暖かい炎が背後から自分を照らし、暗い部屋にちらちらと揺れる影を映す。
抱えて読むにはやや分厚すぎる本の重みが胸に心地いい。
少し離れたところで鍋がたぎらずふつふつと静かに沸き、フラスコか試験管か、時折小さくカチャリという音がして目を閉じていてもそこに人がいると分かる。
たった一人でこの世界に来てしまった時はこんなクリスマスを過ごせるとは思っていなかった。
考えないようにはしているが家族が側にいないというのはとても寂しいものだ。
魔法も素敵な暖炉もなかったが、家族で過ごした笑顔でいっぱいの夜が思い出される。
クリスマスには夜更かしをしてソファで眠るのがシオリの決まりだった。
そうすれば母が頭をなでて優しく声をかけ、ベッドへ誘ってくれる。
どんどん成長していくシオリを尊重して普段は距離を置いているのに、この時だけは小さい子供にするように額にキスをしてくれるのが嬉しかった。
キスを落とされたところから深い愛が全身を包み込む。
応えるように眠たい目を開けると母の笑顔がある。
自分は守られている、怖いものなどなにもないのだと強く感じる瞬間だった。
思い出に浸りながら意識の底でまどろんでいると冷たいものが頬に触れた。
夢うつつにシオリはそれが大きな手だと分かった。
その手はいつものように頭をなでることはなく、ベッドへ手を引いてくれることもなく、ただ固まっている。
どうしたのだろうと思っているとくすぐったい感じがしてシオリは身じろぎ、くすりとした。
ふわりと身体が浮かび上がり、母のものではない薬草の匂いと古いよくなれた革のような香りがした。
息をする度に胸に満ちるそれは、嗅ぎなれたものではないのになぜか心を落ち着かせシオリをさらに深い眠りへと誘う。
ぎこちなく、しかし壊れ物を扱うようにそっと自分を抱く手が離れていくのを惜しく思いながらシオリは意識を手放した。
朝になり、シオリはソファではなくベッドの中でゆっくりと目を開けた。
何か温かく優しい夢を見ていた気がする。
起き上がって部屋を見渡し、寮に戻らず眠ってしまったのだと気付いた。
机の上に昨日渡された本が置いてある。
「まさかセブルスの前で眠っちゃうとは・・・たたき起こされた記憶がないけどソファから運んでくれたのかな?悪いことしたな。」
非常にややこしい彼の機嫌を気にしないようにして自由に過ごしているだけで、目の前で眠ってしまうほど気を許したことはなかったはずだが、本を見て自然と緩む頬にそんなこともあるかと納得した。
時計は六時前を指している。
スネイプの私室に明かりはなく、シオリは音をたてないように気をつけながら寮へと戻った。
「おはようシオリ。」
「おはよう。」
すっかり目が覚めてしまったので暖炉の前で本を読んでいると、ハリーが一人、寝室からの階段を降りてきた。
いつもくしゃくしゃの黒髪が更にあちこちはねてぴょんと揺れている。
ハリーは目をこすりながら大きなあくびを一つして隣の椅子にかけた。
「早いね。どうしたの?」
「君こそ。僕はロンが叫んだ声で起きただけ。いつものことだよ。ねえ、それはなに?」
ロンの寝言がどれくらいうるさいのか想像して笑っていると、半開きだった緑の目が急にぱちりと開いた。
手首のあたりを興味深そうに見つめている。
「あ、また出てきてる・・・これクリスマスプレゼントにもらったの。生きてるアクセサリーみたいなものかな。きれいでしょ?」
「うん・・・本当にきれいだ。そんなのここでも誰も着けてないよ。ここに来てずいぶん経つのに僕まだ毎日驚かされてばかりだ。本当に・・・」
「「魔法ってすごい。」」
二人は笑ってしばらくシオリの腕で花がそよそよと揺れるのを見た。
まだ薄暗い冬の早朝に二人きりでいると、なんだかとても大事な時間をともにしているような気持ちになる。
嬉しそうに微笑んでいるシオリの横顔にハリーはずっと気になっていたことを聞きたくてたまらなくなった。
家族はいるのか?
