そっちをイメージしてもらえると読みやすいと思います。
最悪の事態になった。
フィルチの喜び勇む足に合わせて彼の持つランプがガチャガチャと鳴る。
その光に照らされて、ハリーの影が揺れては歪んでまた揺れた。
ハリーはこれから起こることを考えるとさっきまであんなに軽かった足が鉛のように動かなくなったが、フィルチは容赦なく二人を引きずってマクゴナガルの研究室へと連れていった。
研究室では、深緑のタータンチェックのローブを羽織ったマクゴナガルが小刻みに肩を震わせていた。
そしてなぜかその隣には、今にも泣き出しそうな顔のネビルがいた。
「なんということを・・・一晩に四人も寮を抜け出すなんて前代未聞です!あなたたちはこんな夜中に一体どんな理由があって校内をうろついていたのですか?」
今夜マクゴナガルをここまで鼻息荒く怒らせたのは、マルフォイにハリーにシオリ、そして四人目はネビルらしい。
ネビルがなぜ規則を破って夜の校舎を歩いていたのか、ハリーには全く想像がつかなかった。
二人がドラゴンのことを話せずに黙っていると、ネビルがおずおずと口を開いた。
「二人を探していたんです・・・マルフォイがハリーを捕まえるって話してるのを聞いたからそれを教えてあげようと思って・・・マルフォイはハリーが、その・・・」
ハリーが慌てて首を振ってそれ以上は言うなと訴えると、マクゴナガルが深くため息をついた。
「ロングボトム、あなたもドラゴンがどうのと言うつもりなのでしょう。ポッター、私には分かっていますよ。ドラゴンなんて全くの嘘で、マルフォイに一杯食わせて彼に問題を起こさせようとしたのでしょう。あなたたち二人は、ここにいるロングボトムがそんな作り話を本気にしたのが滑稽だと思っているのでしょう?」
ハリーとシオリがそんなことはないとネビルに目で訴えようとしたが、彼はあまりのショックに二人の顔など見えていないようだった。
友人に危険を知らせようとこんな暗い中を一人で歩き回ったなんて・・・ネビルにしてみたらどんなに大変なことだったかハリーには分かっていた。
それなのにこんなヘマをして、彼のすることがいつもうまく行かないのをかわいそうに思いながら、今回ばかりは自分のせいだとハリーは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「アオツキ、あなたのような真面目な生徒までこんなことをするなんてとても残念です。ポッター、あなたにとってグリフィンドールは守るべき価値のあるものではなかったのですか?あなたもです、ロングボトム。いかなる事情があれ、誰にも夜中に学校を歩き回る権利はありません。特に最近は物騒なのですから・・・」
決まりきっていた事とはいえ、シオリはマクゴナガルの言葉にうなだれた。
ハリーとネビルはその比ではないくらいしょげてしまっている。
マクゴナガルはこめかみに手を当て、高い鼻から大きく息を吸って吐いた。
そして、三人の顔をそれぞれゆっくりと見てはっきりとよく通る声でこう言った。
「五十点減点です。一人につき五十点。そして後日、罰則を言い渡します。」
「そんな!先生、ひどいです!」
ハリーがたまらず叫んだ。
三人で百五十点、グリフィンドールはたった一晩の内に寮対抗試合の最下位に落ちてしまった。
シオリは、引き付けを起こしたようにのけ反り固まってしまったネビルの背を支えた。
「ひどいかひどくないかは私が決めます。みんなベッドに戻りなさい。グリフィンドールの寮生をこんなに恥ずかしく思ったことはありませんよ。」
三人は寮に戻る道の間、言葉を交わさなかった。
ネビルは恐怖のあまり目を見開いてずっと肩を震わせていた。
夜が明けてグリフィンドールの生徒がこのことを知ったらどうなるか、考えたくもないがハリーたちの頭の中にはそのことしかなかった。
翌日、グリフィンドールの砂時計の前を通った生徒たちは目を疑った。
得点の砂が半分以上も減ってしまっている。
これは掲示の間違いだと誰もが思った。
しかし、その日のうちにある噂が広がり始めた。
