ハリーのクィディッチでの活躍は長いこと生徒たちの間で話題だった。
それは彼がホグワーツ史上最短でスニッチを取っただけでなく、長年優勝杯を独占してきたスリザリンを引きずり下ろせるかもしれないという、学校全体の期待を持ち上げたからだった。
いまや彼は生き残った男の子から学校一の人気者へと変わっていた。
しかしハリーはうかうかしてられなかった。
賢者の石のことを突き止めたばかりだというのに、ハーマイオニーがもう次の問題について毎日のように三人に言って聞かせるからだった。
「試験までもう十週間しかないわ。予定表を作ったからみんなこの通りに復習してちょうだい。」
「ハーマイオニー、試験はまだずうっと先だよ。」
「ずうっと先じゃないわ。十週間なんてフラメルにしたらほんの一秒よ、あっという間だわ。」
「待ってくれよ、僕たちはいつから六百歳になったんだ?」
ロンがどんなに反論してもハーマイオニーは折れなかった。
そして意外にもシオリまでその予定表とやらに賛成し始めた。
「試験には進級もかかってるし、ハーマイオニーが教えてくれるって言ってるんだから楽なもんだよ。みんなで一緒にやれば楽しいし。」
「嘘だろ、君までどうしちゃったんだよ!」
「あら、シオリは元から勉強を疎かにする人じゃないわ。魔法の上達も早いし。ロン、あなたには特別に組んである予定もあるから頑張ってね。」
ロンは言い返すのをやめる代わりに、ハーマイオニーに見えないようシオリに向かって思い切り顔をしかめて見せた。
シオリは苦笑して短くため息をついた。
毎晩のように通っていたスネイプの私室へ行かなくなり、魔法の練習をできなくなって随分と経った。
シオリには今でも試験をパスする程度の力はあったが、ただそれだけだった。
自分が成すべきことの大きさには全く足りていないと、少しずつじりじりと火に焼かれるような苦い心地で毎日を過ごしていた。
この焦りをどうにかするには優秀なハーマイオニーの言う通りに試験勉強をする、それくらいしかできることを思い付けなかったのだ。
教科書の内容を覚えるだけになるとしても、ただ時間が過ぎるのを不安に思っているよりはずっとましだった。
それに先生たちもハーマイオニーと同意見のようで、イースター休暇には宿題が山のように出た。
どちらにしろ、ハリーとロンには勉強をする選択肢しか残されていなかった。
試験勉強のためまた図書館に通うようになった四人はある日、こそこそと本棚の間をうろつく大きな人影を見つけた。
ハグリッドだった。
「ハグリッド、何してるの?」
「ハリー!いやまあ、ちいとな、色々見てるだけだ。おまえさんたちは何してるんだ?まさかまたフラメルのことを・・・」
何かを隠している、そんな妙に上ずった声だった。
ロンが意気揚々と賢者の石について突き止めたと答えると、ハグリッドは、この賢くも恐れ知らずの子供たちに秘密を漏らしてしまったのは自分だという事実に震え上がった。
更にハリーが石を守っている方法について問い詰めるとハグリッドは顔を青くして、後で小屋に来い、とだけ言って逃げるように行ってしまった。
ハグリッドは図書館で何を探していたのか。
彼がうろついていた本棚を見に行ったロンが持って帰ってきたのは、ドラゴンに関する本だった。
「ハグリッドはずっとドラゴンを欲しがってるんだ。前にそう言ってたよ。」
「でもドラゴンを飼うのはずいぶん昔に禁止になってる。庭にあんなのがいたらマグルに見つかって僕たちの存在までバレちゃうだろう?大体、ドラゴンってすっごく危ない生き物なんだ。チャーリーが仕事でドラゴンにやられた火傷の跡を見せてやりたいよ。」