マグルのなかでどうやって過ごしていたのか?
辛い境遇で育ったのではないか?
ハリーは自分のことを何も話さないシオリが気になって仕方なかった。
なんとなく自分と似た境遇なのではないかと期待する気持ちと、彼女のことを考えればそうでなければいいと思う気持ちが半々だった。
ハリーは二人きりの今ならと言葉を選んできりだした。
「これは・・・誰がくれたの?すごく素敵なプレゼントだ。」
「・・・お、おじいちゃん?」
シオリの微笑みがぎしっと固まったことと、その答えがなぜ疑問系なのかが気になったが、彼女には家族がいるのだということにハリーは落胆と安心を覚えた。
「その本は?やけに重そうだけど・・・それも誰かからの?」
「・・・おじ・・・さん?」
叔父さん。両親ではないのか。
ハリーはまだまだ色んなことが気になったが、難しくしかめたシオリの顔を見てこれはやはり聞かれたくないことなんだと思いやめることにした。
「クリスマスプレゼントっていいよね。僕、プレゼントなんてもらったの生まれて初めてだよ。ロンのママがまさか僕にまで用意してくれてるなんて思いもしなかった。ロンのママってすごく優しいんだ。」
「あのセーターすっごく似合ってた!ハリーのきれいな瞳にぴったり。私もロンの家族に会ってみたいなあ。」
「きっと喜んで会ってくれるよ。ロンの家族といると楽しいし賑やかだし、自分のうちのことなんか忘れられるよ。」
そこまで言ってハリーはおかしな言い方をしてしまったとシオリの顔をうかがったが、特に気に留めた様子はなくいつもの笑顔にほっとした。
ハリーはシオリがよく笑う一方で、ふとした時にどこか遠くを見ているのが気がかりだった。
お祖父さんと叔父さんが彼女に良くしているのだろうということは分かる。
だが両親の代わりにはなり得ないだろうとも思うハリーは、やはりいつかシオリに両親のことを聞きたいという気持ちが消えずに残った。
クリスマス休暇が終わり、ハーマイオニーが帰ってきた。
三人が遊び呆けていたということを多少ましに聞こえるようにねじまげて、フラメルについて特に収穫はなかったことを伝えるとひどく残念そうに肩を落としていた。
「じゃあまた同じやり方を続けるしかないわね。」
「そうだな。急がなくちゃな、ハリー。」
「・・・ああ。」
「ハリー、あなたどうしたの?さっきからなんだか上の空みたいだけど、休暇中になにかあったの?」
「別に。」
あらぬ方を見ながらそう言うハリーはどう見てもおかしかった。
シオリとロンはその理由を知っていたが、どういうことなんだと訴えているハーマイオニーの顔を見れなかった。
ここ数日、ハリーはクリスマスに贈られてきた透明マントを使ってこっそり夜中に出歩いていた。
最初はフラメルの名を探すために図書室の禁書の棚を調べようとしていたのだが、いまはみぞの鏡の前に立った時にだけ会える両親の虜になっていた。
ハーマイオニーが聞いたら止めるに違いないとハリーに口止めされた時、シオリもロンも自分たちこそハリーを止めるべきだとは思った。
だが亡き両親に会いたいというだけの友人の願いを邪魔するのは忍びなく、ハリーが目を覚ますのを待つことしかできなかったのだった。
新学期一日目から授業はみっちりで、四人はその合間の十分間でさえも図書室に行って本を調べた。
午前最後の闇の魔術に対する防衛術の授業が終わった時も、四人はさっさと昼食をとりまた図書室へ行こうとすでに荷物をまとめていた。
しかし、やや駆け足で教室を出た四人を妙に穏やかで含みのある声が呼び止めた。
「ミス・アオツキ。教材を運ぶのを手伝っていただけますか?」
クィレルがあの張り付けたような笑顔で立っている。
