文章を人に見せるのが初めてで、毎話、心臓飛び出そうになりながら投稿してます…
感想(内容に関する質問も嬉しいです)などいただけたらとても元気になります…良かったらお願いします!
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耳元で風が鳴っている。
力強い蹄の音とともに木々がどんどん後ろへ流れていく。
ハリーは振り落とされないよう褐色の広い背中にしがみついていた。
目の前では長い金の毛がなびいていて、それは月に照らされて純白に見えたり、銀色に光ったりした。
夜の森の中では、その姿はいっそう眩しく神秘的だった。
しかし、どんな美しいものも、たった今助けられたこの命でさえも、今のハリーには価値がないように思えた。
思いがけず告げられた、ある一つの名前。
それがハリーの感覚すべてを奪っていく。
その名前が耳の奥で木霊する度に、彼の心臓は冷たい鉄を当てられたようにずきりと冷えて、反対に頭はのぼせたようになって何も考えられなくなった。
どれくらい走っていたのだろう。
ハリーはどこからか自分を呼ぶ声がするのに気付いた。
同時に蹄の音が緩やかになり、やがて静かに止まった。
ハリーは手を離し、地面に滑り降りた。
「ここで別れましょう。君はもう安全だ。」
フィレンツェが言った。
しかし、ハリーは震える身体を支えるのに精一杯で何も答えられなかった。
フィレンツェはハリーを襲う黒い影を追い払うことはできても、彼の心に迫る影を払うことはできなかった。
ハリーを呼ぶ声が段々と大きくなる。
ハグリッドの持つランプに照らされて、髪の長い小さな影が近づいてくるのが見えた。
ハリーは、真っ青な瞳がその影をじっと見つめるのをぼんやりと見ていた。
「ケンタウルスでさえも星の読みを間違えることはあります。それに・・・在らざる者の瞬きによって、すでに世界は変わり始めている・・・幸運を祈ります、ハリー・ポッター。」
フィレンツェは森の奥深くへ走り去っていった。
ふいに、がくんと肩が揺れた。
振り返ると涙を浮かべたシオリの顔があった。
その後ろには泣きべそをかいたネビルと顔色の悪いマルフォイがいる。
「ハリー、大丈夫?怪我は?」
「僕、大丈夫だよ。なんともない。」
ハリーは自分でなにを言っているのかほとんどわからなかった。
けれど、自分を強く抱き締めているシオリの手が温かいことだけは分かった。
ハリーはその小さな手に引かれて暗い森をあとにした。
談話室に戻ると、ハーマイオニーがはじけるように立ち上がってハリーとシオリを迎えた。
眠り込んでいたのだろうロンはスニッチが、ファウルが、と寝言を叫んでいたが、ハリーが森であったことを話すうちにすっかり目を覚ました。
「フィレンツェっていうケンタウルスが教えてくれたんだ。スネイプは・・・ヴォルデモートのために賢者の石を欲しがってる。」
三人に話しながらハリーの身体はまだ震えていた。
「お金や不老不死のためなんかじゃなかった、ヴォルデモートが森の中であいつを待ってるんだ・・・」
「その名前を言うのはやめてくれ!」
ロンはまるでヴォルデモートに聞こえてしまうとでもいうように、怖々と叫んだ。
「フィレンツェは僕を助けてくれた。だけどそれはいけないことだったんだ。他のケンタウルスがすごく怒ってた・・・星が予言していることに干渉するなって・・・星はヴォルデモートが復活して、そして・・・僕がやつに殺されると予言してるんだ。」
ロンが頼むから、というように人差し指を口に当てて泣きそうな顔をしたがハリーには聞こえていなかった。