あの有名なハリー・ポッターが、クィディッチの試合で二回も続けてヒーローになって調子に乗ったポッターが、何人かのバカな一年生と一緒に寮の得点をこんなに減らしてしまったらしい・・・
ハリーは一夜にして突然、学校一の嫌われものになった。
グリフィンドールの談話室ではみんなが彼をじろじろ見ながらも避けて通ったし、あんなに楽しかったクィディッチの練習でも彼に話しかけるチームメイトは一人もいなかった。
スリザリンから寮杯を奪えると楽しみにしていたレイブンクローやハッフルパフまでもが彼を指差しおおっぴらに悪口を言ったので、大広間での食事や教室を移動する短い時間でさえもハリーはできるだけ小さく縮こまっていなければならなかった。
一方スリザリン生はハリーを見かける度に拍手をして口笛を吹いてはやし立てた。
それを睨むこともできず、逃げるようにその場を去る彼の背をまたたくさんの冷たい目が追いかけた。
ハリーと違って有名でないシオリはまだましだったが、それでも廊下を歩く度、トイレに入る度、何かしらのささやき声が聞こえてくるのにすっかり疲れていた。
「ああ、シオリ落ち込まないで。私とロンがこうなってもおかしくなかったんだもの、あなたたちだけが悪いわけじゃないわ。」
「数週間もすればみんな忘れるよ。フレッドやジョージなんか毎年点を引かれっぱなしさ。それでもみんなに好かれてるよ。」
ロンとハーマイオニーだけは二人の味方だった。
だが二人の気は晴れなかった。
「でも、一回で五十点も引かれたことはないだろう?」
「しかも、あわせて百五十点。」
「んー、それは・・・そうだね。」
ハリーはこの失態を挽回することはできなくても、もう二度と余計なことに首を突っ込まないと誓った。
それから四人は、昼間は図書館、夜は談話室の隅で身を寄せ合うようにして毎日勉強に明け暮れた。
だがある日、ハリーはたまたま通りがかった空き教室からすすり泣く声がするのを聞いてしまった。
それはクィレルの声だった。
「どうか・・・どうか、もう、これ以上は・・・」
誰かに脅されているようだ。
ハリーはすぐに誓いを忘れ、耳を澄ました。
「それならば・・・わかりました・・・それならば・・・従います・・・どうかこれでお許しを・・・」
静かになった教室に苦しそうな息遣いだけが残った。
コツコツと革靴の音がしてハリーは慌てて廊下の影に隠れた。
教室の扉からクィレルが出てきた。
彼の顔はひどく歪んでいて今にも倒れてしまいそうなほど真っ白だった。
しかし、なぜかその目は安堵したような妙な穏やかさをたたえていた。
クィレルが何かを思い浮かべるように、俯き目を閉じ・・・震える手を胸に当てた。
そうして少しの間立ち止まっていたかと思うと、ふいに白い顔を上げてふらふらとした足取りで廊下の角の向こうに見えなくなった。
教室をのぞくと、反対側の扉が少し開いている。
ハリーには、今しがたこの扉からスネイプが満足そうに出ていったのが見えるようだった。
「間違いないよ。スネイプはついにクィレルがかけた石の守りのことを聞き出したんだ。」
ハリーは急いで三人のもとへ帰り、さっきあったことを話した。
「あいつは石を守るのに関わってる。守りを破る方法を知るのは難しいことじゃないのに、クィレルだけをずっと脅してた。つまり、他の守りは調べがついてたけど、クィレルの守りだけは破れずにいたんだ。なのに・・・」
「ついに話してしまったのね・・・先生、もうずっと顔色が優れないし様子がおかしかったもの。限界だったんだわ・・・ちょうどシオリと話してたのよ、ねえ。」
「うん・・・」
青くやつれた顔に落ちくぼんだ目。
常に頼りなく揺れている細すぎる身体と、時折震える手で自分の腕を抱くその姿。
シオリはこの数ヵ月、彼の命が削れていく様を目の当たりにしてた。
彼が弱るということは、彼の中に魔力が足りていないということ・・・この状況を彼の主が許すわけがない。
にもかかわらず、あれほど衰弱しながらもクィレルはなぜ自分を襲わないのか?