シオリはその顔を見上げて固まった。
「あ、えっと・・・」
「それなら私たち全員で手伝います。どの教材ですか?」
ずっと動きのなかったクィレルが急に自分を呼び止めるなんて、それだけで背中がざわざわと落ち着かない。
ハーマイオニーの意図せぬ助け船に助かったと息をついたシオリの希望は一瞬で打ち砕かれた。
「ありがとうミス・グレンジャー。ですが一人で事足りるので大丈夫です。」
「分かりました。シオリ、あなたの分も席をとっておくわね。」
「え!いや、あ~・・・」
「ではミス・アオツキ、こちらへ。」
「・・・・・・はい。」
シオリはクィレルに触れないように距離をあけながら、もう誰もいない教室の中へと戻っていった。
「クィレルがあんなにハキハキ話すの初めてみたよ。どもってないクィレルなんてむしろ変な感じだ。」
「あの人、吸血鬼に襲われたせいでいつもの、その・・・ああいう感じになったんでしょ?たまに元に戻るんじゃない?」
「シオリがずいぶん嫌そうだったけど・・・」
「今から大好きなご飯だってのにどうして手伝いなんかしなきゃいけないんだってことだろう?ほら、かわいそうなシオリの分もとっといてやろう。」
「・・・そうだね。」
いくら食べることが好きとは言え、シオリがそんなことで先生の頼みを邪険にするだろうか。
ハリーはまだ違和感をぬぐいきれなかったが、みぞの鏡のせいなのか頭がまとまらないままシオリを置いて大広間へと向かった。
シオリが恐る恐る足を踏み入れた教室はしんとしていること以外特におかしなことはなかった。
魔法の罠でも張り巡らされているのではと思ったがそんなこともない。
それでもクィレルに襲われた時の恐怖が徐々によみがえってきて身体が固くなり、遠ざかっていくクラスメイト達の声がさらに不安をかきたてた。
(ハーマイオニーってば余計な気遣いを!いや、全然悪くないんだけど・・・だけど最悪だ。)
心の中で悪態をついていると教室の扉がバタンと閉められる音がした。
「やっと二人になれましたね。」
にこりと笑う白い顔に肌が粟立つ。
ずっと隙を伺っていたが、シオリがハリーたちと行動するようになって手を出せなかったのだろう。
それでもいま強引な手段に出たのには訳があるに違いない。
シオリは少しでもクィレルから離れようと机の向こうに回り込んだ。
「来ないで、それ以上近づいたら・・・」
「ハロウィーンの日、あなたたちがトロールを倒してしまうとは想定外でした。あの夜から・・・片時も消えないあなたの姿に・・・私がどれほど苦しんだか、あなたには分からないでしょう?」
「なんのこと?それより、いま私に何かしたら三人があなたを怪しむんだから馬鹿なことはやめて私を外に出して。」
強い執着を隠さない鋭い眼差しから逃げるように教室の中を必死に走り回る。
表情一つ崩さず長い足でゆったりとシオリを追い詰めるクィレルは、まるで追いかけっこを楽しんでいるようだ。
シオリは自分が食べる前に猫に遊ばれる哀れなネズミのように思えたが、それでも立ち止まらずに逃げ続けた。
「あんな、あんな、汚されて傷つけられた姿で・・・あなたを見かける度に疼く自分を何度も抑えて・・・」
目が合っているのにシオリの声など聞こえていない様子で抑揚なく一人語るクィレルはどう見てもまともではなかった。
何をするつもりかは分からないが一刻も早く逃げなければ。
教室の扉は鍵をかけられているだろうが他に出口はない。
シオリは杖を握り、思いきって扉に向かって走った。
「無駄ですよ。」
祈るように唱えた呪文に無情な声が重なる。
その通り扉は開かなかった。
後ろからせせら笑う声が近づいてくる。