ハリーは熱に浮かされたようにただ話し続けた。
「そう、だから、僕はスネイプが石を盗むのをただ待ってればいいんだ。そしたら・・・ヴォルデモートがやってきて僕の息の根を止める。それが、星の教えている僕の運命なんだ。」
最後まで言い切ると、ハリーは三人から目をそらし暗い暖炉を見つめた。
十年前の夜、そして今夜、どうにか生き延びた彼に再び死が迫っている。
ロンもハーマイオニーも、そしてシオリも、ハリーを心の底から勇気付けられるような言葉を持っていなかった。
重い沈黙が流れる。
しかし、シオリは知っていた。
彼はどんな絶望にあっても立ち上がることができるのだと。
たくさんの繋がりに支えられながら、時には一人きりでも。
彼は何度でも立ち上がる。
そして自分の力で選び、未来を切り開いていく。
それに比べて自分はどうだろう。
思えば選択肢はずっと前から目の前にあった。
選ぶことから逃げなければ、何か変わっていたのかもしれない。
壊れていく彼を助けられたのかもしれない。
どこかでそれを分かっていたけれど、未来が変わってしまう恐怖に目を閉じてしまった。
けれど・・・そんな自分にも運命を越える力があるとフィレンツェは言った。
シオリの胸の中で、取り戻したばかりの光がちらちらと瞬く。
(クィレルを助けたいけど、未来を変えるのはやっぱり怖い・・・今はまだ決められない。だけど、選ぶことから逃げるのはもうやめる。)
シオリはわずかに銀が残った手のひらに目を落とした。
選ばなかった自分が彼に背負わせた一生消えない魂の痛み・・・シオリはそれをそっと握りこんでハリーと向き合った。
「ハリー・・・私たちは何が来たって、どんなことがあったって、ハリーと一緒にいる。あなたは一人じゃない。」
「そうよ、それに私たちにはダンブルドアがいるわ。闇の帝王が唯一恐れた魔法使いだもの、彼がいる限り誰もあなたを傷つけられやしないわ。」
ハーマイオニーがハリーの手を握り、ロンがうんうんと激しくうなづいた。
シオリはまず一つ選んだ。
間もなく来る、闇の力が復活しようとするその日、賢者の石を守るのは三人だけではない。
(もう逃げない。私も皆と一緒に、石を、ハリーを守る。そして・・・)
彼の最期に立ち会い、選ぶ。
一人の命と大勢の未来・・・そのどちらかを選び、どちらの重みも一生背負い続けていくとシオリは決めた。
その時を想像するだけで手に汗がにじむ。
しかし、シオリは恐れも苦しみもすべてその手に握りしめて、ハリーの肩を強く抱き締めた。
ハリーがゆっくりと顔をあげ、弱々しくうなづく。
いつの間にか窓の外はうっすらと白み始め、重苦しい部屋に寄り添う四つの影が淡く映し出されていた。
それから時間が過ぎるのはあっという間だった。
試験勉強が佳境に入り、誰もハリーやシオリの陰口を言う暇もなくなって静かな毎日が戻っていた。
それと同時に、四人の間で賢者の石の名前が出ることもなくなった。
ハーマイオニーとロンはすぐそこに迫った試験の方に気を取られていたし、ハリーとシオリも二人と同じように教科書とにらめっこするのに忙しいふりをしていた。
しかしその実、ハリーは森に入って以来、何度も黒い影に襲われる夢を見ていたし、目が覚める時には決まって額の傷の痛みに苦しめられていた。
シオリもまた毎晩のように、ある夢にうなされていた。
どこか自分の手の届かないところで立ち尽くしている黒い影・・・それが徐々に形を崩し、最後には跡形もなく散って消えてしまう夢・・・
