月下の花を摘むのは誰   作:ledi

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冷たい手

 

 

暗い地下室にかりかりと羽ペンの動く音が響いている。

時計の針が二つとも頂上を指そうかという夜更けに、スネイプは山積みの本と羊皮紙の束に向かって忙しなく手を動かしていた。

 

ホグワーツの教師たちはより質の高い教育を生徒に受けさせるため、常に学問を追及する者としての姿勢を求められる。

それを支える一つとして教師たちに毎年与えられるのがまとまった額の研究補助費。

補助が出るとはいえ、本職と両立して毎年のように研究発表することは不可能なため、実際は数年おきに研究を完成させそれ以外の年は補助を収入として得ることが暗黙の了解となっている。

幸い、現職のホグワーツ教師達は本来の目的通りに補助を使っているが、今までずっとそういう者ばかりだったわけではない。

いつの時代もホグワーツの教師の名が羨望されるのは、能力の高さを評価されるからだけではなくこういった現実的な魅力も備えているからだった。

 

かぶりつくように、ではなく背筋を伸ばして机に向かうようになった今も、スネイプは学生時代と変わらず学問そのものとそれを自分の力で追及することの面白さに取り付かれており、彼だけは毎年のように研究を行いこれまで数多の論文を著名な魔法誌に載せていた。

そういうわけでこんな時間でも一人で黙々と作業をするのが日常になっていて、彼に顔色の良い日が1日たりともないのは当然のことだった。

とはいえ、もう随分と休んでいないので目がかすんできた。

一旦羽ペンを置いて首をゆっくりと回し息をつく。

羊皮紙には今取り組んでいる研究の概要がびっしりとまとめられている。

 

"ユーカリオータナ属であるバンコモイドを使用した場合の質量に由来しない効果時間の差異について、先行文献においては・・・"

 

紅茶を淹れなおすか、このままもう少し続けるか考えていると正面にある小部屋の扉に目が止まった。

昨日のように顔面蒼白のシオリが黙って床に倒れていても気付くことができるように、扉は開けたままにしてある。

扉の奥は真っ暗だが、こちらからわずかに伸びた光で椅子と机の足だけは見える。

誰かが倒れている気配はない。

今朝の様子からするに調合した薬が合っていたようだからもう心配はいらないだろう。

 

 

スネイプは今朝、シオリがベッドの下にもぐりこんで寮に戻るのを見届けた後、一晩彼女を見張りながら研究書類をまとめていたせいで逃したシャワーをいつもより時間をかけて浴びた。

身支度を整え、寝不足で黒くくぼんだ目をしばたかせながら大広間に入ると、さっきまで自分の淹れた紅茶を嬉しそうに飲んでいたはずのシオリがグリフィンドールのテーブルに上半身を預けて、力なくうつ伏せになっていた。

その光景に心臓がどくんと跳ねた。

 

 

「スネイプ先生おはようございます。」

 

 

マルフォイのご機嫌とりの挨拶はスネイプの耳に届かなかった。

勝手に早くなる足に落ち着くように言い聞かせながらも、動かないシオリの姿に動悸が止まらない。

なぜだ、やはり呪いがかけられていたのか、しかし・・・

 

グリフィンドールのテーブルでは、スネイプが恐ろしい形相でなぜかこちらに向かってくるという事態に生徒たちが身を寄せ合っていた。

そんな生徒たちに構わずスネイプはシオリの後ろで立ち止まり、小さな背中がゆっくりと上がって下がるのをじっと見た。

息はしているようだ。

肩を軽くゆさぶると、わずかにうめき声をあげてシオリが顔を横に向けた。

目は閉じたままでだらしなく開いた口からはよだれが垂れている。

 

 

「やだ・・・まだ食べる・・・もっと持ってきて・・・」

 

 

パシッ

 

 

スネイプは思わずシオリの頭を勢いよくはたいた。

さっきの今であれだけ心配をかけておきながらふざけた寝言を言うこの間抜けな顔が許せなかった。

隣にいたネビルがまるで自分が叩かれたかのように飛び上がり、シオリはビクッと体全体を揺らしてしばらく動かなくなった後ゆっくりと頭を起こした。

きょろきょろと大広間を見渡して、こちらを振り返った。

 

 