「じゃあハグリッドは何のためにドラゴンのことを調べてたのかしら?」
ハーマイオニーの疑問はこの後すぐに解けることになった。
「ねえ、窓を開けてもいい?この部屋暑すぎるよ。」
勉強もそこそこに切り上げて向かったハグリッドの小屋は窓もカーテンも閉めきって、もう春だというのに暖炉にはごうごうと火が焚かれていた。
三人はだらだらと汗を流しながらもうまくハグリッドをのせて、スネイプが石の守りに関わっているということを聞き出した。
思いがけない最悪の事態に三人が酷く顔をしかめるなか、シオリは足にぴったりとくっついて離れないファングの背を撫でていた。
ファングは暖炉の方を怖がっていて、シオリの手を舐めるにも気もそぞろという感じだ。
彼が何度も振り返る暖炉の火の中には大きな黒い卵が置かれていた。
「ハグリッド、これどうやって手に入れたんだい?高かったろう。」
まだはぐらかせると思ったのか、ハグリッドはそれがなんなのかはっきり言わずにただパブで会った男にもらったとだけ話した。
四人には、たまにコツンと動くそれがなんなのか言われなくてもとっくに分かっていた。
「卵が孵ったらどうするの?」
「ちょっと待て、あー、母竜が息吹きをかけるように火の中に置いて・・・ほんで、孵ったらブランデーと鶏の血を混ぜて三十分ごとにバケツ一杯飲ませる。ちと古い本だがなんでも書いてあるんだ。それとな、俺のはノルウェー・リッジバッグという珍しい種類らしい。」
ハグリッドは四人にくたびれた分厚い本をめくって見せた。
人の何倍もある大きなドラゴンの絵が、その身体のさらに何倍もの強烈な炎を吹き出している。
「ハグリッド、この家は木の家なのよ?」
鼻歌まじりでハーマイオニーの声など聞こえていない様子のハグリッドに四人は顔を見合せ、灼熱の小屋を後にした。
一週間後、ヘドウィグがハリーに一通の手紙を届けた。
"もうすぐ孵るぞ"
たった一言だが、それで十分だった。
四人は急いで小屋に向かった。
走ってきた四人に負けず劣らず、ドアを開けてくれたハグリッドの頬は紅潮していた。
「ちょうどいま孵るところだ!はよ入れ!」
卵はテーブルの真ん中に置かれ、すでに大きな亀裂が入っていた。
コツン、コツンという音がして亀裂が広がっていく。
全員が椅子を引き寄せ、息をひそめてその様子を見守った。
突然、キーッという引っ掻くような鋭い音がして卵が割れた。
割れ目から出てきたのは、黒くてぬらぬらとしたやせっぽっちの生き物だった。
細い胴に不釣り合いなほど大きく骨張った翼に小さな角、鼻の穴は大きく、目は明るいオレンジ色をしている。
それはぶるりと身体を震わせて水気を飛ばし、小さな頭で不思議そうに辺りを見回した。
きょろり。
オレンジの目がシオリを見た。
「なんだか、あなたのことを見てるように思うけど・・・」
「私もそう思う・・・」
ハグリッドはまるで我が子が産まれたとでも言うようにハンカチを目に押し当てていて、ドラゴンがシオリを見つめているのに気付いていない。
「気をつけて、ドラゴンがじっと見てくる時は火を吹こうと・・・」
ロンの恐ろしい言葉を聞いている途中でドラゴンが動いてシオリは飛び上がりそうになった。
だがその赤ちゃんドラゴンはよたよたとシオリの前まで這って行き、キィと一声鳴いて首をかしげただけだった。
シオリがくらりとのけ反った。
「か、かわいい・・・」
小さな黒い鱗の一枚一枚が磨き上げられた宝石のように光って乱れなくどこまでも連なっている。
大きな目は純粋無垢そのものだ。
産まれたてでしわしわなことを除けばドラゴンの赤ちゃんは素晴らしく神秘的で美しかった。