ハリーとシオリの顔色は日に日に悪くなっていっていた。
「ああ、この魔法薬の授業が終われば、もう明日から試験だなんて。今夜は眠れる気がしないわ。」
席に着くなり、ハーマイオニーは教科書と自作のノートを広げ、様々な薬の調合手順をぶつぶつと呟きながら頭を抱えた。
ハリーとロンは二人から少し離れた席で気を失っている。
倒れているのは彼らだけではない。
教室中、誰も彼もが初めての試験を前に続く緊張で疲れきっていた。
ヘアセットに朝のほとんどを費やしているはずのパーバティとラベンダーの髪はぼさぼさだったし、教科書を開いているネビルの目は寝不足のせいか上転していて、何も見えていないのは明らかだった。
シオリも鍋とナイフ、それから秤などを出し、椅子に深く座り直すと大きなあくびを一つして目を閉じた。
「シオリ、大丈夫?あなたも最近眠れてないみたいね、よくうなされてるでしょう。顔色が少し悪いわ。」
「え?」
「昨日の夜中、ガーゴイルのストライキの年表が気になって目が覚めてしまったの。その時あなた、苦しそうに何か呻いてたわ。私がノートを作り直してる間に静かになっていたけど。」
「・・・変な夢を見たからかな。それよりハーマイオニーの方が重症だと思うな。それだけ頑張ってるんだから、少しは自信を持ちなよ。」
「自信?そんなのどうやったってつかないわ。本当ならあと三週間はやく勉強しているべきだったのに、私ったら・・・」
またハーマイオニーが嘆きだした時、地下室の扉が開いてスネイプが入ってきた。
途端に全員話すのをピタリとやめて、突っ伏していた何人かもよろよろと顔を上げ前を向いた。
大股で黒いローブをなびかせ教壇に立った彼は、土気色の顔でじろりと教室を見回した。
「今日は一人ずつ夜光虫の灯薬を調合する。試験を明日に控えた諸君は、すでにこの薬の復習を終えているはずであるからして・・・我輩から言うことは何もない。各自、調合にとりかかりたまえ。」
ハーマイオニーが小さく拳を作ってシオリに耳打ちした。
「私、この薬が試験に出るんじゃないかと思ってたの!基本的な調合手順のほとんどが含まれているもの。でも、途中の薬液の光り方が教科書の記述だけじゃいまいち思い出せなくて・・・復習できるなんてラッキーだわ!」
「そう、そうだね。それはよかった・・・」
スネイプの言う通り、調合方法を完全に頭に入れているのはハーマイオニーだけだったらしい。
彼女が小走りで材料を取りに行くなか、ほとんどの生徒が難しい顔をしながら教科書を睨み始めた。
シオリも周りにならってみるものの、目が文字の上をすべってなにも頭に入ってこない。
(あれから授業にも勉強にも全然集中できてない。このまま試験に落ちてハリーたちと学年が離れたらどうしよう・・・)
頭を抱えているうちに、隣ではハーマイオニーが鍋に水を張り材料を刻みだした。
教科書を眺めても何か変わるわけでもないと諦めた者から材料を取りに行き始める。
シオリもトレーを手に取り、遅れて重い腰をあげた。
「あっ、と・・・」
立ち上がるだけで目眩がしてよろけてしまった。
シオリは机に手をつきながら、そろそろと材料棚まで歩いていった。
"選ぶ"という重さを前に、あまりにも弱々しい自分の姿にため息がこぼれる。
その重さは彼女の身体に、心に、強くのし掛かっていた。
そして、どれほど悩み考え抜いても答えが出ないことがまた彼女を苦しめ、時間ばかりが過ぎていた。
大きなガラス瓶の中で重なりあった虫たちがかさかさと音をたてている。
出口のない中で無闇にもがくだけの彼らはまるでいまの自分だ。