「このっ、お願い、開いて・・・!」
シオリは扉に手をかけて懸命に力を込めた。
どんなに踏ん張ってもびくともしないと分かっていたが、背後に迫る闇から逃げることを止められなかった。
「全く・・・愛らしいことだ。」
両の肩にひやりとした重みが乗り、もう逃がさないというようにしっかりとシオリをつかんだ。
耳元で囁くクィレルの声は酔ったような妙に甘い響きを持っていてシオリの体がぞくりと跳ねた。
「さあ、顔を見せて。」
「いや、いや・・・」
背中にぴったりとくっついている体は温かいどころか、シオリの熱をどんどんと奪っていくようだった。
力が抜けてたちまちに目が回り出す。
ぐらぐらと揺れる視界がくるりと回って、気付くと目の前にクィレルの顔があった。
手を離された体は背後にある扉にもたれかかってなんとか立っている。
「私が見えますね?意識はしっかりとしていますか?」
何を言っているのだろう。
自分から力を奪っておいて気遣うような言葉をかけるなんて意味がわからない。
シオリは窓からの光を受けて暗い影の差している善人のようなその顔をぼんやりと見た。
「返事をしなさい。どうなんです?」
「・・・は、い・・・」
「いいでしょう。ではボタンを外して。」
「え・・・?」
まるで授業中に魔法の手解きでもしているかのような、普段の彼よりもずっと先生らしい穏やかな表情に言葉が入ってこない。
しかし今度はもっと明確に、クィレルは人差し指でシオリの胸元をつうとなぞって微笑んだ。
「あなたが自身の手で外して見せなさい。」
「な、んで・・・」
「この状況で私に逆らうのは得策ですか?」
「・・・っ、」
シオリはこれ以上何がどう悪くなるのかもう分からなくなっていた。
どちらにしろ逃げられないのなら機嫌をそこねない方がいいのかもしれない。
シオリはネクタイを緩めた。
シャツのボタンに力の入らない手をかけたが、何度か指が滑ってやりそこなった。
まどろっこしいその様子すらも彼の欲情を煽るのか、ますます鋭くなる視線にまた手が震える。
それでもなんとか一つ開けてクィレルを見て、その目が促すままにまた一つ、また一つと開けていく。
その度に白い肌とまだ肉付きが薄くうっすら浮いた胸骨が少しずつ露になる。
次を外せばもう下着が見えてしまう。
「まだ・・・?」
脱力感と羞恥心に朦朧としながらクィレルを見上げると、細い首にはっきりと浮かぶ喉仏が上下するのが見えた。
ずっと余裕のあった表情が崩れて笑みが消えた。
「では・・・私の目を見なさい。」
言われる通りに見た瞳は、ハロウィーンの夜と同じくいやに熱っぽく衣服の乱れた自分をじっと映している。
不気味に思いながら見つめ続けていると、自分で晒してしまった胸元の肌に杖先が当たる感触がした。
次の瞬間、シオリは強い痛みにひゅっと息を飲んだ。
「っ!!!」
さっきまでとはうってかわって全身に力が入り脂汗がにじみ出す。
皮膚が割けてなま暖かいものが流れ出し、胸を腹をぬるぬると伝っていくのを感じる。
シオリはこんな時になぜか外に声が漏れないか気になって必死に歯を食いしばった。
恐怖に見開かれたシオリの目をほとんどくっつきそうな程の距離でのぞきこむクィレルの顔は悦びに満ちていた。
「私を見なさい、目をそらさないで・・・」
「ああっ、うぅぅぅ、んぅっ」
「ここは防音の呪文がかけられています。我慢しないで、ほら、痛いでしょう?もっと声を聞かせて。」
「やあっ、やめ、・・・っ!」
涙が頬を伝っていることも分からないくらいシオリは必死に背後の扉に爪をたてどうにか痛みを逃そうとしたが、ゆっくりと動く杖がじっくりと胸を深く割いていく激痛に完全に支配されてしまっていた。