とっくに奪われていてもおかしくないこの命が、なぜ今もこうして無事なのか?
その答えが見えそうになる度、シオリはこちらを見もしない彼の青い横顔から目をそらしていた。
「でもフラッフィーを操れるのはハグリッドとダンブルドアだけなんだから、石のことは心配いらないんじゃないかしら?」
「それだって怪しいよ。ハグリッドは僕たちにだってあんなに色々話しちゃったのに、スネイプにだけは話さないって誰が言いきれるのさ・・・」
シオリの胸に落ちる影に気付けるはずもない三人は、教科書も杖もわきにどけ、減点のことも忘れて石のことを議論しだした。
特にハリーとロンは冒険心と正義感に火が着いてしまい、翌日もその翌日も夢中になって石のことを話し合った。
しかしその翌週、そんな彼らを諌めるように、処罰に関する手紙が届いた。
シオリは思い詰めた顔で窓の外を見ながら、ハリーが手紙を読み上げるのを聞いていた。
”処罰は今夜、十一時に行います。玄関ホールでミスター・フィルチが待っています。”
ついにこの日が来てしまった。
もう何日も、シオリの頭の中ではハリーが黒い影に襲われる光景が繰り返し流れていた。
ハロウィンの時のように全てをうまくやってのけることができるとは思えない。
あの時の相手はただのトロールだったが、今夜は違う。
見下ろした窓の外には禁じられた森が広がっている。
シオリは、日暮れとともに黒く染まっていく木立の向こうから、自分の名を呼ぶ声が聞こえる気がした。
夜になり、ハリー、シオリ、ネビルの三人が玄関ホールに向かうと、そこにはマルフォイがいた。
彼はシオリを見つけると決まり悪そうに顔をそらした。
だがシオリはそれどころではなかった。
緊張で震える手をおさえながら、何も知らずに前を行くハリーの背中を見る。
今夜起こることに少しでもずれが生じれば、この優しく平凡な男の子の命が奪われることになりかねない。
そして、その少しの”ずれ”が自分のことかもしれないと思うと、自然と息が上がって動悸がしてくるのだった。
「ついて来い。」
フィルチの持つランプを追って、四人は真っ暗な校庭を横切った。
一体どんな罰なのか気が気でない三人と、何をするべきなのか分からず怯えているシオリは、フィルチの目には同じようにとても愉快に映った。
「私に言わせりゃ、お前たちみたいのは痛い目を見せてやるのが一番だ。昔のような体罰がなくなったのが残念でならん・・・まあ、この罰則が終わる頃には体罰の方がましだったと言っているかもしれんがな。」
フィルチの思惑通り、ネビルが歯をカチカチ言わせて震え上がったところで一行はハグリッドの小屋に着いた。
「遅かったな。もう出発しなけりゃならん。」
「出発ってどこへ?」
マルフォイが怪訝そうに聞くと、ハグリッドではなくフィルチが答えた。
「森の中だよ。森には狼男や危険な生き物がやまほどいる・・・無傷で帰ってこれるなんて思わない方がいい。」
今度はネビルだけでなく、マルフォイも真っ青になってひっ、と声を漏らした。
「フィルチ、余計な説教を垂れるんじゃない、お前の役目はもう終わりだろうが、え?ここからは俺が引き受ける。」
「ふん、夜明けに戻ってくる。こいつらの身体の残ってる部分を引き取りにな。」
フィルチは嫌みたっぷりにそう言って、またランプを揺らしながら城に帰っていった。
「みんな行くぞ。今夜は雲が濃い、月の明かりがないから気を付けろ。ちゃんと俺の後に着いてこい。」
森の中は意外と静かだった。
それはこの森がハリーたちの思うよりももっとずっと広くて、入り口のあたりには何の生き物も住んでいないからだった。