シオリの口からまた深いため息が出る。
すると、後ろから苛立った声が聞こえた。
「おい、何突っ立ってるんだ。早くしろ。」
「あ・・・ごめん。どうぞ、先にとって。」
シオリはぼうっとした頭でそう言って下がろうとしたが、背後から伸びてきた白い手にトレーを奪われた。
その手は、夜光虫の成体にカゲロウの幼虫の干物、火蜥蜴のちぎれ尾と、材料を手際よくトレーに乗せていき、シオリに押し付けるように返した。
顔を上げると、心配そうにこちらを睨むマルフォイがいた。
「お前、罰則の日から様子が変だぞ・・・明日から試験なんだ、しっかりしろ。」
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫だよ。」
シオリはトレーを受け取って、白い顔で微笑んだ。
しかし、グレーの瞳はきつく細められたままで、マルフォイは辺りを伺って声を落とした。
「大丈夫じゃないだろう。あの時、何があったんだ?僕が、その・・・気を失って・・・お前を一人にした間に・・・」
マルフォイは拳を握りしめた。
黒い影に、立ちすくむシオリ、そして突然走った衝撃。
断片的には覚えているが目が覚めた時にはもう何もおらず、彼はハグリッドとファング、シオリに連れられ重い体をなんとか引きずってハリーたちと合流し、森を出たのだった。
罰則の後、彼女は何も話そうとしなかったが、一つだけはっきりしていることがあった。
月明かりを頼りにシオリの肩を借りて歩いていたその時、ちらりと見た彼女の頬には涙の跡が光っていたのだ。
「ううん、あれはすぐに逃げていったから何もなかったよ。それより、マルフォイが無事で本当によかった。」
そう言ってなおも微笑むシオリからマルフォイは目をそらした。
彼女は明らかに何かを隠し、苦しんでいるのに、それを自分に話す気はないのだ。
それは、柔らかくもはっきりとした拒絶だった。
自らを絡め捕らえていたしがらみを振り払い、こうしてシオリの隣に立てるようになったというのに。
マルフォイはそれ以上彼女に手を伸ばすことができなかった。
二人は少しの間向かい合っていたが、やがてマルフォイは何も言わずにシオリの横を通り抜けて材料を選び出した。
シオリも黙って席に戻った。
自分が嘘をついたことで彼が苛立っているのは分かっている。
だが、何も話す気はなかった。
今回のことだけではない。
この先ずっと、この世界にいる限りシオリは嘘をつき続けるしかない。
ハーマイオニーにロン、そしてハリーにも。
どんなに心を許した相手にも、増えるばかりで捨てることのできない秘密がシオリを孤独にしていく。
(でも、それでみんなを守れるなら大した問題じゃない。みんなが無事で、笑っていてくれたらそれでいい。)
ハーマイオニーの鍋がぐつぐつと煮えている。
中にある液体はすでに発光し始めていた。
慎重にそれをかき混ぜるハーマイオニーの目も爛々と輝いている。
シオリはその様子に口許を緩ませ、教科書に目を戻した。
まずは薬草を一センチ幅にそろえて刻む。
半分はそのまま、半分は刃物で軽く叩く。
ナイフ片手にかすむ目をこすっていると、青白い光りが机の上を這っているのを見つけた。
魔法界の夜光虫はいわゆるプランクトンではなくれっきとした虫で、シオリは逃げ出していたそれを再びトレーの中に戻した。
痛む頭を揉みほぐしながら、幼虫の干物をじっくりと炙る。
薬草を浸しておいた水にすり潰した火蜥蜴の尻尾を入れて沸かし、青白く光る小さな体をそっとつまんで鍋の中に・・・
「っ!?」