痛い、怖い、何も考えられない。
抵抗もできず目を見ろと言われた言葉だけを頼りに、懇願するようにただクィレルを見て声にならない悲鳴をあげ続ける。
この地獄は一体いつまで続くのか、時間の感覚もなくぎらぎらとした暗い目だけが頭に焼き付く。
止まない痛みと悲鳴のなかでシオリの意識が飛びそうになった時、突然、ダンブルドアにもらった花が咲いているだろう手首のあたりが鼓動しだした。
トクントクンという温もりにほんの少しだが気がそれて、段々と身体が楽になっていくことに気が付いた。
クィレルに奪われたはずの力が戻ってくるかのようだ。
胸にある大きな裂け目の痛みも少しずつ和らいでいく。
何が起こっているのか分からないままクィレルを見たが、その目は変わらず狂喜に輝いていた。
満足したのかクィレルが杖を離し、突然襲った痛みが同じように突然止んだ。
「やはり・・・汚されてあなたは一層美しくなる。これほどに完璧で美しいものに傷をつけて、なぜこうも胸が高鳴るのか・・・しかも、この、私の手で・・・素晴らしい、美しい・・・」
穴があくほど自分をじっと見つめている瞳には、本当のところでは何も映っていないように見える。
実際、シオリはいまや身体が楽になっていくことに戸惑うばかりで恐怖は消えていたが、クィレルがそれに気付く気配はない。
夢でも見ているように美しいと繰り返すその顔に人間らしい感情は一切なく虚ろだ。
本来はただ弱いだけの気質に付け込まれ心を奪われた男は、もう己の深いところにまで染みてしまったおぞましい力に耐えきれなくなっているのだろう。
花のおかげか、以前よりも呼吸の乱れていないシオリは初めてクィレルを正面から見つめた。
いま目の前で壊れていくこの男がヴォルデモートに取り込まれたのは心に闇があったからだ。
それは間違いない。
しかし、その闇をここまで育てたのは彼自身なのだろうか。
彼は・・・彼を軽んじる他人が手をかけ時間をかけ育てた闇からただ救われたかっただけなのではないか。
そう気付くとクィレルをおおっていた黒い霧が晴れて、自信なさげに、悲しげに、しかしはっきりと世の中を軽蔑する青年が見えた気がした。
恐れ憎むべきだと思っていたものは同じ人間だった。
物語を通して彼の背景を知っているからというわけではない、心の奥の深いところでクィレルの苦悩を理解してしまったシオリはひどく動揺した。
それに気付くことなく、まだズキズキと痛む胸にクィレルがそっと触れた。
花の鼓動がシオリを守るようにまた温かくなり、足がふらつくことなくしっかりと地面に立つ。
クィレルは愛しいものを撫でるように優しく傷をなぞり、深くため息をついた。
「あなたは血の色まで美しいのですね。まるで鮮やかな花束を胸に抱いているようだ・・・とても似合っていますよ。」
鈍く輝く赤に濡れた手がシオリの頬に触れる。
強い鉄の匂いが鼻をついた。
いま自分から溢れたばかりのぬるい血が細い指のなぞる通りに跡を残す。
シオリは自分に見とれる暗い瞳から目が離せなくなっていた。
彼は間もなく死ぬ。
クィレルは誰にも救われず、自分を救えないまま死ぬように定められている。
壊れゆく魂の影で今もなお生きる苦しみに囚われているあの青年が死んでしまう。
幸いにも今まで人の死に触れたことのないシオリにとって、それは耐えがたく恐ろしいことだった。
死にゆく人をただ見ているなんて、苦しみ恨むあの目を見なかったことにするなんて。
シオリの思いは遠くにあったが、二人はもう随分と長い間見つめ合っていた。
血に汚された幼い顔は恐怖ではなく悲しみに震え、もう一方は力あるものを支配する悦びに震えていた。
