が真っ白になる。心臓の音だけが、耳の奥でやたらとうるさく響いていた。
必死に冷静になろうとするが、息が浅くなり、手が震える。
こうなるなら、救命訓練の講座、さぼらなきゃよかった――今さら強烈に後悔が押し寄せた。
「と、とりあえず……119番……!」
スマホを取り出し、震える指で番号を押す。
それだけの動作が、ひどくもどかしく、遅い。
コール音が鳴る数秒が永遠にも思えた。
(はやく……!はやくしないと……先生が……!!)
「……はい!えっと、シャーレで、先生が倒れてて、息してなくて……!」
状況をたどたどしくも必死に説明する。
通信員の声は冷静で、逆にフブキの焦燥を浮き彫りにした。
通話を終えると、フブキはすぐさま先生のもとへと駆け戻る。
あの講座をサボった後、キリノに散々言われた手順が、頭の奥から引きずり出されるようによみがえってきた。
(ええと、まずは心臓マッサージ……その前にAED……! って、どこにあるのか知らないよ!!)
探している暇はない。とにかく今できることを――。
フブキは先生の胸のあたりに手を置き、ぐっと力をこめる。
小柄な先生の体は、自分が思った以上に脆く感じられた。
(どのくらい力を入れれば良いんだっけ……もういい、早くやらなきゃ……!)
呼吸も脈も弱いまま。焦りが込み上げる。
次にすべきことが、脳裏でキリノの声と共に点滅する。
(次は……人工呼吸!)
フブキはためらいなく自分の唇を先生の唇に重ね、空気を送り込む。
初めての感覚。だけど今はただ、先生を助けたい――その一心だった。
胸が少しだけ上下するのを見て、ほんの少しだけ安堵が胸をよぎる。
だが終わりじゃない。まだ油断できない。
「……大丈夫、大丈夫……絶対助けるから、先生……!」
ぐーたらな巡査フブキの顔から、いつもの気の抜けた笑みは消えていた。
代わりに浮かんでいるのは、真剣そのものの表情だった。
心臓マッサージと人工呼吸を繰り返すこと――数分。
時計の針はほんの少ししか進んでいないはずなのに、フブキにとっては何十時間も経ったように感じられた。
「……先生、お願い……!目を覚まして……」
額から汗が滴り、心臓が痛いほど脈打っている。
腕ももう限界に近い。それでも止めなかった。
止めたら、本当に取り返しがつかなくなる気がしたから。
そのとき――
「……ごふっ!!」
先生の体がびくりと震え、弱々しく咳き込んだ。
その瞬間、張り詰めていた空気が弾けるように崩れた。
「先生!!」
フブキはその場にへたり込みそうになるほどの安堵を覚えた。
心臓の奥から込み上げてくる感情が、言葉にならない。
「……あれ? ……フブキ? どうしてここに……って、なんで私、床で寝てるんだ……?」
先生は朦朧としながらも、何とか声を絞り出した。
まだ状況が飲み込めていないようだ。
「ごめん、フブキ……私、何して――っ!?」
次の瞬間、先生の言葉が途中で途切れた。
「……よかった……先生が……いなくなっちゃうのかと……もう会えないって思っちゃった……!」
フブキは先生の胸に飛び込み、がっしりと先生の体を両腕で掴んでいる。
震える声。その肩は小刻みに震えていた。
ぐーたらな巡査が見せたことのない顔――必死で、泣きじゃくる表情だった。
「え、あ、ちょっ……フブキ? ど、どういう……?」
困惑する先生の耳に、ドアの外から激しい足音が聞こえた。
「お待たせしました!!先生はどちらに――あれっ!?」
救急隊員たちがドアを押し開け、勢いよく室内へ駆け込んでくる。
だが、飛び込んできた光景は、泣きながら先生にしがみつく警察官と、その腕の中でぼんやりと目を開ける先生の姿だった。
「……え、えぇっと……」
シャーレにはフブキの小さな泣き声だけがこだましていた。
「……はい。○○○号室にどうぞ」
病院の受付で面会の許可をもらい、エレベーターへ乗る。
(ここに来るの、いつぶりかな……カンナ局長が倒れた日以来かな?)
先生が倒れた原因は極度の疲労による心筋梗塞であった。
あの時、たまたまフブキがシャーレに来ていなかったら発見は更に遅くなっていたであろう。
目的の階に着き、ドアがゆっくりと開く。
廊下の上部の掛け看板を確認し、目的の部屋がある方へ進む。
そして、目的の部屋の前へとたどり着いた。
「せんせー、入るよ」
軽くノックをしてドアを開ける。
そこにはベッドの上で座っている先生がいた。
「や、フブキ」
いつもと変わらない表情で答える先生。
「調子はどう?」
扉を閉め、ベッドの横の椅子に腰を下ろす。
「大分よくなってきたよ。この頃ずっと休めてなかったから……」
申し訳なさそうに頭をかきながら先生は話す。
「それにしても、あの時のこと、ありがとね。フブキが来てくれなかったら、私ここにいなかったかも」
「ほんとだよ。もっと感謝してもらってもいいくらい。ドーナツ2箱じゃ足りないねぇ」
その時、フブキの脳裏にあの光景がよみがえる。
胸が少し熱くなった。
「……ねぇ先生? 一つだけ、いいかな?」
「ん? どうしたの?」
「目、つむってて」
「? わかったよ」
一つ返事をし、先生は目を閉じる。
少し経ったあと、唇に何か触れる感触があった。
「んぅ?」
先生が目を開けると、半分に分けられたドーナツが口に押し込まれていた。
「んぐ……」
「しっかり糖分とか取ってね。じゃ、私はそろそろお暇しようかな」
一口分を飲み込んだ先生は、フブキの方を見る。
「フブキも体調とか気を付けてね。」
「それ、先生が言えたことかな? まぁいいや、気を付けるよ。じゃあねー」
ドアを閉め、来た道を戻る。
そのとき、フブキの頬はほんのりと赤く染まっていた。