それでもハグリッドの言う通り、月明かりもない暗い森は十分に不気味だったが、何事もなく進んで四人に辺りを見回せるくらいの余裕が出てきた頃、シオリはあるものを見つけた。
木の根が絡まりあったでこぼこの地面に、銀色に光るものが点々と森のずっと奥まで続いている。
シオリにはその先の暗がりに潜むものが見えるようで、一気に空気が冷たくなった気がした。
「これはユニコーンの血だ。先週、一体死んでるのを俺が見つけた。何にやられたのかわからんが・・・今も傷つけられたユニコーンがどこかで苦しんでる。みんなでそれを見つけて助けるんだ。もし助けられなくてもせめて楽にしてやらにゃいかん。」
「どうしてユニコーンが襲われているの?」
「さあな・・・だが、これが恐ろしく罪深いことだっちゅうのは確かだな。ユニコーンはこの世で最も無垢で美しい生き物だ。そんな生き物を殺すなんて惨いこと・・・ただでは済まん。そいつは一生止まない苦しみに死ぬまで付きまとわれる。まあ、そもそも生きていたいと思えるような苦しみじゃないと聞くがな。」
ハグリッドの言葉に震えたのはハリーだけではなかった。
シオリはまだ銀色に光る血を見つめていた。
「そ、その、ユニコーンを襲ったやつが僕たちにも襲いかかってきたらどうするんだ?」
「安心しろ、俺かファングがいれば森の生き物が襲ってくることはない。それじゃ二手に分かれよう。」
「僕、ファングと行く、こいつと一緒じゃなきゃ行かないよ。」
マルフォイがハグリッドからファングのリードを奪った。
ファングはリードの持ち主が変わったことに気付かず、はっはっと荒い息を吐きながら舌をだらりと垂らしている。
「いいだろう。言っとくがそいつは臆病だぞ。よし、じゃあマルフォイ、シオリ、ファングであっちの・・・」
「やだ!わたし、ハリーと一緒がいい!」
シオリがハグリッドを遮った。
いつも静かなシオリの必死な様子にハグリッドはつぶらな目を丸くした。
「だがな、マルフォイとネビルじゃうまくいかんだろう。それにファングはお前さんに馴れとるし・・・」
「でも、だけど、ハリーとがいいの。ハグリッドお願い。」
シオリの懇願するような声に、マルフォイが思いきりハリーを睨んだ。
「シオリ、これは罰則だ。仕事を早く終わらせるのにはお前さんがあいつと組むのが一番いいんだ。分かるな?」
ハグリッドは言い聞かせるようにそう言ってシオリの背をばんっと叩いた。
その衝撃で転びそうになりながらシオリがしぶしぶ頷いた。
「・・・分かった。時間とってごめんなさい。」
「大丈夫だ、誰も危ない目には合わせん。ただユニコーンを見つけるだけだ。シオリたちはそこの道を行け、ハリーたちはこっちだ。」
シオリは不思議そうにしているハリーにただ、気をつけて、と言うことしかできなかった。
まるで何かが二人の間に見えない線を引いたようだ。
今まさに流れが変わろうとしているその時にハリーの側にいることができないなんて。
そもそもなぜ自分はこの世界に来てしまい、数多の命を背負わされ、答えのない道を無理矢理歩かされているのだろう。
どこの誰だか知らないが、こんな大した取り柄もないただの子供を選んで何をさせたいのか、いい加減少しくらい教えてくれてもいいじゃないか。
シオリはハリーを守ることができない無力感と歯がゆさに唇を噛み締めた。
ハグリッドが歩きだし、彼のランプの明かりとそれに寄り添うハリーの背中が段々と小さくなっていく。
これが最後にならないことを祈りながら、シオリとマルフォイも暗く曲がりくねった道を歩き出した。
どこかでぱきっと枝の落ちる音がした。
マルフォイの肩がびくっとはね上がり、シオリは鋭くそちらを見やった。
夜の森では、普段は意識しないような些細な音まで全身で感じ取ってしまい、二人の歩みは自然と遅くなっていた。