クィレルが紅をさすようにゆっくりとシオリの唇に指を這わせた。
「口付けには古来から強い魔法の意味があります。契りを交わす、魔力を増幅させる・・・そして口付けた相手の力を奪う。」
望めばいつでも唇が触れあうほどの距離で、クィレルが淡々と話す。
「私たちのように魔力の流れやすい者の間をそうして結んでしまうと、恐らくあなたは・・・」
シオリは夢のなかでヴォルデモートに出会ってから、クィレルとの間に起こる魔力の移動の理由を理解し始めていた。
クィレルが時間をあけても必ず接触してくるのは自分の魔力がヴォルデモートの魂の回復に関わっているからだとすると、今聞いたようなことが起こってはいけないというのは分かる。
シオリが顔をしかめると、反対にクィレルは嬉しそうに目を細めた。
「恐ろしいですか?助けを請ってみますか?」
ずっと恐れていた笑顔が今は悲しく見える。
傷付いている自分から目をそらし、魂を自ら傷付ける彼が死を免れないとしてもまだできることがある。
シオリは心を決めて、その偽りの笑顔を崩しにかかった。
「私、もう怖くない。どんなに傷つけられてもあなたを恐れない。」
それまで夢見心地だったクィレルの目に人の明かりが戻ったように見えた。
「あなたは自分を救ってあげたいんだろうけど、人を傷付けてもあなたの傷は治らない・・・こんなのは間違ってる。」
痛みに叫び乾いていた口が滑らかに動く。
楽に息ができる、手に、足に、力が入る。
シオリは自分の思いに応えるように花が熱くなって、胸の傷がみるみる閉じていくのを感じた。
「な、にを・・・」
「あなたは私から何も得られない。」
「じ、自分の立場がわかって・・・」
「これ以上、自分を傷付けないで。」
「・・・やめろ、黙れ!!」
そう言いながら小さな子供のように震えているクィレルをシオリは真っ直ぐに見た。
侮るのではなく、哀れむのでもなく、ただ真っ直ぐに見た。
「もう周りに惑わされないで。目を閉じて、自分を見て。どんなに魂が傷付いてもまだあなたはそこにいる、私には見えるの。」
シオリが初めてクィレルに手を伸ばした。
小さな手が痩せた胸にそっと触れる。
クィレルは苦しそうに肩で息をしながら、その手を恐れるように身を引き、叫んだ。
「人のふりをしているだけのあなたに何が分かるというのか!私は、私は、知っている。この世には善も悪もありはしない・・・力と、力を求めるには弱すぎる者とが存在するだけなのだと・・・!」
すがるような言い方だった。
自分に言い聞かせているのか、一人でうんうんと首を振り宙を見つめている。
「私は変わる・・・弱いままではいけない、力を得るのだ・・・そうすれば・・・」
クィレルが急にぴたりと止まって動かなくなった。
目に見えない何者かの声を聞いているようだった。
段々と顔が青くなりはっとしてシオリに向き直った。
そしてクィレルは恐怖を浮かべたままシオリの顔を両手で包み込み、迫った。
シオリはクィレルを突き飛ばして離れようとしたが子供の力では敵わなかった。
互いの瞳に互いの顔がはっきりと見える。
恐怖に乱れた荒い息を感じる。
唇がもうあと少しで触れ合う。
もうだめだと思った時、シオリは自分を映している瞳が何かに抗うように強く揺れるのを見た。
そしてクィレルがふいに顔を離し、ひどく歪んだ表情で小さくつぶやいた。
「楽にしなさい・・・すぐに終わる。」
次の瞬間、クィレルの顔が見えなくなって首筋に温かく湿った吐息を感じた。
「っ・・・!」
絶対的な声に従って、高い鼻の先がこすりつくように何度も角度を変えて白い首を食むその顔は、見たこともないご馳走にありつく子供のようでもあり、同時に泣いているようでもあった。