「ノーバート、ノーバートや、ママはここですよ。ほれほれ。」
「ノーバートって?」
「こいつの名前だ。名前がないとかわいそうだろう。」
ノーバートは差し出されたママの指に噛みつこうとした上に、くしゃみという名の熱い火の粉をお見舞いした。
だがハグリッドは、もうママがわかるなんて!と満足だったようだ。
シオリもこっそり名前を呼んでみた。
ドラゴンが懐いてくれるなんて、まさかそんなことあるわけがない、火傷を作らないうちに現実を見なければという思いをノーバートはきれいに吹き飛ばした。
彼は名前を呼ばれた瞬間に黒く光る頭を上げシオリの方に這っていき、またキィ、と鳴いてみせたのだ。
なんて賢いんだと叫んだのはハグリッドだけではなかった。
シオリももうノーバートの虜だった。
ただ一つ、なぜノーバートが自分に懐くのか、そのことを考えると不思議というよりどこか不気味な気持ちすらしたが、どんなに考えても答えは分からなかった。
それからたった二週間のうちに、ノーバートは産まれた時の何倍にも大きくなっていた。
大きくなるのに比例して世話をするのが難しくなり、ハグリッドの手だけでは足りないと四人が交代で手伝うことになった。
今夜はシオリとハリーの番だった。
「ノーバート、おいで。」
名前を呼ばれたノーバートはもう机を這うことはせず、ばさりと翼を広げて一つ羽ばたくと瞬く間にシオリの膝の上に降り立ち、木箱いっぱいのネズミの死骸に頭を突っ込んだ。
翼の起こす風に負けて、壁にかかっている鍋やティーカップがひっくり返って大きな音をたてた。
シオリは食べ散らかされるネズミの返り血を浴びながら、杖を振って割れた食器を全て元に戻した。
「シオリが来るとノーバートはえらく大人しくなっちまう・・・これじゃインコと変わらんじゃないか。おまえさん、ドラゴンを育てたことがあるのか?」
ソファにどさっと腰かけ、傷薬をあちこちに塗り直しながらハグリッドが言った。
会う度に生傷が増えているハグリッドはかわいい我が子がシオリにばかり寄っていくことを悲しむよりも、この貴重な休息時間をありがたく受けとることに決めたようだ。
黒くつぶらな瞳に恨めしい気持ちが微塵もないというと嘘にはなるが、ドラゴンがなぜシオリに懐くのか、純粋な興味の方が勝っていた。
「まさか!そんなこと思い付くのもできるのもハグリッドだけだよ。でも、こんなに綺麗なんだから・・・一緒にいたくなる気持ちも分かるな。」
そう言いながらシオリはノーバートの背を撫でた。
つるりとして、硬いのに滑らかで、温かい。
この身体の中に、彼の吐く炎のように強く猛々しい力が宿っているのが見えるようだ。
「そうだろう、魔法生物には面白いのが山ほどおるがその中でもドラゴンは一等美しい。こんなに美しい生きもんは他におらん。見ろ、この爪の大きさ、牙もこんなに立派になって・・・」
感極まってしまい赤黒い染みだらけのテーブルクロスで鼻をかむハグリッドに、シオリとハリーは顔を見合わせた。
彼はその立派な牙のおかげでロンの手が酷いことになっているのを忘れてしまっているらしい。
ロンは昨日の手伝いでノーバートに噛みつかれ、手が二倍近く腫れあがっていた。
ハグリッドいわく、ロンがノーバートを怖がらせたせいらしいが二人はそんなはずはないと思っていた。
怖がっているのはロンの方だ。
「ねえ、ハグリッド。まさか、チャーリーに預けるのが嫌になったとか言わないよね?」
ハリーが釘を刺すように言った。
四人はドラゴンを育てていることが学校にバレたらハグリッドが何らかの処分に遇うだろうと考え、ロンの兄でノルウェー・リッジバッグ種を仕事で見ているチャーリーにノーバートを引き取ってもらうよう頼んだのだった。
