「おい、ハリー!」
ハリーはゆさゆさと身体を揺すられ飛び起きた。
傷のある額が汗でびっしょりと濡れ、ドンドンと心臓が強く打っている。
瞼の裏にはさっきまで見ていた夢が焼き付いていた。
優しい父と母の笑顔を、どこからともなく飛んできた緑の閃光が容赦なくかき消してしまうのだ。
夢の中でくらい普通の幸せを感じたかったのにそれも許されないらしい。
ハリーは大きなため息をついて、床に足を下ろした。
「ハリー、大丈夫かい?うなされてたよ。」
「ああ・・・起こしてくれてありがとう。すごく、嫌な夢を見てたんだ。」
心配そうに隣に立っているロンの手からねずみのスキャバーズが逃げ出した。
ぼたっと音をたてて床に打ち付けられ、慌ててハリーのトランクへと走り出す。
「こら、スキャバーズ!やめろったら。」
ごそごそとスキャバーズが暴れるのに合わせて、トランクの奥底に隠れていた銀ねず色の布が顔をのぞかせた。
それを見つけたロンがハリーを振り返った。
「マントはもういいの?その、パパとママのこと・・・」
「うん、もういいんだ。」
「・・・そっか、よかった。僕もシオリも心配してたんだ。あの鏡に取り憑かれてる間の君、亡者みたいな目をしてたよ。」
「亡者って?」
「動く死体のことさ。ひどい見た目なんだ。」
亡者でもなんでもいいから両親に会いたい。
その気持ちは変わらない。
しかし、昨夜みぞの鏡の部屋で出会ったダンブルドアにもう鏡を探さないように言われ、ハリーは透明マントを目につかないようトランクに仕舞いこんだのだった。
死者を想う気持ちをダンブルドアは否定しなかった。
だが、想うあまり生きることを忘れてしまってはいけないという言葉をハリーは受け止めた。
ロンの亡者という例えは的を得ている。
思いどおりに動く身体があるのに生きている心地がしないというのはなんと悲しいことだろう。
両親はきっと自分のそんな姿を望まない。
そう思えることこそが、額の傷一つで生き残ったことなどよりもずっと素晴らしいハリーの強みだった。
「ハリーが元気になったのは嬉しいけど・・・シオリは大丈夫かな。心配だよな、面会もできないなんてさ。」
「面会できないのは眠ってるからだって言ってたし、大丈夫なことを祈ろう。前にも倒れたことはあったし・・・」
「にしても眠りすぎだろう?シオリってあんなに食べるのになんですぐ倒れるんだ。もっと食べさせた方がいいのかな?」
真剣にそう言うロンにハリーは肩をすくめた。
シオリが戻って三人がそろったら話したいことがある。
暗闇に響いたあの鬼気迫る恐ろしい声。
スネイプがなにを企んでいるのか暴いてやりたい・・・
昨夜の出来事はハリーの決心を一層固くした。
ハリーはまだマントを引っかき出しているスキャバーズを払ってロンに渡し、トランクの鍵を閉めた。
その日の放課後からクィディッチの練習が始まった。
指先までかちこちに固まるような寒さの中、雨が雪に、そして雪が雨に変わり、果てしなく降り続いてもウッドは練習を止めなかった。
ウッドはほとんど狂っている、というのは双子の声だ。
次の試合でハッフルパフに勝てば、グリフィンドールは寮対抗杯を七年ぶりにスリザリンから取り戻せる。
選手からどれだけ苦情があがってもウッドが止まらないのはそういうわけだった。
しかしその日、ハリーは恐ろしい報せを受けた。
スネイプが次の試合の審判を買ってでたというのだ。
ウッドが吐き捨てるようにその報せを伝えたとき、ウィーズリーの双子は箒から転げ落ちて泥をしこたま食べてしまった。
しかし泥よりもスネイプが審判をするということに二人はカンカンだった。
隙あらばグリフィンドールから減点しようとするに違いなく、まともなプレイができるとは思えなかったからだ。
そしてハリーにはクィディッチの試合中、スネイプが近くにいると困る理由がもうひとつあった・・・
ハリーが肩を落として寮に戻ると、暖炉の前でチェス盤を囲む三人がいた。
あの艶々とした黒髪は間違いない。
「シオリ!戻ったんだね。」
「心配かけてごめんね。もうだいじょう・・・ぶ、って言うのはいいよね、ハーマイオニー?」
「ええ、今後あなたが体調が悪いことを私たちにちゃんと話して、昨日みたいに倒れるのを未然に防げるならね。」