「僕だってお前なんかと組みたくなかったさ。大体、こんな召し使いみたいなことをやらされてると父上が知ったらなんとおっしゃるか・・・」
マルフォイはわざと声を潜めず、足音をたてて進んだ。
森に怯え、シオリに再び拒絶されたことに沈み、思いがけない二人きりの時間に口の端が上がってしまう、そんな自分への虚勢だった。
「うるさい、静かにして。」
マルフォイのずっと先を一人で歩いていたシオリがめんどくさそうに振り返った。
「な、なんだと!」
「怖いからって騒いでると、本当に怖いものを見逃すよ。それで気付いた時にはぱっくり食べられちゃってるなんて・・・馬鹿みたいでしょ?」
「僕は別に怖くなんか!」
「私だって怖いの我慢してるんだから、あんたも我慢して。」
そう言うシオリの手は確かに力が入って拳を作っているし、よく見ると顔色も悪い。
マルフォイはまだ色々と浮かんでいた挑発の言葉がたちまち消えてしまって、何も言わずにシオリへ歩み寄った。
ファングが歩くのが遅いせいで多少もたつきながらも、彼はなんとか黒い瞳を正面から見てこう言った。
「あ、あまり先に行くな・・・それに、怖いなら、ぼ、僕の側にいればいいだろう・・・」
顔をしかめてもっともらしい表情を作っているつもりなのだろうが、途切れ途切れに出てくる苦しそうな声がそれを台無しにしていた。
二人の間に少しの沈黙が流れる。
マルフォイは、今なら一人で走って禁じられた森を駆け抜けられそうなくらいには自分の言ったことを後悔していた。
それに追い討ちをかけるようにシオリが首をかしげた。
「それってどういう意味?」
「べ、別に、なんの意味もない!僕は、ただ、お前が・・・」
その時、どこかで聞いたこともない鳥のような鳴き声がして、マルフォイはひっと叫んでしまった。
シオリの方は一声もあげず、マルフォイの様子を顔をしかめて見ていた。
最悪だ、彼女の前では何をやってもうまくいかない。
顔を見ることもままならないし舌はもつれるし、おまけにここは犬臭いし自慢の髪もきっと汗で乱れている。
いま彼が持っているものと言えば汚れたリードだけで、自分を支えるものが何もない心細さにマルフォイの頭は混乱していた。
いつものようにどんな酷い言葉で言い逃れようかと顔を真っ赤にして考えていると、ふいにシオリがふっと微笑んだ。
「マルフォイ、あんたって意地悪なのか優しいのかどっちなの?どっちかにしてくれないと困るんだけど。」
本当に困っているような、面白がっているような、愛らしい響きだった。
優しく細められた大きな瞳と、柔らかく弧を描いている薔薇色の唇が月の光をまとって淡く浮かび上がっている。
すぐ目の前にあるのにどこまでも遠いその笑顔がマルフォイの胸をきつく締め付けた。
「これでいいでしょ。行こう。」
「あっ、おい、」
シオリがファングのリードをつかんで歩きだした。
それに引っ張られるようにマルフォイの足も遅れて動き出す。
二人で並んで暗い森を進んでいく。
不気味な木々のざわめきもファングのうるさい息づかいもすべてが遠退いていって、二つの足音だけがやけにはっきりと聞こえている。
たまにぶつかる肩と肩に、少しずつ鼓動が早まっていく。
マルフォイは夢の中を歩いているような気分だった。
心臓が一拍打つ度、感じたことのない温かさがゆっくりと広がっていく。
「無事に帰ろうね。」
「ああ。」
シオリが慎重に辺りを見回している。
マルフォイは、彼女があちらこちらと向く度に黒い髪がさらさらと流れるのを見ていた。
いまだけは、彼女だけを感じていられる。
二人の他に誰もいない森は彼の本当の望みを教えていた。
彼は気付き始めていた。