ハグリッドはハリーの言葉にせっかくふいた目元にまたいっぱい涙を溜めたが、ゆっくりと首を振った。
「俺だって分かっちょる。このままこの子を育てることはできん・・・だがな、もし、もし、ノーバートが他のドラゴンにいじめられたらどうする?俺はただ、こいつのことが心配で・・・」
泣きじゃくる声に、ハリーは形だけでもハグリッドの大きな背中を撫でた。
シオリはハグリッドの泣き声に負けないよう声を張り上げた。
「大丈夫だよ。ノーバートはきっと他のドラゴンと仲良くなれるよ。だってこんなにきれいで可愛いんだもん、みんなが放っておくと思う?」
「いんや、いんや、そんなはずはねえ。こいつの美しさは他のどんなドラゴンも敵いやせん。誰がノーバートを放っておけるもんか・・・」
「ほらね、大丈夫だよ。」
「ありがとう、ありがとう二人とも・・・」
ノーバートが樽一杯のブランデーを飲み干すのを見届けてからハリーとシオリは透明マントを被って小屋を出た。
真っ暗な道をまばらな城の明かりを頼りに急ぎ足で進む。
入り口にたどり着きホールに上がろうと周囲を伺っていると誰かの話し声が聞こえてきた。
「さあて、今夜は何が捕まるかな?行こうお嬢さん。憎い小僧どもの匂いを教えておくれ・・・」
しゃがれた意地悪な声に答えるようにニャアという鳴き声が聞こえた、ミセスノリスとフィルチだ。
二人は急いで入り口を離れ、再び暗闇の中に戻った。
道の途中にあった大きな石の根本に隠れるように透明マントを被ったまま並んで座った。
「危なかったね。あっちの方はグリフィンドールの寮だ・・・あの二人の後を追いかけることになるくらいならここで休憩してから行こう。」
「そうだね、うんと離れて着いていってもミセスノリスならきっと気付くだろうから。」
もう皆ベッドに入っている頃だろう。
そんな時間に凶暴なドラゴンとすぐ泣き出してしまうハグリッドの相手をして二人はかなり疲れていた。
どちらともなく深いため息がこぼれて二人は顔を見合わせて笑った。
静かな夜にきらきらと星が輝く。
ホグワーツを覆っていた雪はとっくに溶けて、地面から顔を出していくぶん伸びた草花がぐるりと城を囲んでいる。
禁じられた森の方までずうっと続く緑をわずかな月明かりが照らしていた。
「フィルチってどうして生徒を目の敵にするのかな。こんな夜中にまで働いて僕たちを捕まえて何が楽しんだろう。」
「案外あの仕事が好きなのかもね。夏休みなんて、私たちがいなくて寂しがってたりして。」
空っぽのホグワーツで暇を持て余すフィルチを想像して二人はクスクスと笑った。
少しの沈黙の後、ハリーが言った。
「僕、夏休みが来なかったらいいのにって思う。ずっと試験勉強が続くのは嫌だけど、試験が終わっちゃったらすぐ夏休みになって叔父さんたちのところへ帰らなくちゃ・・・」
シオリはハリーの横顔を見た。
月明かりしかない上に透明マントを被っていたが、美しい緑の瞳が悲しそうに下を向いているのだけははっきり見えた。
「私、手紙を書くよ。ハリーが寂しくないように、どうでもいいことでもいっぱい書く。私がヘドウィグにおやつもあげるよ・・・向こうじゃそんな余裕はないだろうから。ヘドウィグ、ネズミ好きかな?」
緑の瞳がばっと上がってこちらを見た。
目が細められてハリーが笑ってくれたのが分かった。
「ありがとう、ヘドウィグはなんでも喜ぶよ。君から手紙が来るなら僕きっと大丈夫だ。みんなのことを考えて宿題をしてたら夏休みなんてすぐ終わってるかも。シオリは・・・家族のところへ帰るんだよね?」
今度はシオリが黙り込む番だった。