「もういいだろ、シオリだって倒れたくて倒れたわけじゃないんだ。でも、これからは朝食をもう少し増やした方がいいな。」
そう言うとロンはチェス盤に目を戻した。
ロンとハーマイオニーはチェスの対戦中だった。
ハーマイオニーが負けるのはチェスだけだったが、負けることは彼女にとっていいことだと他の三人は思っていた。
ハリーがシオリの隣の椅子に腰かけた拍子にくしゅん、とくしゃみをした。
シオリはくしゃくしゃのハリーの髪に触れ、濡れていると分かるとにっこりとして呪文を唱えた。
たちまちにハリーの身体に残っていた水気が乾き上がりぽかぽかとしてくる。
ハリーは礼を言いながら、間近に見るシオリの顔にどこか元気がないと気付いた。
いつも大きな瞳は伏し目がちだし、きれいに平行に伸びているはずの眉は下がり気味だ。
まだ調子が戻りきってはないのだろう。
しかしハリーは昨日の出来事と審判のことをすぐにも話したくて、二人にチェスを中断するよう言った。
「いまは話しかけないで。」
ロンが片手でそれを制した。
二人ともチェス盤をじっと睨んでいる。
「ハリー、難しい顔してるね。何かあった?」
シオリの声にロンとハーマイオニーがやっと顔を上げた。
ハリーは他の人に聞かれないように小声で、スネイプがクィディッチの審判をやりたいと言い出した、という不吉なニュースを伝えた。
「試合にでちゃだめよ。」
「病気だって言ったら。」
「いっそ本当に足を折ってしまえ。」
「できないよ。シーカーの補欠はいないんだ。僕がいないとグリフィンドールがプレイできなくなる。だけど、そうだな・・・そうした方がいいのかもしれない。実は昨日、スネイプとクィレルが言い合っているのを見たんだ。」
ロンとハーマイオニー、それにシオリが顔をしかめた。
シオリは特に唇を噛んでとても難しい顔をした。
「そんなのいつ見たんだ?」
「えっと、禁書の棚に行こうと思って・・・ハーマイオニーいまはちょっと黙って。それで、夜中に廊下を歩いていると二人が揉めてて・・・」
シオリがこれ以上聞きたくないという風に俯いたが三人は気付かなかった。
「あいつは"石"がどうだとか言って、クィレルを脅してた。すごく怒ってるようだった・・・きっと何かうまくいかないことがあったんだ、その"石"のことで。それと、フラッフィーを出し抜く方法を知っているかって聞いてた・・・もしかしたらフラッフィーが守ってるのはその"石"で、スネイプはそれを狙っているのかも。」
「フラッフィーだけじゃなくクィレルも守りに関わっていて、スネイプはその情報を引き出そうとしたんじゃないかしら?」
ハーマイオニーが興奮しながらもなんとか声を押さえてささやいた。
ロンがこくこくと激しく頷いている。
「そうだ、きっとそうだよ。それと、あいつに触れるなって言ってた・・・あいつってなんのことだろう?」
三人はますます広がり深まる謎にそれぞれ俯き、考え込んだ。
シオリもまだ俯いたままだった。
(あいつはきっとハリーのこと・・・いなくなったのは石の見回りに行ったからだったんだ。本当に私のことはどうでもいいんだな。)
シオリは無意識に首をさすっていた。
めくらましの呪文で隠してあるが、そこには赤い痣がある。
クィレルに付けられたのだろう辱しめの痕・・・それをスネイプに見られたことはシオリには耐えられない苦痛だった。
女としての弱さを無理矢理分からせられ、しかもそれを人に見られてしまった。
これが、無責任で幼稚な行いの報いだというならあんまりだ。
シオリはクィレルの震える腕を思い出すと彼を憎むことができないのも苦しかった。
スネイプは痣の意味に気付いただろうか。
どちらにしろ彼の足を止めるほどのことではなかったのだと思うと、シオリはまた心が沈んだ。
その時、どたっと大きな音をたててネビルが談話室に倒れ込んできた。
両足がぴったりとくっついていて、足縛りの呪いをかけられたことがすぐにわかる。
長い廊下をずっとうさぎ跳してきたにちがいない。
みんな笑い転げたが、ハーマイオニーとシオリはネビルに駆け寄った。
ハーマイオニーが呪文を唱えてネビルの足は二つにぱっと離れた。
「一体どうしたの?」
「マルフォイが・・・」