彼女の隣に立つために必要なものが何なのか。
それは気取った言葉でも高級な服でも、この身体に流れる血でもない。
誰も教えてくれなかった、彼女に出会いさえしなければ自分が知るはずのなかったもの。
それは・・・
その時、シオリが突然立ち止まった。
「何か聞こえない?」
耳を澄ましてみると、たしかにさっきまでなかった音が聞こえる。
布を擦るような、どこかうすら寒くなるような音だった。
「あっ・・・」
シオリが息を飲んだ。
マルフォイはシオリの視線の先を追った。
そこには、とても生き物とは言えないような黒いゆらゆらとした不気味なものが漂っていた。
それは音もなく木の間を縫って、確実にこちらへ近づいてきていた。
「バウッバウッ!」
ファングが大きく吠えて、それがぴたりと止まった。
二人はもしかしたら、とありもしない希望を持って息を止めてそれが去るのを待った。
だがそれは二人を見つけるとすっと立ち上がるように背を高くして、黒いマントの形をとった。
頭にあたる部分はフードを深くかぶっていて顔は見えない。
それはまたこちらへと、今度は明確に狙いを定めて動き出した。
マルフォイの身体は無意識に後ずさった。
「逃げるぞ・・・」
シオリの返事がない。
足が勝手にまた一歩後ろへ下がった。
「おい、逃げるんだ、早く!」
しかしシオリは動かなかった。
森の闇よりも一段と濃い影がするすると地面を這う。
ファングが吠えながらどこかへ走り去って行った。
マルフォイが逃げろと叫んでいる。
(そうだ、逃げないと、ハリーを助けないと、)
それなのに、なぜ自分は身を差し出すようにただそれを待っているのだろう。
黒い裾が地面をなでて落ち葉のこすれるわずかな音が近づいてくる。
立ちすくむシオリに影が迫る。
マルフォイはそれをただ震えて見ていた。
彼女に手を伸ばしたくても、彼の足もまた縫い付けられてしまったように動かなかった。
だが影は突然、不自然にぴたりと止まった。
それどころか身を引いてシオリから離れようとした。
しかし、またがくっと前に倒れるように進み、止まった。
身体がわずかに揺れている。
まるでそれの中で何かが激しくせめぎ合っているようだった。
「おい!」
シオリと影の間を割るようにマルフォイが飛び出した。
マルフォイは影を近くに見て一瞬怯んだが、すぐにシオリの方へと振り向いた。
噛み締めた唇が白くなって震えている。
大事にされてきたのだろう、爪の先まで整った彼の華奢な手が目一杯、シオリの手を握った。
「早く、一緒に逃げ・・・!」
恐怖と戦い揺れていたグレーの瞳が一瞬苦痛に歪み、ぱっと大きく開いたかと思うと、ゆっくりと瞼が閉じてマルフォイは倒れた。
「マルフォイ!」
シオリはしゃがみこんで彼の顔をのぞきこんだ。
いつもぴったりと撫で付けられているプラチナブロンドは落ち葉にまみれ、白い頬が土に汚れている。
しかし、握った手は温かく、胸もゆっくりと上下していた。
かさり、とすぐ側で落ち葉のこすれる音がした。
シオリが目線を上げる。
いつの間にか目の前に立っていた影がこちらを見下ろしていた。
シオリはその顔を見上げた。
フードの中には何もなかった。
視線も息づかいも体温もない。
暗い、ただそれだけ。
しかしシオリはそこにいる彼を確かに感じていた。
心を痛め、魂を割き、闇に消えゆく一人の人間。
シオリは震える声ですがった。
「お願い、この子には何もしないで。」
フードの下の何もない暗がりを見つめて懇願する。
「私だけにして、お願い・・・」
彼は何も答えなかった。
ただ、まだ立ってシオリを見下ろしていた。
シオリには、彼がただ自分を見つめていると分かった。
二つの瞳が初めて互いを見つめ合う。