夏休みになってハリーもロンもハーマイオニーもいなくなってしまったら、この広い城に一人ぼっちで二ヶ月も過ごさなければならない。
その間グリフィンドールの寮に引きこもることになるのだろうか、それともまたあの部屋に・・・
いまのスネイプと二ヶ月も共に過ごすのはシオリにとっては拷問だ。
シオリはいまだに彼の顔どころか、その黒いローブのはためく裾すらなるべく視界に入れないようにして、あの夜突然告げられた別れとまだ向き合えずにいた。
それなのにまるで何事もなかったかのように授業をしてハリーをいびるスネイプにまた胸を痛めるということを繰り返していた。
彼が一体何を考えているのか、シオリには全く分からなくなっていた。
「ごめん、聞かない方がいいことだったよね。僕、実はシオリの家族のことが気になってて・・・」
「私の家族?」
「シオリは・・・両親と一緒に暮らしてる?」
その言葉は短くも、胸が痛くなる程の切ない響きを持っていた。
シオリはハリーがここ何ヵ月も言いたかったことをやっと理解した。
彼は、あまりに大っぴら過ぎて周りが忘れている彼の深い孤独を分かち合える人をずっと探していたのだ。
その思いに応えられないどころか今から嘘をつくしかない自分を虚しく思いながら、シオリはせめてハリーの孤独を受け止めようと彼の目を真っ直ぐに見た。
「ううん・・・両親はいない。」
「じゃあ、おじいさんと暮らしてるの?それとも叔父さん?」
「えっと・・・そう、叔父さんと暮らしてた。でも次の夏休みは・・・分からない。」
「えっ、どうして?」
ショックを受けたような声だった。
ハリーの方がずっと辛い境遇なのに・・・自らの不幸を人の不幸と比べず、心から他人を思いやれる人間がこの世に一体何人いるだろう。
美しい緑の瞳に促されてか、シオリは自分で思うよりも淡々と"叔父さん"のことを話せた。
「基本的には優しい人なんだけどね、気難しいところがあって・・・急に冷たくされるようになってもうずっとそのまま。なんでこんなことになったんだろう・・・あの人はきっともう私に会いたくないんだと思う。」
「家族がいても難しいことはあるんだね・・・」
「本当にね。ちゃんと大事なところで繋がってるって・・・思ってたのに。理由も言わずにあんな一方的な言い方するなんて、今でも思い出したら腹が立つし、まだ・・・」
視界が徐々に熱くなって滲んでゆくのを堪える。
ハリーは静かに前を向いたまま、途切れた声を継いでくれた。
「悲しいよね、大切な人のことが分からないって。」
シオリはハリーの言葉にはっとした。
スネイプがなぜ自分を突き放したのかは今でも分からない。
だが、彼が不安定でややこしいのはいつものことだ。
それにいつか自分は彼に言った。
人と人は分かり合えなくても一緒にいれるのだと。
(それなのに私、いつのまにかセブルスの全部を理解したつもりになってたんだ。だから裏切られたような気持ちになってこんなに苦しくなって・・・簡単にあの人から離れてしまった・・・)
拒絶された悲しみで絡まってしまっていた頭の中がほどけていく。
ひやりとした空気が目元の熱をそっと冷ましてくれた。
「きっと・・・叔父さんなりのちゃんとした理由があるんじゃないかな。元は優しい人なんだよね?今まで君のことを大切にしてくれてたし・・・」
そうだ、彼は理由もなくこんなことをする人間じゃない。
シオリは重苦しい黒いローブに身を包む暗い目を思い浮かべた。
人知れずあまりにも多くを抱えている彼のことだ。
きっとその中に答えがあるのだろう。
それでも・・・あの夜のことを思い出すと今も胸の奥が痛む。