「えっと、なんですか?」

 

 

ひどい顔だ。

まともに開いているのは片目だけで、眩しいのかしかめた顔にまだ一筋よだれが垂れている。

ひどい顔ではあるが今朝見た時と変わらず顔色はよく、スネイプはやっと息をついた。

まだ呆けているシオリを放って職員席に腰をおろすと昨晩からの疲れが一気に押し寄せて、思わずテーブルに肘をついてカクンと落ちそうになる顔を支えた。

勝手に落ちてくるまぶたを閉じたまま、深いため息をついてティーカップに口をつける。

ちょうどいい温度の紅茶が喉を通ってゆっくりと胃の中に流れ込むのが、温かく心地よい感覚で伝わってくる。

今度はため息ではなく、ゆっくりと鼻から息を吐いて抜けていく紅茶の香りを楽しむ。

一心地ついたスネイプは目を開けた。

視線の先にちょうどシオリがいる。

遠く離れている上に、他の生徒よりも背の低いその頭がなぜ目についたのか分からない。

ぼうっとそのまま見ていると、シオリがこちらを振り返って二人の目が合った。

さっきまで机に突っ伏していたというのに長い髪が乱れなく背中へ胸へとゆったり流れ落ちて、朝日を受けてきらきらと輝いている。

その輝きを自分でも不思議なほど穏やかな気持ちで眺める。

そしてシオリが笑った。

確かに自分に向かって口許を緩ませて、黒い瞳を少し細めて、柔らかく微笑んだ。

スネイプは思わず紅茶ではなく息を飲んでむせてしまった。

大広間に何百人といるなかで、その目は自分だけを見ていた。こんな自分を。

 

 

スネイプは彼が職員席ではなくまだスリザリンのテーブルで一人で朝食をとっていた頃のことを思い出した。

 

 

がやがやと騒がしく落ちつきなく動くたくさんの顔。

右を向いたり左を向いたり、誰も彼も朝からよくそんなに口が動くものだ。

スネイプはいつも一人で黙って食事をとっていた。

スリザリンの中でのいじめがなくなって後に死喰い人になる生徒たちの中に交わるようになっても、スネイプは友人たちより勉強を好んだ。

テーブルの皿をどけた代わりに本を広げて、それを読むついでに手近なものを口に放り込む。

あの頃は美味しいも楽しいも分からなかった。

ただ、魔法を学ぶことが面白かった。

学校生活における喜びをそれ一つしか知らないスネイプは、誰になんとけなされようとひたすら教科書や本に没頭して一人の時間を愛していた。

しかし、ふと聞こえてくる一つの声だけには本を読む手が止まる。

明るく朗らかなその笑い声に顔を上げると、たくさんの人の中できれいな赤毛の横顔が誰かに向かって微笑んでいるのが見えた。

スネイプはいつでも、どんなにたくさんの人の中でもリリーをすぐに見つけられた。

見つけるというより、彼女のことしか見えていなかったのだろう。

彼の世界には自分とリリーとそれ以外の区別しかなかった。

彼女が誰にでも平等に優しく美しいとしても、スネイプにとってはリリーが全てだった。

しかし、どんなに見つめても緑色の輝く瞳はいつも他の人間に向けられていて、自分を見ることはなかった。

 

 

カチリ、と時計が0時を指す音でスネイプは大広間から地下室の自室へと意識を戻した。

あまりに鮮明な記憶に囚われて、手が止まったままでいたことに気付く。

これ以上余計なことを考えないようにスネイプは急いで疲れた手に羽ペンを持った。

 

 

”これまで主張されてきた説には環境因子の影響が否定できず、本研究ではより厳格な基準を定めたためその実験方法について述べていく・・・”

 

 

朝日の差す大広間でリリーの笑顔が一層輝いて見える。

その後ろをジェームズが物欲しそうな顔で通りすがり、彼女の髪を揺らしておどけた。

リリーは緑の瞳でジェームズを見上げて、少し怒って見せたあと笑った。

頬がほんのりと赤く染まっている。

なぜあいつなのか、先に愛したのは自分なのに、どうして彼女は自分を見てくれないのか。

 

 

”研究対象を四つのグループに分類し、それぞれ異なる条件下で実験を行った。この際・・・”

 

 