いま二人は、奪うことも奪われることもなく、ただ繋がっていた。
シオリはゆっくりと立ち上がった。
彼から目をそらさずに、もうずっと隠していた胸の痛みから目をそらさずに、彼と向かい合った。
風が吹いている。
森がざわめき、雲の切れ間から白い月が現れた。
木々の切れ間から細く差す無数の光がすべてを淡く曖昧にし、どこまでも続く暗闇のなかで二人をそっと照らしている。
シオリは触れられていないのに、足元がおぼつかず息までも苦しくなっていくのを感じていた。
彼がいま何を思っているのか考えたくなかった。
黒いマントの胸元に散る銀色の点が、月明かりを受けて冷たく輝いている。
シオリの首から赤い痣が消えても、この血が彼に残す痕は消えることはない。
想像を絶するだろう彼の魂の痛みを思い、シオリは息も絶え絶えに顔を歪めた。
そしていま、二人はこんなにも近くにあるのに、いつかの悲しい腕がシオリに触れようともしないことが彼女の胸をひどく締め付けた。
彼とその他多くを並べて、彼を選べない自分を。
何もできないこんな自分を。
どうして・・・
「どうして・・・血を飲んでしまったの・・・どうして、私なんかを・・・」
彼の魂が罪を重ねた理由、それは・・・自分だ。
ただ少しの救いを渡したかっただけなのに。
力のないこの手が、彼をもう戻れないところまで連れてきてしまった。
黒い瞳から光る雫がすうっと流れて落ちる。
この世界はあるべき結末に向かって進んでいる。
彼は綴られた文字に導かれるままに壊れ、死に近づいている。
それでいいはずなのに、息もできない程のこの胸の痛みをどうしたらいいのか。
シオリはあまりの無力感に立っていれずに黒いマントにしがみついた。
顔のない彼の身体はシオリを受け止め、ただ立っていた。
「あなたは、いる。まだ、ここにいるんだね・・・・・・」
シオリは小さな手を震わせ、残酷な程に美しい銀をぬぐうように彼の胸に触れた。
しかしそれはただ滲み広がっただけで、彼の胸は余計に血にまみれてしまった。
シオリは唇を噛み締めて嗚咽を飲んだ。
そんな資格などないと分かってるのに、溢れる涙を止められなかった。
それはシオリの髪に頬を寄せるように少しだけ屈んで、そして最後まで彼女に触れることなく、森の奥へと消えていった。
シオリは柔らかい土の上に座り込み、それの消えた方をただぼんやりと見ていた。
横には気を失ったままのマルフォイが倒れている。
雲は晴れたままで明るい月が視界をはっきり照らしていたが、シオリの心の中は光を失い、暗く閉ざされていた。
何をすべきなのか、なぜ自分がこの世界に呼ばれたのか。
そんなことはもうどうでもよかった。
たった一つを見捨てる苦しみ・・・それを知ってしまったシオリは立ち上がることができなかった。
考えることを止めてしまったシオリの耳に、遠くから蹄の鳴る音が聞こえてきた。
大地をしっかりと踏みしめながらも迷いのないその足音はとても軽やかで、沈んだ意識が自然と引き戻される。
やがて、鬱蒼とした木々の間から白金の美しい生き物が現れた。
腰から上は透けるような金髪に青い目の若い男の姿。
そして腰から下は淡く柔らかな褐色で、まさに月のような毛並みの馬・・・ケンタウルスだ。
シオリはへたり込んだまま、首だけ動かしてその大きくたくましい身体を見上げた。
彼は真っ白な長い尾を揺らしながら、シオリにゆっくりと歩み寄った。
「怪我はありませんか?」
彼は声までも凛と透き通っていて、そのたった一言がこの月のようにシオリの頭を晴らしてくれるようだった。
シオリの口がゆっくりと動いた。
「ええ・・・この子も、きっと大丈夫。」
「それはよかった。」