なんて自分勝手なやり方だと怒りも湧く。
だが、あの冷たい手が何度も自分を救ってくれた、それだけは確かだ。
なのにまだ何も返せていない。
顔を上げると空にある星々がさっきよりも明るく見える気がした。
「そうだね・・・ハリーに話してみたらすっきりしたよ、ありがとう。」
「よかった。叔父さんとまた一緒にいれるようになったらいいね。」
ハリーの言葉にシオリは微笑んだ。
スネイプは自分から離れたがっている。
それを追いかけることで彼が苦しむくらいなら、このままでいい。
彼がどんなに変わってしまったって、共に過ごしたあの温かな時間は変わらずここにある。
何もかも不確かなこの世界で、今も確かに自分を支えてくれている。
(だから・・・もし、セブルスが誰かを必要とする時が来たら、私はそれに応えたい。あの人を一人にはしたくない。)
気持ちのいい夜風にさわさわと草の揺れる音が乗ってそのままどこまでも吹き抜けていく。
シオリは身体の中にまで風が通っていって、重く引っ掛かっていたものがすっととれたような気がした。
「そろそろ行こう。ハーマイオニーが待ってる。」
「うん。」
二人は立ち上がってまた少し星空を眺めてからマントの中で身を寄せ合い、歩幅を合わせてゆっくりと歩きだした。
「遅かったじゃない、心配したのよ。何かあったの?」
「フィルチがいてちょっとね。ノーバートは元気そうだったよ。」
「そうでしょうね。でもロンの方はまずいわ。噛まれた手が更に腫れてきてる。寝てる方が痛みがましだからって寝室に行ってしまったけど・・・明日にはどうなってるか考えるだけでこわいわ。」
ハーマイオニーの言う通り、翌朝ロンの手は傷口から気持ちの悪い緑色に変色しだしていた。
ノーバートの牙には毒があったらしい。
ロンはドラゴンのことがバレないようにマダムポンフリーのところへ行かずに耐えていたがもう限界だった。
「ロン、調子はどう?」
授業が終わってすぐ三人は医務室へ行った。
シオリがベッドのカーテンを開けると、顔色の悪いロンが頭だけ起こして泣き出しそうな声で答えた。
「調子は最悪さ。手がちぎれてどっかいっちゃいそうに痛いんだ・・・見てよこの色。」
動かせないように固定されたロンの手は肘のあたりまでどす黒い緑色になっていて、傷口からは同じ色のぬるぬるとした汁が出ている。
「それだけじゃない、もっと最悪なことがあった。マルフォイが来たんだ。」
「お見舞いじゃないわよね。何をされたの?」
「僕のことを笑いに来たのさ。あいつ、僕の本を借りたいってマダムポンフリーに嘘ついて入ってきやがった。クィディッチの試合の時に殴ったりしなきゃよかった・・・こんな時に仕返しされるなんて。」
「次の土曜日ですべて終わりよ。あなたはここまでよく耐えたわ。」
珍しくハーマイオニーが優しい言葉をかけたが、ロンの顔はなぜか更に真っ青になった。
「土曜の零時・・・最悪だ!チャーリーからの手紙をマルフォイが持っていった本にはさんだままだ、待ち合わせのことが書いてあるのに・・・ノーバートのことが知られちゃう!」
四人に相談する暇はなかった。
マダムポンフリーがやってきてシオリ、ハリー、ハーマイオニーは騒がしいと追い出されてしまった。
それから三人は何度も話し合ったが、やはりチャーリーに預ける以外に方法はないという結論になった。
マルフォイは透明マントのことを知らない。
待ち合わせのことを知っていても、ハリーたちを見つけられなければどうしようもない。
三人はマルフォイが薄ら笑いを浮かべて見てくる度に強い不安に駆られながら、なんとか土曜まで過ごした。