ネビルは震える声で答えた。
シオリに促されてソファに倒れ込むように座った。
彼の足は限界のようだった。
「図書館の外で会ったの。誰かに呪文を試してみたかったって・・・」
「マクゴナガルのところへ行きなさいよ!マルフォイがやったって言うのよ!」
ハーマイオニーが急き立てたがネビルは首を横に振った。
「これ以上面倒はいやだ。」
「ネビル、マルフォイに立ち向かわなきゃだめだ。あいつはみんなを平気でバカにしてる。好きにさせてあいつを付け上がらせちゃだめだ。」
ロンとハーマイオニーに挟まれてもネビルは俯くだけだった。
シオリがネビルの手を握ると彼は弱々しくまた首を振った。
「僕はみんなみたいには・・・僕には勇気がなくてグリフィンドールにふさわしくないんだ、言わなくても分かってる。さっきマルフォイがそう言ったから。」
ハリーがポケットの中をごそごそとして蛙チョコレートを取り出した。
ネビルの前にしゃがみこみ、しっかりと目を合わせてチョコレートを差し出した。
「マルフォイが十人束になったって君には敵わないよ。君は組分け帽子に選ばれてここに来た。あいつはどうだい?腐れスリザリンに入れられたよ。」
「そうだよ。あなたにはあなたの勇気がある。それを見つけるのはネビルだよ、人に決めつけられることじゃない。ハリーの言う通り、自分を信じて。」
シオリがそう言ってぎゅっと強く手を握ると、ネビルはかすかに微笑んでその手を握り返した。
「みんなありがとう。僕、もう寝るよ・・・カードあげる、集めてただろう。」
ネビルはチョコレートの包みを開けてカードをハリーに渡し、ふらふらと男子寮への階段を上がっていった。
その背中を見送り、四人はネビルと同じく暗い気持ちで互いを見やった。
ハリーはなにも言えずにネビルから渡されたカードに目を落とした。
なんてことはない、以前にも当てたことのあるダンブルドアのカードだ。
何の気なしにそれを裏返し、あっと息をのんだ。
「待って・・・見つけたぞ・・・」
大きく見開かれた緑の瞳の先で、カードの中のダンブルドアがにっこりと笑っている。
「フラメルを見つけた!どっかで見たことがあると思っていたら・・・ダンブルドアのカードの裏に書いてあったんだ、聞いて・・・"ダンブルドア教授は特に、一九四五年、闇の魔法使いグリンデルバルドを破ったこと、ドラゴンの血液の十二種類の利用法の発見、パートナーであるニコラス・フラメル氏との錬金術の共同研究などで有名"・・・!」
ハリーの言葉に今度はハーマイオニーが息をのんで飛び上がり、女子寮の階段を勢いよく駆け上がっていった。
行きと同じく驚くほどの速さで戻ってきた時、手には巨大な古い本を抱えていた。
「これ、ちょっと軽い読書をしようと思って借りていたものなの。この本を探そうなんて思い付かなかったわ。」
「ちょっと、軽い?」
ロンが顔をしかめているのを無視して、ハーマイオニーは次々とページをめくりだした。
「あったわ!これよ、これだわ・・・"ニコラス・フラメルは我々の知る限り、賢者の石の創造に成功した唯一の者"!石ってこれのことだったんだわ!」
「「なに、それ?」」
身を乗り出して話を聞いていたハリーとロンがこてんと首を傾げるのを見て、シオリは笑いをこらえた。
せっかくドラマチックに読み上げたのに期待していた反応がなく、ハーマイオニーはもう!と重たい本をハリーとロンに押し付けた。
「ほら、ここを読んでみて。」
"錬金術とは賢者の石といわれる恐るべき力をもつ伝説の物質を創造することに関わる古代の学問であった。賢者の石はいかなる金属をも黄金に変える力があり、また飲めば不老不死になる命の水の源でもある。"
ハリーとロンが読み終わるとハーマイオニーが言った。
「あの犬は賢者の石を守っているに違いないわ!フラメルがダンブルドアに保管してくれって頼んだのよ。二人は友人だし・・・フラメルは誰かが石を狙っているって気付いてた。だからグリンゴッツから石を移して欲しかったのよ!」
「金を作って、決して死ななくなることもできる石・・・スネイプが狙うのも納得できる。そんなの誰だって欲しいもの。」
「"魔法界における最近の進歩"に載ってなかったわけだ。見ろよ・・・"賢者の石を所有するフラメル氏は昨年六六五歳の誕生日を迎え"だって。六六五歳じゃ厳密には最近とは言えないよな。」