違う、彼女と向かい合って過ごしたかけがえのない時間は確かにあった。

真っ直ぐに向き合えた時があったはずだ。

自分の口から出た取り返しのつかない言葉が二人の道を分けたあの時までは。

なのに、自分を見てくれるあの瞳をどうしても思い出せない。

人生における唯一の幸せな思い出は人生最大の過ちで塗りつぶされてしまった。

リリーのことを想う度、この腕に抱いた冷たい体の重さと閉じられてもう開くことのない青白い瞼ばかりが蘇る。

 

 

”この時、同じ条件で、同じ、・・・”

 

 

急いでかき消してもう一度二人の時間を思い出そうとする。

すると今度はジェームズの勝ち誇った笑顔が浮かんできた。

違う、あの目の色はハリーだ。

そう気付いた瞬間、その顔は笑うことを止めて強い憎しみの炎を緑色の目に灯した。

 

 

"やめろ、見るな・・・"

 

 

リリーはどこに、二人で過ごした日々はどこにいってしまったのか。

ジェームズの顔をした緑色の目が自分を睨んでいる。

恨まれても仕方がない。

許しを乞うことも叶わない。

こんな自分が生きていていいはずがない、消えてしまいたい。

 

 

"僕を見ないで・・・"

 

 

全てが黒く塗りつぶされていき、自分も黒く染まっていく。

これが消えるということか、消えてもいいということか。

もう何も見たくない・・・これでいい・・・

 

 

「いたっ。」

 

 

小部屋から声がした。

スネイプはまた意識を取り戻して、息も絶え絶えに額を流れ落ちる汗をぬぐった。

全身に力が入っていて強ばった手には折れてしまった羽ペンが握られている。

羊皮紙の研究の記述は途中から支離滅裂になっていて、スネイプはそれをくしゃくしゃに丸めて捨てた。

それと同時に、目の前の扉からいつもと変わらない調子でシオリが頭をさすりながら出てきた。

 

 

「出てくる時ベッドに頭ぶつけちゃった。」

 

「・・・他人の部屋に入るときはノックするように習わなかったのかね。」

 

「扉開けてくれてるのにノックいるの?」

 

「・・・こんな時間に何をしにきた?」

 

 

そう言いながらも、出会った時と同じ黒い寝間着で勝手にソファに腰かけているこの自由な少女に少なからずスネイプは感謝した。

彼は十年経った今も愛と罪の入り交じった記憶に苦しんでいた。

ハリーの成長を待っていたこの十年は自身の過ちを償うための準備期間に過ぎず、罪の意識を薄れさせるためのものにはなり得なかった。

スネイプにとっては全てが昨日のことのようで、彼を生かすのも苦しめるのも彼の記憶だけだった。

こんなにも苦しいというのに、彼にはある意味では今を生きている実感がなかった。

そんなことを知るよしもないシオリが大きく伸びをしてまたソファに深く沈みこんだ。

 

 

「昨日変な時間に寝たからか眠れなくて。セブルスの紅茶を飲みに来たの。」

 

「目上の者には・・・」

 

「敬語を使った方がいいですよね。紅茶を淹れてください。お願いします。」

 

 

何がおかしいのかへらへらとそう言う様子に苛立ちを覚えながらも、嫌な記憶のせいですっかり乾いてしまった口を潤したいとスネイプが立ち上がった。

 

 

「わーい。なんだかんだ淹れてくれるもんなあ。嬉しい。」

 

 

茶器を用意して湯を沸かしているとシオリが隣に立った。

 

 

「どうやってあんなに美味しく淹れるのか見ようと思って。」

 

 

出会った日のシオリと今の姿が重なる。

あの日も寝間着でこうして興味深そうに手元を見つめられて鬱陶しく思ったのだった。

今はどうだろう。

スネイプは十年一人で過ごしたこの暗い部屋がどこか明るくなっていくのを、嫌な気はせず受け入れている。

湯を注いでポットの蓋を閉じ、茶葉が開くのを待つ。

そんな短い時間も、横で小さく鼻唄を歌うシオリと待っていると騒がしいわけではなくかえって一人でいるよりも穏やかなものになるのだ。

二つのカップに交互に紅茶を注ぐ。

シオリはもうミルクと蜂蜜を目の前に置いて、スネイプが紅茶を注ぎ終わるのをじっと見守っている。

スネイプが何も言わず紅く満たされたカップを一つシオリの前に滑らせた。

 