「長旅だからブランデーとネズミをたくさん入れといた。ノーバート、寂しくないようにテディベアも入れておいたよ。辛いだろうがどうか元気でな・・・ママはお前のことを決して忘れないよ・・・」
チャーリーとの約束の日の夜、ハグリッドは大きな木箱に入っているノーバートに話しかけながら大粒の涙を流していた。
そんなハグリッドを気の毒に思う余裕もなく、ハリーとシオリは重い木箱を持ち上げ、透明マントを被った。
その時、箱の中でぶちぶちと何かが引き裂かれる音がした。
ハリーはテディベアの首が千切られた音に違いないと思った。
階段を上がり、暗い廊下を渡り歩き続ける。
シオリは本来ハーマイオニーの役目だったはずの重労働に、ふうふうと肩で息をして歯をくいしばり耐えていた。
シオリがいればもしノーバートが暴れても心強いと二人にこの役を頼まれた時、シオリの背中を冷や汗が伝った。
ハリーとノーバートを運ぶということは、この後に起こるあの重要な出来事に立ち会うということだ。
シオリはハリーたちとはまた違う緊張で胸がいっぱいだった。
「待って!」
ハリーが立ち止まった。
数メートル先に灯りが揺れ、二つの人影が見える。
「罰則です!」
マクゴナガルの声だ。
灯りの下に、マクゴナガルに耳をつかまれているマルフォイが見えた。
「こんな夜中にうろつくなんて、スリザリンから二十点減点です!」
「先生、誤解です。ポッターが来るんです、ドラゴンをつれて来るんです!」
マルフォイのまるで嘘みたいな話を嘘だと思ったマクゴナガルは、そのまま彼を引きずって廊下の向こうに消えていった。
ハリーは二人に聞こえてしまうんじゃないかというくらいの声で喜び興奮した。
「やった・・・こんなのって最高だ、マルフォイが罰則を受けるなんて!」
「そうだね、とりあえず私たちもこの罰みたいな、仕事をやりとげよう。もう、私倒れそう・・・」
二人が待ち合わせの塔の上に着いて十分ほどでチャーリーたちが箒に乗ってやって来た。
チャーリーとその友人三人はみんな陽気で気さくだった。
四人はドラゴンを箒で牽引できる道具を持ってきていた。
シオリは木箱がガタガタと揺れるほど暴れているノーバートに囁いた。
「怖くないよ、大丈夫。今からおうちに帰るんだよ。きっと素敵なところだから・・・元気でね。」
するとノーバートはぴたりと静かになった。
六人がかりで木箱を乗せると、四つの箒は颯爽と夜の闇に飛び上がりすぐに見えなくなった。
ハリーは大仕事を無事にやってのけ、胸を撫で下ろした。
それにさっき見たマルフォイのひきつった顔を思い出すと疲れきった足も軽くなり、早くハーマイオニーにいい報告をしたいと帰り道を急いだ。
一方シオリは、できることなら自分もチャーリーたちに運んでもらって、これから起こること全てから離れて森の中でノーバートと悠々自適に暮らしたいと妄想していた。
ハリーもこの世界の誰も知らないだろうが、ここから物語は佳境に入るのだ。
階段を一歩降りる度、廊下の角を曲がる度、シオリは得体の知れない怪物の口に自ら飲み込まれに行くような恐怖に肌がぞわぞわと粟立つのを感じていた。
ある角を曲がった拍子に、ハリーが急に立ち止まってシオリはその背中に顔をぶつけた。
ハリーが息を飲む音が聞こえる。
ああ、やっぱり。
シオリは鼻をさすりながらゆっくりと顔を上げた。
「さて、さて、さて・・・」
しゃがれた猫なで声にハリーの肩が震えている。
暗闇の中、ランプのほの暗い灯りに照らされたフィルチの顔は、これ以上ないというほどの満面の笑みを浮かべていた。
「これは困ったことになりましたねぇ。」
二人は塔のてっぺんに透明マントを忘れてきてしまっていた。