「あっ、やあっ・・・!」
抵抗したいのに身体が思うように動かない。
シオリは花の力も追い付かないほど魔力が急速に失われていくのを感じていた。
クィレルを押し退けようとした手が弱々しく宙をかく。
そうしてる間にもさらに魔力を吸われて頭がぼうっとしてくる。
「お願い、やっ、め・・・あっ、んっ・・・」
すく側でなっている湿った音と小さな痛みに、シオリは何をされているのか分からずただ苦痛に顔を歪ませた。
逃げられないように自分を捕らえていただけの腕が、今は一人では立っていられないとでも言うように痛いほど抱き締めてくる。
シオリは段々と意識が遠くなるなかで、悲しいその腕にそっと手を重ねた。
クィレルがびくっと震えて、苦しみ喘ぐように声を絞り出した。
「どうして・・・こんな、汚れた私などを・・・」
独りごちる声を聞く前にシオリの手がぱたりと力無く落ちた。
目蓋が閉じて黒い瞳は見えないが、胸が静かに上下している。
クィレルは安心したように息を吐き、ぐったりとしている小さな体をそっと床に寝かせた。
すでに跡形もなくなっている傷があった場所に向かって杖を振り、血をすべて消し去る。
ボタンをとめて何事もなかったかのようにシオリを抱きかかえて教室の扉を開けた。
腕の中の温もりが失われることを恐れていると主人に知られぬよう、彼は乱れている心を抑えて廊下を急いだ。
シオリは森の中で目を覚ました。
もうずっと見ていなかった景色に、一瞬そこがどこなのか分からなかった。
白い月がはるか頭上で静かに輝いている。
風の音を心地よく思いながらあたりを見回して蕾を探すと、こちらを見ている背の高い黒い影を見つけた。
シオリは後ずさった。
マントが風に揺れて見え隠れしている手は骨張ってはいるが前に見た時よりも肉がついている。
影が顔を上げ、月明かりに照らされて口許が見えた。
痩せこけているのに妙に整った顎の形と唇が作り間違えた人形のようで、その不気味さに目が離せなくなる。
どうするべきか分からずに対峙し続けていると、影は口の端を冷たく吊り上げゆっくりと何かを発した。
風にまぎれているのではなく、その声が音になっていないことにシオリは心から安堵した。
それが自分を利用しようと闇に引きずり込もうとしていることは明白だった。
どこからか自分の名を呼ぶ声がして白い光が差し、少しずつ闇が木々が薄れていく。
きっと目が覚めるのだ、助かった。
そう思った時分かってしまった。
影が口にしていた言葉がなんなのかを。
何度も同じ動きをしている唇が紡いでいるのは怒りでも憎しみでもない、シオリの名だった。
シオリは全身総毛立ち、自分の名が呪いのように痕になって刻まれていくような気がした。
光の中から自分を呼んでくれる声とおぞましい闇との間で前後も分からなくなり、一体どこに行けばいいのか目が回る。
二つの強い力が身を引き裂くようにそれぞれに自分を呼んでいる。
シオリは苦しみうずくまり草の上に倒れた。
暗闇でまだ同じように自分の名をなぞっている唇が見える。
引っ張られる、そう思った時、冷たいが大きく心地よいものが頬に触れた。
それが人の手だと気付くと同時に一気に森が遠ざかっていく。
シオリは嗅いだことのある優しい香りの中で目を覚ました。
重たい目を開けると眉間にいつもよりずっと深い皺を刻んだ顔が見えた。
母の笑顔とはほど遠いそれに、自分はこの世界でも守られているのだとさっきまでの恐怖が嘘のように去って自然と笑みがこぼれた。
「セブルス・・・ありがとう・・・」
それだけ言うとシオリは今度こそ夢もみないほど深い眠りに落ちていった。