「そうだね。」
シオリとロンが顔を見合わせてにやっとしていると、ハリーが神妙な面持ちでクィディッチの試合に出ると言いだした。
身を案じたハーマイオニーが止めようとしたが、ハリーは強い思いに動かされているようだった。
「試合に出なかったら、スリザリンの連中は僕がスネイプを怖がって出なかったと思うだろう。僕、スネイプに目にもの見せてやる・・・僕たちが勝つんだ。」
スネイプが何もせずともハリーの中でどんどんと燃え上がる彼への憎しみに、シオリは小さく息を吐いた。
何もしていないというのは魔法薬の授業の様子からすると間違いではあるが、ハリーがいま抱えている憎しみの元のほとんどは勘違いだ。
この物語としてのしかるべき状況だというのに、スネイプを思い胸を痛めていることを自嘲する。
さっきの今で気持ちを切り替えられないだけだ。
そう言い聞かせながらも、シオリはまた無意識に首をさすりため息をついた。
それからハリー達はたまに立ち入り禁止の廊下を見回りに行き、フラッフィーの守りがまだ無事だということを確認したりした。
ハリーは自分たちが見回りをするのと同じように、スネイプもこちらを見張っているのではと思うことがあった。
彼の企みを知ったことがバレたのでは・・・
そんなはずはなかったが、そう思わざるを得ないくらい行く先々でスネイプを見かけたし、自分達を見るその暗い目は必死なほどにぎらついていた。
決して屈するものか、というハリーの心を読むかのように魔法薬の授業でのスネイプのいびりもその醜悪さを増していった。
ハリーが材料を取りに行くのが少しでも遅ければやる気がないと言い、誰よりもはやく器具を取りに行けば遅れて行って状態の悪いものしかなかったマルフォイのものと取り替えろと言った。
またある日は、難しい工程の時に限って近付いてきて長々と睨みをきかせ、ハリーが負けじと教科書通りに調合してみせると面白くなさそうに鼻をならして離れていった。
まるで拷問だとハリーが言った。
全くその通りで、スネイプのハリー嫌いは誰にも止められないと思われたが、ハリーとシオリがペアの時だけは彼はそこに近寄ることもしなかった。
そのことにハリーが気付き始めた頃、クィディッチの試合がもうすぐそこに迫っていた。
「いいこと、ロコモーターモルティスよ。」
「分かってるったら!何度もがみがみ言うなよ!」
ハーマイオニーとロンは言い合いながら杖をそれぞれ服の袖に隠した。
分かっているな、というハーマイオニーの視線にシオリが杖を見せてみせると彼女は満足そうにこくりとした。
なぜ三人がクィディッチの試合に杖を持ってきているのか、ネビルが不思議そうに首を傾げている。
シオリたちはマルフォイがネビルにかけた足縛りの呪文を練習し、今日の試合でスネイプがちらっとでもハリーに何かする素振りを見せたらこの術をかけようと準備していたのだ。
そんなことを知るよしもないスネイプはハリーのために苦手な箒にまたがり、長い髪の上から不格好な大きなゴーグルをつけていた。
ゴーグルに隠れて見えないが、いま彼の眉はきつく寄せられて深い皺を刻んでいることだろう。
その姿を横目にシオリはロンとネビルと観客席についた。
試合開始が迫り、選手達が地面を蹴ってすーっと高く飛び上がっていく。
シオリの目はもうスネイプから離れ、ハリーを見ていた。
時間というのはありがたいものだ。
ただ待っていれば胸の痛みも首の痣もきれいに消し去ってくれるのだから。
シオリの前の席でハーマイオニーが指を十字架の形に組んでハリーの無事を祈っていると、甲高いホイッスルの音が競技場に鳴り響いた。
「さあ、プレイボールだ!いてっ!」
ロンがハリーを心配しながらもクィディッチへの高揚を抑えきれずに叫ぶと、誰かに頭を小突かれた。
「ああ、悪い。ウィーズリーか、気付かなかったよ。」
ロンの後ろで、マルフォイがクラッブとゴイルに向かってにやりとした。
「この試合、ポッターはどのくらい箒に乗っていられると思う?誰か賭けるか、ウィーズリーどうだい?」
ロンは顔を険しくしながらも答えなかった。
それでもマルフォイはまたロンを小突いたが、その横にいるシオリのことは全く見なかった。