ケンタウルスはその青すぎるサファイアのような瞳でシオリをじっと見つめた。
「君はどうして泣いているのですか?」
「え・・・?」
シオリは頬に手をやり、まだ流れ続けている涙に触れた。
はらはらといつまでも頬を伝うそれは首を、手の甲をもうずっと濡らしていた。
それなのに、シオリはそのことにまるで気付いていなかった。
「悲しいことがあって・・・止められないの。」
そう言いながらも、シオリは自分の悲しみですらどうでもよかった。
自分の涙に意味があるとは思えなかった。
なにもかもが無意味に思えた。
「苦しいのですね・・・こちらへ来なさい。」
差しのべられた手は人のものと変わらず温かかった。
そしてその声には同情の響きがあった。
しかし、その瞳はただ青く輝き、自分ではないもっと他の何かを見つめていた。
シオリには、手を取り合っていても彼が遠くにいるように感じられた。
「幼い心はユニコーンのように純粋で無防備だ。だからこそ、たった一つの傷が命取りになることもある・・・だが、それでも君は立ち上がらなければならない。」
シオリは、彼の目が何かを探すように空を見上げるのを見守った。
少しの沈黙の後、彼は空へ向いたままゆっくりと語りだした。
「君は・・・古い魔法の匂いがする。」
「古い魔法・・・?」
彼はまだ何かを探していた。
つられて顔を上げた先にはいくつもの星がそれぞれに瞬き、ひそひそと囁き合う声が聞こえてくるようだった。
「この空も、森の草花も・・・私たちも古から何も変わらない。しかし、君たち魔法使いは時とともに変わっていった。」
まるでその移り変わりを見ているかのように、彼は顔を上げたまま静かに続けた。
「だが、君は私たちと同じだ。遥か昔、生き物すべてが魔法と共にあった時と変わらぬ香りをまとってここにいる。一体どこから来たのか・・・・・・星の語らぬことを私は知るべきではないようだ。」
「あなたたちと同じ・・・」
シオリは何か大事なピースがひとつ、頭の中に落ちてきた気がした。
いつの間にか涙は止まっていた。
「君は知るべき時に知るでしょう。時が満ちるのを待ちなさい。」
「本当に?分かる時が来る?」
握り合ったままの手に思わず力が入る。
シオリはもう何も見失いたくなかった。
彼は空から目を離し、もう一方の手で震える小さな手を包み込んだ。
「真実は必要な者に向こうからやってくる。時には星すらも霞む瞬きが突然に私たちを照らし、世界を変えることがある。私たちは星を読みますが、全知ではありません。そう言うと仲間は荒ぶりますが・・・ですが、私はそこに懸けたいのです。」
真っ青な瞳がシオリを映した。
「運命の外にある・・・未知の光に。」
二人は見つめ合った。
二人は遠く離れた世界に住みながら、運命という一つの線を挟んで手を取り合い、向かい合っていた。
一方はそれを飛び越え、一方は迷い、淵に立っている。
握られた手は力強く、シオリは彼の青い瞳にその淵の向こうを見た。
立ちすくんでいた足が、まだ動けると言っている。
その声を彼も聞いたのか、大きな手が静かに離れていった。
「私の名はフィレンツェ。」
「私はシオリ・アオツキ。フィレンツェ、ありがとう。私・・・立ち上がれると思う。あなたに会えてよかった。」
フィレンツェが微笑んだ。
その目はたしかにシオリを見ていた。
「シオリ、どうか、そのまま歩み続けて。その先でまた会いましょう。」
「・・・うん。」
フィレンツェが背を向け歩き出したと同時に、ハグリッドの声とファングの鳴き声が聞こえてきた。
フィレンツェは振り返らず、暗い森の中へと戻っていった。
白く光るその後ろ姿が見えなくなった後も、シオリの心に再び灯った光が静かに夜を照らしていた。