青い青春のひとかけら 作:逆襲
深夜の街は、ひっそりと静まり返っていた。
外灯の下を、先生はふらふらと足を引きずるように歩いていた。
「……家に帰るの、何日ぶりだろう…」
小さなつぶやきは夜に溶け、誰の耳にも届かない。
体の芯まで疲れが溜まり、意識は朦朧とし始めていた。
ようやく自宅にたどり着き、ポケットから鍵を取り出す。
がちゃり、と音を立ててドアを開ける。
「……ん?」
暗いはずの部屋が、なぜか明るい。
照明がついている。誰もいないはずの家で。
一瞬、泥棒かと身構えたその時――リビングの奥に立つ影に目を奪われた。
無表情にこちらを見つめる少女。
淡い金髪に無機質な瞳。
いつものメイド服に身を包み、そこにいるのが当然かのように。
「おかえりなさい、先生。」
「ト、トキ?」
驚きに声が裏返る。だが彼女は気にせず、淡々と続ける。
「お風呂にしますか? ごはんにしますか? それとも、わ・た・し?」
お約束のような台詞。けれど口調は一分の抑揚もなく、ただ静かにこちらの目を射抜く。
「トキ? なんで私の家に……?」
「私は先生直属のメイドです。ご主人をお迎えするのは、メイドとしての職務です。」
鍵はどうした、今は深夜だぞ――問い詰めたいことはいくらでもある。
だが、限界を迎えていた先生の脳は「難しいことは後回し」にした。
「じゃあ……お風呂にしようかな。」
「はい。既に沸かしてあります。どうぞ。」
「はー……」
こうやってゆっくりと湯船に浸かるのは何日ぶりだろう。いつもはシャワーだけだったり温泉に入ることはあっても誰かに覗かれている気がしてゆっくりできていなかった。
「先生。湯加減はいかがでしょうか。」
脱衣室の方からトキの声が聞こえる。
「うん……最高だよ……」
「そうですか。では私も……」
「うん……うん?」
聞き間違いだろうか、戸の方を見る。
戸の向こうで衣擦れの音。
次の瞬間、戸が開けられタオルを巻いたトキが入ってきた。
「ト、トキ!?」
思わず顔を逸らす。
「先生。お背中を流します。ですので湯船から出てきてください。」
「ちょ、ちょっとトキ!流石に一緒にお風呂は!」
トキは首を傾げる。
「どうしてでしょうか。先生は既に多数の生徒とお風呂を共にしていると伺っているのですが。」
どこから情報が漏れた……いやそういうことではなく
「さ、流石にタオルを頂戴!トキが隠してるのに私は隠せてないよ!」
「そうですか、先生はそんなに私の裸体が見たいのですね。では。」
タオルの端を手に取ろうとするトキ。
「違う!違うから!私が恥ずかしいからタオルが欲しいの!」
「どんな大きさでも私は受け入れますよ?」
「そういう問題じゃない!」
こういう事を平然と言っちゃうからこの子は。
やれやれとした表情をしたトキからタオルを受け取ると腰に巻く。
先ほどまでのゆっくりとした雰囲気はどこへ行ったのだろう。
「では先生、こちらへどうぞ。」
お風呂の椅子を指すトキ。それに従い先生は椅子へ座る。
「それでは髪から洗っていきますね。」
トキの手にシャンプーが出される。
そして先生の髪に触れ始めた。
どんどん泡が立っていく。
「先生、かゆいところはございませんか?」
「うん、大丈夫だよ。」
他人に髪を洗ってもらうのはどこか少しくすぐったいが気持ちが良いものだ。
「では先生。流しますね。」
シャワーの水流が頭にあたり泡が洗い流される。
「では次はお背中を……」
スポンジにボディソープが染み込んでいく。
ゴシゴシと強く、だが皮膚に影響を与えないように優しく力を込めているのを背中越しに感じる。
「あ~……気持ちいいな……」
「それなら良かったです。では次は腕を……」
片腕にも同じようにスポンジが触れられる。
マッサージも兼ねているのだろうか、疲れた筋肉に癒しが与えられていく。
そうして両腕が終わった後、
「それでは先生、次は前を……」
「ちょっとそれはストップ!」
椅子の前に回り込もうとするトキを慌てて制止する。
「どうしてでしょうか?前に回らないと先生のお体を洗えません。」
「ここら辺はちょっとプライバシーの問題が……」
「先生がそれを今さらおっしゃるのでしょうか?」
痛いところを突かれる。
「いいから!スポンジ渡して!」
やれやれとした表情をした後、先生の手にスポンジが渡る。
「さて、私は出ますか。」
トキは立ち上がりお風呂の戸を開けようとする。
「あれ?湯船には入らないの?」
「私は先ほどすでにお風呂に入りましたので。では。」
そそくさと戸を開けトキはお風呂場から出て行った。
「ふー……」
ほかほかと小さな湯気を出しながら脱衣室から先生は出てきた。
「先生。お食事の用意ができています。」
「あ、ありがとう。」
促され椅子に座ると、トキは背後に立ったまま。
「トキは食べないの?」
「私は既に済ませましたので――」
ぐぅ。
可愛らしい音が響き、トキの瞳がわずかに揺れる。
この時間まで私をずっと待っていたのだろう。
「……一緒に食べよう?」
一瞬だけ目を瞬かせた彼女は、やがて静かに席に着いた。
「……先生がそこまで言うなら、仕方ありません。一緒に食べましょう。」
「じゃあ――」
「「いただきます」」
二人の声が重なった。
穏やかで、どこか温かな食卓だった。
「ふぁぁ……」
三徹の疲労には抗えず、強烈な眠気が押し寄せる。
そのまま机に突っ伏しそうになった時、体がふわりと持ち上げられた。
「ト、トキ……?」
半分夢の中のような意識で、腕に支えられていることだけは分かった。
視界の端に見えた横顔は――やっぱり、トキだ。
「先生。ここで寝ては風邪をひきます。寝室へ。」
淡々とした声。それでも、その声の響きはどこか優しい。
運ばれる間、先生は彼女の体温を感じる。
その温度に安心し、重たいまぶたがますます落ちていく。
ベッドにそっと横たえられ、毛布がかけられる。
肩口まで丁寧に整えられたそれは、母親のように気遣いに満ちていた。
「トキ……おやすみ……」
掠れた声でそれだけを伝える。
トキはしばし無言で寝顔を見つめていた。
そして、ほんの小さく――独り言のように呟く。
「……はい。おやすみなさい先生。」
その言葉は眠りに落ちた先生の耳には届かない。
頬に、柔らかな感触を覚えた気がした。
それが夢か現かは、分からなかった。
「……んぅ?」
朝の光がカーテン越しに差し込む。
体を起こし、リビングへ。
「トキ?」
だが彼女の姿はなく、テーブルの上に置手紙だけが残されていた。
――先生。
昨晩のお夕飯の余りは冷蔵庫に入れてあります。温めてお召し上がりください。
どうかお体にはお気をつけて。
――あなたのメイド、飛鳥馬トキより
ふと机の端に、彼女の青いリボンがひとつ置かれているのに気づく。
リビングには、まだ微かに彼女の香りが残っていた。