 

「やった!いただきます。」

 

 

まずミルクがなみなみと注がれる。

すでに常人の倍以上の量は入ったと思われるがまだシオリの手が止まる様子はない。

美しい紅から白濁してしまったお茶がカップから溢れるのではという勢いにスネイプはミルクを持っている手をつかんだ。

 

 

「なんですか?」

 

「淹れたものへの敬意はないのかね?いい加減に茶の飲み方くらい覚えたまえ。」

 

「敬意はありますよ。美味しい紅茶ありがとうございます。でも私のために淹れた瞬間からこの紅茶は私のものなんだから、私の好きに飲んでいいんです。」

 

 

スネイプは減らない口に目を鋭くしたが、シオリもいつも通りその目を見つめ返した。

 

 

「離して。」

 

「ミルクを置くのが先だ。」

 

 

シオリがスネイプの手に自分の手を重ねた。

しっかりと自分を捕まえている指をはがそうと、細い指を無理やり絡める。

 

 

ドクン

 

 

スネイプの冷たい手に小さな温もりが伝わる。

重なった二つの手は大きさがまるで違っていて、ごつごつとした自分のと比べると彼女のそれは柔らかく滑らかで、とてもか弱く見えた。

 

 

「冷たい手・・・」

 

 

抵抗するのを止めてシオリがつぶやく。

 

 

「知ってます?手が冷たい人って心が温かいって。」

 

「そのような根拠のない戯言を迷信と言うのだ。」

 

 

まさに戯言だ。

この体に温かい心というものがあったのなら今ごろ何もかもが違っていただろう。

誰も温かさなどというものを教えてはくれなかった。

知りたいと思っても叶わなかった。

 

 

「そうでもないと思うな。人ってストレスを感じて自律神経が乱れると体が冷たくなるんだって。だからいつも手が冷たい人はいつもストレスを感じてる。」

 

 

マグルの医学の話なのだろう。

スネイプの知らぬところの話だとしても、それと心の温かさとは辻褄が合わないことは分かる。

 

 

「つまり、いつも何かに苦しんでいる人ってこと。人よりたくさんのことを感じて傷ついて苦しんでるなら・・・きっと人より優しくなれる。それこそいつも温かさを求めていて、心が温かいってことがなんなのかを人より理解してるんじゃない。」

 

 

自分を見上げる黒い瞳は今朝のように微笑んではいないが、そこに映る自分すらも綺麗なものに思えるくらい透き通って美しかった。

 

 

「・・・やはり戯れ言だな。」

 

 

スネイプは緩んでいるシオリの手からミルクを奪い取って棚に戻した。

 

 

「あ!やられた・・・まあいいか。」

 

 

シオリが口の先を尖らせながら蜂蜜でカップに円を描く。

スネイプは自分のカップを持って作業机に戻った。

定位置としているのか、小部屋に行かずまたソファに埋もれるようにして座っているシオリを横目で見る。

 

 

(お前の手が温かいのだから・・・どう論じようとその話には辻褄が合わないだろう。)

 

 

こくりと喉を動かし、紅茶が流れ込んだところとは別のところが温まっているのを感じる。

緑の瞳がスネイプを見なくなってからもうずっと冷えきっていたそこは、それでもずっとそこにあったらしい。

ただの記憶と記憶の痛みにすり減ってもなお消えない愛情、それらにしがみついて生きているだけの自分にもまだ心が残っていたのか。

 

シオリがこちらを見た。

見れば目が合う、そんな関係がいつの間にか出来上がっていることに気付く。

 

 

「ねえ、ミルクの量これくらいで美味しいや。言う通りにしてよかった。」

 

 

そう言うシオリの上唇の周りはうっすら白くなっていて、とても紅茶を飲んでいるようには見えない。

スネイプは口の端をほんの少し上げて、新しい羽ペンにインクをつけた。

紅茶を飲干したシオリがあくびをしながら寮に帰って行った後も、スネイプは温かくなったよく動く手で研究概要を羊皮紙何枚にも渡って書き上げていった。

 

 

 

 

 

 

 

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