最後の行程に入ろうとしたその時、突然、何かがシオリの手を強くつかんだ。
鍋の中を覗くことに集中していたシオリは思わず飛び上がった。
見ると、大きな手がしっかりと自分の手を捕らえている。
釦の並んだ黒く長い袖口をたどり、ゆっくりと顔を上げる。
そこには眉間に深く皺を寄せた険しい顔があった。
「あ、あの・・・?」
何事かと教室中の視線が集まる。
シオリはわけがわからずスネイプと彼の手を交互に見た。
なぜかスネイプもまた、自身の手を見つめて動かなかった。
骨ばった長い指が、細い小さな手をきつく握っている。
手首を包む冷たい体温に、シオリの顔が歪んだ。
胸の奥の傷がまた熱を持とうとしている。
シオリは思わず手を引いた。
それと同時にスネイプが手を離し、後ろに一歩下がった。
彼の手が、そこに残る何かを確かめるようにゆっくりと指を折って閉じられていく。
しかし、すぐに鋭い目がシオリを射貫き、薄い唇がいつものように滑らかに動き出した。
「アオツキ、君がもし、いまここに開いてある教科書に忠実に調合しようとしていたのであれば、夜光虫を鍋に入れるのは・・・」
スネイプの目がうす緑色の鍋の中を見やり、またシオリに戻った。
シオリはその目を真っ直ぐに見返した。
「薬液が白濁してからです。うっかりしてました。すみません。」
「ほう・・・うっかり、と。」
「ええ、うっかりです。以後気をつけます。」
シオリは感情のない声で返した。
その答えが気にくわなかったのかスネイプの眉がぴくりとしたが、そんなことはどうでもよかった。
シオリは、自分で思っていたよりも"普通に"話せたことに心からほっとしていた。
声が出るし、目は乾いているし、手も震えていない。
ただ、心臓の鼓動はあまりにも早く、あの夜の悲しみがすぐそこまで来ている気配に身体が徐々に固くなっていく。
たとえ授業中によくあるいびりに対してであっても、彼と向かい合って話をすることはシオリにとってはとても、とても大きな試練だった。
似ても似つかない二つの黒い瞳が睨み合うのを、全員が息を潜めて見守る。
かき混ぜる手の止まってしまった鍋が、教室のあちこちで細く煙を上げだしている。
しかしスネイプの目はシオリから離れようとしなかった。
シオリもまた、目をそらしたら負けとでも言うように動かなかった。
シオリはどくどくと早く打つ胸に深呼吸をして自分を落ち着かせながら、早くこの会話を終わらせようとしていた。
(まだ顔を見るのは辛いな・・・でもあと少し、あと少しだ。普通に振る舞えてるはず、大丈夫・・・)
「これはこの薬唯一の重要な行程だと、うっかりと鍋から火柱を上げぬよう我輩はお伝えしていたはずだが・・・試験の前日だというのに随分と気が緩んでいるようですな。」
(ああ、もうしつこい。早くどっか行ってよ。なんでこの人はいつもこうなの?そんなんだから・・・)
「いや、あるいは・・・」
何かを考えるように、スネイプの唇が薄く開いたまま止まった。
そしてほんの一瞬、暗い瞳が光った。
彼らを見つめていたはずの誰も、スネイプと向かい合っているシオリでさえもその瞬間を見逃した。
それほどにわずかな光だった。
だが、その後に告げられた言葉は聞き逃しようのない余りにも無慈悲なものだった。
「よほど余裕があるとお見受けした。アオツキ、夕食後に研究室へ来るように・・・罰則だ。」
「えっ?」
教室にいる全員が目を丸くして、顔を見合わせた。
シオリも耳を疑った。
罰則、彼はそう言ったのだろうか?
いまこの瞬間も苦しくてたまらないのに、あの部屋で彼に会わなければならないと?