シオリは存在していないということにしよう、そんな無理矢理な態度だった。
マルフォイはなに食わぬ顔をしていたが、その実、視界にシオリを入れないよう必死だった。
彼はトロールの件で傷ついた彼女を見た時から、あることでずっと頭を抱えていた。
自分がシオリを少なからず、いやほんのわずかにだが・・・想っている・・・かもしれないと気付いてしまったのだ。
だが、彼女は"グリフィンドールのマグル生まれ"。
この魔法の言葉を心の中で唱えれば、両親の激しい侮蔑の顔が浮かんできて自然と彼女の姿は薄れていく。
シオリの出自は、マルフォイが彼女を望むにはあまりにも大きな壁だった。
当のシオリは今に始まったことではない彼のおかしな態度を気にすることなく、ロンと同じくだんまりを決めていた。
少しして、ジョージがスネイプの方にブラッジャーを打ったという理由でハッフルパフにペナルティシュートが与えられた。
シュートが決まりロンがうめいた。
「グリフィンドールの選手がどうやって選ばれたか知ってるかい?」
マルフォイが聞こえよがしに言った。
ちょうどスネイプがなんの理由もなしにさらにハッフルパフにペナルティシュートを与えたところだった。
ロンが悪態をつき、シオリはため息をついた。
「気の毒な人が選ばれてるんだよ。ポッターは両親がいないし、ウィーズリー一家はお金がない・・・ロングボトム、君もチームに入るべきだね。脳みそがないから。」
ネビルが顔を真っ赤にした。
心底楽しそうにマルフォイの口が歪む。
たまに風に揺れる長い黒髪が彼の視界をかすめてドキリとしたが、ネビルをつつき虐めてさえいればさほど大きな問題ではなかった。
何をしても何を言ってもやり返してこないネビルは彼のいいおもちゃだった。
しかし、そんなただのおもちゃであるネビルにシオリの手が触れたのをマルフォイは見逃さなかった。
白く細い指が、ぶくぶくとしてだらしのない手に重なっている。
思わず目線を上げると、シオリとネビルが見つめ合っていた。
マルフォイの胸はざわざわと騒いだ。
心を乱されないようシオリと関わらないという決心は一瞬のうちにどこかへ飛んでいってしまった。
これ以上彼女の目にその醜い姿を映そうというのなら観客席から突き落としてやる・・・マルフォイの手が動きかけた時、ネビルがシオリに向かって小さくうなずき立ち上がった。
「マルフォイ、ぼ、僕にだって勇気はあるぞ・・・君が十人束になったって僕には敵わないんだ・・・!」
今度はマルフォイが顔を真っ赤にした。
クラッブとゴイルは震えているネビルに大笑いしてそれに気付かなかった。
怒りに燃えるグレーの瞳がシオリとネビルを交互に睨む。
シオリがいつかのように睨み返しでもしてくれればまだよかったが、彼女はマルフォイのことなど歯牙にもかけずまだネビルを見つめていた。
マルフォイは自分でも気付かないうちに両拳を握りしめていた。
彼はずっと見るまいとしてきたはずの黒い瞳をどうやって振り向かせるかだけを考えていた。
「フン、ばあさんがいないかわりに面倒を見てくれるやつがいてよかったな。夜寝る時もそうやって手をつないでもらってるんだろう?」
「シオリは関係ないだろう。僕の友達を悪く言うのは、ゆ、許さないぞ・・・!」
「何か勘違いしてるみたいだなロングボトム。友達とやらがどうであれ、お前はとろくて臆病なただの腰抜け・・・」
「一人じゃなんにもできないあんたなんか、ネビルの足元にも及ばないよ。」
風に乱れた黒髪の間からのぞく鋭い目がこちらに向けられている。
もうずっと頭の中でしか見ることのなかったその深い漆黒に胸が鳴った。
マルフォイは口の端を上げた。
「へえ、そうかい?こいつが足をぴったりくっつけて僕の足元に跪いてたのはついこの間だったはずだけど・・・泣きながら廊下を跳んでいく姿は傑作だったね。」
クラッブとゴイルが今まで一番の笑い声をあげた。
せっかく立ち上がったネビルはその一方的な屈辱を思い出したのか、また小さく縮こまってしまった。
シオリの目がきっと光ったように見えてマルフォイは身構えたが、以前のように胸ぐらをつかまれることはなかった。
そんなことをしなくとも、シオリの静かな怒りは彼をしっかりと捕らえていた。