そんなことをするくらいなら、グリフィンドールからもう五十点引いてくれてかまわない。
スネイプと二人きりで話さなければならないくらいなら、シオリは学校中から嫌われ続ける方がよっぽどましだった。
そんなシオリの声を代弁するように、ハーマイオニーが立ち上がった。
「先生、彼女は試験勉強の疲れがたまっていたんです。決して試験や授業を軽く見ているわけではなくて、つまり、その、試験前日に罰則というのはあまりにも・・・」
「発言は許可された時だけだといい加減覚えてはどうだ、グレンジャー。」
スネイプはハーマイオニーの方を見もせずぴしゃりと言い、いつの間にかやや煙たくなった教室を見渡した。
「なぜ手を止めている、フィネガン。諸君はあと十分でその鍋のなかのものをどうにかできるのかね?他の者を気にする暇などないはずだ。作業に戻りたまえ。」
固まるシオリを残して、黒いローブが大きく翻り、去った。
ハーマイオニーの哀れむ視線を受けながらシオリの手のひらがゆっくりと開く。
ずっともがいていた虫が、たった今白濁し始めた熱い鍋の中にシュッと音をたてて沈んだ。
「私、待ってるわ。一体何時になるのか分からないけれど・・・罰則が終わるまで待ってるわ。それから一緒に頑張りましょう。あなたならそれからでも間に合うわ、大丈夫よ。」
「うん・・・ありがとう・・・大丈夫・・・」
大丈夫という言葉には程遠いシオリの顔を、鍋から漏れる青白い光が照らしていた。
シオリは誰もいない地下で、一つの扉の前に立っていた。
夕食の味は分からなかった。
慰め怒ってくれたハリーたちの言葉もよく覚えていない。
ハーマイオニーに促されてなんとかここまでたどり着いたはいいが、扉を開けることができずにもうずっと立ち尽くしている。
しかし、試験まで十二時間を切ろうとしているいま、いつまでもこうしてはいられない。
シオリは胸を押さえて、長く息を吐いた。
(セブルスがなんで離れていったのかは分からないけど、あの人はもう私のことなんか気にしてない。つまり、私だってなにも気にする必要はない。さっきだって憎たらしいくらいいつも通りで・・・)
そうやって思い浮かべたスネイプの顔に、ずきりと痛みが走る。
目の前にあの部屋があるのだからなおさら、突然別れを告げられた夜のことを思い出さないわけがなかった。
シオリはもう一度深く息を吸って吐いた。
彼のことをすべて理解することはできない。
それと同じように、どうやっても引く気配のないこの痛みを彼に分かって欲しいとは思わない。
それに、切り捨てられた側にだって意地はある。
何があっても決して彼の前で涙は流さない。
シオリは覚悟を決め、固く握りしめた手で扉をノックした。
コンコン、とノックの音がした。
スネイプは羽ペンを持つ手を止めた。
扉の向こうに、シオリがいる。
スネイプは杖を振った。
ゆっくりと扉が開いて小さな姿が見えた。
いつかの穏やかな日々に見慣れていた寝間着ではなく制服をまとい、ベッドの下からではなく部屋の入り口からだが、シオリがあの夜以来、初めてこの部屋に足を踏み入れた。
「罰則を・・・受けに来ました。」
固い声が暗く狭い部屋に響いた。
所在無さげに入り口から動かないシオリは、かつてここで共に過ごした彼女とも、授業で見る彼女とも違っていた。
その姿に胃のあたりが強く締め付けられた。
スネイプはシオリを視界に入れないよう、出来の悪いレポートの束に視線を落とした。
「何を・・・したらいいですか?」
あんなに願っていたはずのその声は遠く、か細く、二人の間に広がる寒々とした距離を物語っていた。
もちろん元に戻れないことは分かっていたし、もし、そんな魔法のような都合の良い方法があったとしても戻るつもりはなかった。
汚れた手を濯ぐこともできず、過去にしがみついてただ死にゆくだけの人間。
そんな自分と一緒にいて、それが彼女にとってなんになる。
しかし、何度そう自分に言い聞かせても、夜になれば彼の身体はシオリの痕跡を無意識に探し求めた。
季節が一つ移り、外では日が差し花が咲き乱れても、彼はいまだに立ち止まったままだった。