「マルフォイ、あんたにも心はあるでしょ・・・それなのに、どうしてそんな風に人を傷つけられるの・・・苦しくないの?」
シオリの瞳はただただ彼に問いかけていた。
だがマルフォイはその問いに気付かなかった。
それよりも彼女の目に他の誰でもなく自分が映っているということが大事だった。
シオリの手はもうネビルから離れていたが、まだ満足ではなかった。
この強く美しい少女の隣にいるべきなのはハリーでもネビルでもない。
もっと相応しい者がいるはずだ、そう例えば己のような力を持った貴い身の者でなければ・・・
マルフォイはシオリと面と向かって睨み合いながら、頭の中では並び立つ完璧な二人を想像していた。
「こいつらが貧乏なのも馬鹿なのも僕のせいじゃない。僕は事実を言っているだけなんだから心が痛むことなんか何もないね。」
「違う、あんた前に私のこと心配してくれたでしょ。私が言いたいのは・・・」
「みんな!ハリーが!」
ハーマイオニーが突然叫んだ。
シオリが振り返ると、ハリーがものすごい急降下を始めたところだった。
その素晴らしさに観衆は声をあげ、ハーマイオニーは十字架に組んだ指をくわえて観客席の上に立ち上がった。
その間もハリーは弾丸のように一直線に地面に向かっていく。
「見ろよウィーズリー、ポッターはきっと君のためにお金が落ちてるのを見つけたにちがいない!」
ハリーを心配してそれまでずっと張り詰めていたロンの神経がついに切れた。
マルフォイが気付いた時には、ロンはマルフォイを地面に組み伏せて馬乗りになっていた。
ネビルは一瞬気後れしたが、よたよたと客席を一段のぼってロンに加勢した。
「ハリー!行けっ!」
ハーマイオニーが叫んでいる。
シオリも、まさにいまスネイプに突進せんばかりの勢いで矢のように飛ぶハリーに目を奪われた。
二人の後ろではロンとマルフォイが地面を転がり回り、ネビルはクラッブとゴイルと取っ組み合って悲鳴をあげていた。
空中では、ハリーが向かってくるのにまだ気付いていないスネイプの真横ほんの数センチを紅の閃光がかすめていった。
次の瞬間、ハリーは急降下をやめて地面に降り立ち、拳を強く突き上げた。
その手の中にはスニッチが握られていた。
割れんばかりの拍手と歓声が沸き上がる。
「ロン、どこ行ったの!ハリーがやったわ!私たちの勝ちよ!スリザリンを抜いたわ、グリフィンドールが首位に立った!」
ハーマイオニーはシオリに抱きつき跳びはねた。
シオリは倒れそうになりながら、ハーマイオニーと共にハリーの無事と勝利を喜んだ。
ダンブルドアがゆったりと銀色のローブをはためかせながらグラウンドを進んでゆく。
ハリーがみぞの鏡に映る両親の幻を乗り越え、見事勝ち取ったこの結果を惜しまずに称えるのだろう。
スネイプは箒から降りるとゴーグルをかなぐり捨て、ハリーを見もせずに苦々しげに地面につばを吐いた。
シオリが今日二度目のため息をついて後ろを振り返ると、目に青あざを作ったマルフォイがよろよろと立ち上がったところだった。
クラッブとゴイルは多少服が乱れてる程度だったが、ロンはぜいぜいと肩で息をして、ネビルにいたってはごろりと横たわって失神しているようだった。
マルフォイはシオリがこちらを見ていることに気付き、慌てて襟を正して乱れた髪をなでつけた。
しかしシオリはそんなものは見ていなかった。
「残念だったね、グリフィンドールが勝って。」
マルフォイは何か言い返そうとしたが何も出てこなかった。
彼は今こそ魔法の言葉を唱えて自分を守るべきだったが、少しだけ顔をしかめて、静かに微笑むシオリが彼から一切の言葉を奪った。
問いかけることをやめた黒い瞳にはっきりと自分が映っているのが見える。
「私も残念だよ・・・じゃあね。」
たったそれだけ言い残し、シオリはロンとハーマイオニーとともにネビルを担いで観客席を出ていった。
たったそれだけ。
それなのに彼女の悲しいまでに穏やかな声がマルフォイをその場に釘付けにした。
いつかかけられた"ありがとう"という声をかき消すように、淡々とした別れの言葉がこだましている。
もうすぐ日が落ちようという時間の寂しい風が、シオリの隣に立つ彼の姿を吹き消していった。