この部屋で一人、吹き荒ぶ孤独に耐え、二度と訪れるはずのない温かな日を想っていた。
立ち止まり苦しみ続けること、それが彼に残されたシオリとの唯一の繋がりだった。
スネイプはシオリの顔を見ずにソファの方へと顎をやった。
一瞬の間の後に、シオリはソファへと真っ直ぐ歩いていって、そこに浅く腰かけた。
黒い瞳が怪訝そうにこちらを見ている。
スネイプは再びペンを取り、レポートの採点を続けながらゆっくりと口を開いた。
「顔色が悪い。」
「・・・?」
「眠れていないのか。」
「・・・試験前なので。それより、私は何をしたらいいんですか?」
スネイプは顔を上げなかった。
シオリが自分の意図を読めずに戸惑っていることは分かっていた。
そして、いまから聞くことに彼女が答える可能性は限りなく低いだろうことも分かっていた。
だが、彼は聞かずにいられなかった。
自分がこの報せを受けた日から、思い詰めた表情が増え、少しずつやつれていくシオリをそのままにしておくことができなかった。
「禁じられた森に入ったそうだな。」
「・・・・・・」
戸惑うばかりだったシオリがぴくりと肩を震わせ身構えた。
スネイプは手を止めることなく続けた。
「なぜだ。」
「・・・罰則だったからです。」
感情のない声だった。
羽ペンの動きが止まり、羊皮紙に黒いインクが滲む。
「どこまで知った上で森に入ったのかと聞いているのだ。」
冷静な響きを保とうとしても、声が徐々に大きくなっているのが自分でも分かった。
スネイプの目は羊皮紙の上にじわじわと流れ出る黒を見ていた。
「・・・言えません。」
「あの場所で何を見た。何があった?」
「言えません。」
羽ペンの先が小さく音をたてて割れた。
インクがこぼれ出て黒い染みが一気に広がった。
一瞬の静寂とともに部屋の空気が張り詰める。
振り払われ、行くあてを失くした手を机に突き、スネイプは立ち上がった。
「お前はまたあの男のもとへ・・・自らその身を差し出しに行ったのだな。」
シオリは動かなかった。
ソファまでのほんの数歩をやけにゆっくりと踏む足に、彼の身体がなんとかやっとのことで理性を保っているのだと気付いた。
しかしシオリは表情を変えず、高いところから自分を見下ろすその顔をただ見つめた。
「何度言えば分かる・・・お前のような小娘が闇の力に敵うわけがないと、たったそれだけを理解することがなぜできない!」
こんなはずではなかったのに。
彼女への想いをひた隠すほどに、心ない言葉が溢れ出て止まらない。
「お前の言う使命とはなんだ。その命をむざむざとやつに奪わせて、それが一体何を成すというのだ!」
聞いたことのないほど荒々しい声がシオリを責め続けた。
そう、まるであの夜のように。
しかしシオリは、スネイプの声が大きくなり、その瞳がぎらぎらと怒りに燃えるほど冷静になっていった。
「なぜお前は・・・!」
なぜ、自分をそんなにも軽んじるのか。
そう言いかけてスネイプは口をつぐんだ。
彼女から離れることを選んだ自分にそんな言葉を言う資格はない。
行き場を失った怒りを噛み殺すように歯を食い縛る。
二人の間に沈黙が落ちた。
やがて、シオリがゆっくりと立ち上がった。
「私だって・・・ちゃんと考えてる。あなたには幼稚に見えるかもしれないけど・・・私なりに、自分のこともハリーのことも考えてる。」
スネイプの胸ほどまでしかない小さな頭が彼を見上げている。
しかしその黒い瞳は真っ直ぐに、対等に彼を見ていた。
「だから、そんな風に怒鳴られたって言えないものは言えない。ダンブルドア先生に言われたんでしょ・・・森で何があったのか聞いてこいって。」
違う、という言葉をスネイプはまた飲み込んだ。
拳を握りしめ、ただシオリを見つめ返す。
「あの人には私から伝えておくから、言えることはありませんって。それでいいでしょ・・・罰則がないならもう行くね。」
シオリはスネイプに背を向け歩き出した。
スネイプは呆然と、再び空になったソファと向き合っていた。
小さな足音が扉の方へと遠ざかっていく。
一人行く先は大義ある希望か死地か、どちらにしろその音に迷いはなかった。
止めるための言葉など見つかるはずもない。
だが、止めねばならない。
彼女のためなのか、自分のためなのかは分からない。
だが、きっともう、これが最後だった。
重く黒いローブがはためき、
冷たい手がシオリの手をつかんだ。
「・・・離して。」
スネイプは動かなかった。
振りほどこうとシオリが身を引いた。
だが、手の力は弛むどころか強くなり、もう一方の手もつかまれて、その拍子にシオリの背が壁に突き当たった。
「・・・っ、」
シオリが痛みに顔をしかめた。
スネイプはシオリの余りの非力さに目を見開いた。
なぜ、彼女はこんな身体で、一人で戦わなければならないのか。
ダンブルドアは、この世界は、この小さな手に何を望んでいるというのか。
闇を打ち倒すために身を捧げるのは自分一人では足りないのか。
スネイプの作る影がシオリを覆い隠している。
闇の中、互いの呼吸の音だけが聞こえている。
力強い手が、何度もシオリを救った手が、いまは彼女を引き留めることしかできずにいる。
まるで世界に二人だけのような、そんな悲しく穏やかな時。
正しくはない、それは分かっている。
それでも、この静寂に縋らずにはいられなかった。
未来も過去もなく、いつまでも二人立ち止まって・・・
しかし、シオリの震える声がスネイプの目を覚まさせた。
「なんで、」
シオリは唇を噛み締めながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「セブルスは、なんでいつもそうやって・・・」
シオリは泣き叫びたいのを必死にこらえていた。
「自分勝手で、乱暴で・・・・・・私に優しくするの・・・?」
秘密と嘘を抱えていっぱいいっぱいの手を、無理矢理つかんで離さない冷たい手。
抱えているものを寄越せと言う乱暴な声。
泣かないと決めていたのに、シオリは自分の頬を伝うものを止められなかった。
「私のこと、本当は顔を見るのも嫌なんでしょ・・・なのに、なんで離してくれないの・・・なんで私を放っておいてくれないの。」
離れることを受け入れたのに、彼が苦しまないことを選んだのに。
なぜ自分はこんなにも胸が痛んで、なぜ彼はこんなにも悲痛な顔をしているのか。
シオリは一歩、スネイプへと歩みよった。
それと同時に、彼の手がびくりと震えた。
何かを思い出したようにその手は離れ、後ずさった。
だがシオリはその距離を踏み越え、スネイプの頬に手を伸ばした。
涙は流れていない。
けれど、そこにはっきりと見える彼の悲しみを拭ってあげたかった。
彼の側にいることはできなくても、彼の心に寄り添いたかった。
戸惑い、揺れる暗い瞳がシオリを見つめている。
「ねえ、セブルス。」
雪が降り積もり、暖炉だけがぱちぱちと音をたてていた・・・そんな夜と同じように自分の名を呼ぶ柔らかな声に、スネイプの胸がどくんと大きく鳴った。
「あなたは私にばかり何も話さないって責めるけど・・・あなただって、なんで私のことを遠ざけるのか理由を言ってくれないよね。一方的にあんな酷いこと言われて・・・私、今でも怒ってる。でも・・・」
大きな黒い瞳がそっと細まる。
「私は分かってる。セブルスがあんなことをしたのには何か理由があるってことだけは・・・」
「だから、お互い様ってこと。」
バタン、と扉の閉まる音がした。
スネイプの目はその後ろ姿を追うこともできなかった。
シオリの残した全てが彼のなかを巡り回っていた。
自分を包みこんだ小さな手のひらの温もり。
あの日のまま変わらずにこの名を呼んだ声。
悲しそうに微笑む顔。
微かに香った甘い香り。
手を伸ばしてはいけない。
赦されていいはずがない。
しかし、黒い瞳に見えた揺れる水面のような、淡くささやかな光がちらついて離れない。
スネイプは瞼を閉じた。
見るべきではないと。
しかし、瞼の裏、誰にも立ち入れない彼だけの闇の中でさえ、それはまだ焼き付き、輝いていた。
止まっていた時を揺り起こそうとする、温かな光が。