その日の朝、ハーマイオニーは目覚まし時計が鳴ったと同時に起き、アラームを止めた。
腫れぼったい目をこすりながらベッド脇の椅子に腰かけ、一晩かけて絡まったふさふさとした栗毛に少しずつブラシを通していく。
何度も何度も浅くときすかしてなんとか指が通るようになると、冷たい水で顔を洗った。
ようやくはっきりと開いた目で寝室を見渡す。
まだ日が差し込みだしたばかりで、深紅のカーテンが閉じられたベッドから小さな寝息だけが聞こえてくる。
ハーマイオニーは隣にあるシオリのベッドを見た。
夏休みに入ってしまえば四人での他愛もない会話とも、彼女の笑顔とも、しばらく離れることになる。
シオリがいなければ自分は今ごろもまだ一人で教科書にしがみついていただろう。
少し前なら考えられないことだが、最近はパーバティやラベンダーとも話すことが増えた。
以前はくだらないと切り捨てていた彼女たちの関心事、例えば雑誌の占いや新しく発売された色も形も甘ったるいお菓子。
そんな話題に柔らかく相づちをうつ自分に、ハーマイオニーは自身の考え方が変わっていっているのを感じていた。
ひとはひと、自分は自分・・・生き苦しさから逃れるために何度も唱えた言葉。
シオリの飾らない優しさに触れる中でその本当の意味を知った。
それは壁を隔てるということではなく、ありのままで、誰もが誰かの隣に立てるということなのだと。
図書館で借りている本を開き、シオリが起きてくるまでの間、静かな時間を過ごす。
今日は試験結果が返される以外に授業はない。
四人でどう過ごそうかと考えながらページをめくる。
最近、シオリの調子が良くなかったので寮でゆっくりと過ごすのもいいかもしれない。
寮にいたらフレッドとジョージがやってくるだろうから、彼女がまた倒れてしまわないように騒がしい二人を遠ざけなければ。
そんなことを考えているうちに外はすっかり明るくなり、昨日と同じ太陽が明るく輝いていた。
パーバティとラベンダーがのそりと起きてきて、自分と同じように、しかしじっくりと時間をかけて身支度を始めた。
シオリのベッドのカーテンは閉まったままだ。
ハーマイオニーも着替えて支度を終え、シオリが起きてくるまで再び本を読む。
少しして目が覚めたパーバティとラベンダーにおはようと挨拶を返し、ハーマイオニーはまた本に目を落とした。
しかし、いつもの時間を過ぎてもシオリが起きる様子はなかった。
ページをめくる手を止め、ハーマイオニーは一つだけ閉ざされたままの深紅のカーテンを見やった。
その向こうの気配に耳を澄ます。
何の音も聞こえない。
いつもと同じ平穏な朝に細く切れ目が入り、わずかな不安がハーマイオニーの顔に現れだした。
椅子を引いて立ち上がりシオリのベッドにゆっくりと歩み寄る。
カーテンに手をかけ、もう一度聞きなれた寝息を探してみるがやはり何も聞こえなかった。
「シオリ・・・?そろそろ起きる時間よ。」
はっきりとそう声を投げかけたが、布団やシーツがこすれる音はしない。
彼女が寝坊をしたのは入学翌日だけで、こんなことはなかったはずなのに。
後ろではパーバティとラベンダーがまた占いかなにかの話題を繰り返しながら、制服に着替え始めている。
「もう起きなきゃ・・・朝食を逃しちゃうわよ。」
そんな言葉で何か返ってくることはないと、頭のどこかで分かり始めていた。
試験の疲れでよく眠っているだけだ、カーテンを開けたら穏やかな寝顔があるはずだ。
そう思おうとするハーマイオニーの手には妙に力が入って、カーテンはすでに少し隙間を作っていた。
そこから盛り上がった白いシーツが見えている。
その白さと一枚向こうの静寂が重なる。
それだけでなぜこんなに胸が騒ぐのか。
ハーマイオニーは不安を振り払うように、さっとカーテンを開いた。
長い黒髪がゆるやかな波紋を描いて散らばっている。
天井を向いている見慣れたはずの顔に心臓が大きく跳ねた。
そこには、穏やかというには余りに白すぎる人形のような寝顔があった。
「シオリ、起きて。ねえ、」
少しやつれてしまった身体は真っ直ぐに伸び、細い指が胸の前で重なっている。
シオリはぴくりとも動かなかった。
ハーマイオニーは少しずつ胸が苦しくなって悲鳴をあげそうになるのをこらえながら、その寝顔に顔を寄せた。
小さな小さな呼吸の音が聞こえる。
あまりに微かなその音は、すでに恐怖にさらされている鼓動を更に速くさせた。
「シオリ、シオリ!!」
揺り起こそうとした身体がぐらぐらと力なく揺れる。
ハーマイオニーは確信に変わった恐怖を受け入れられず、肩を震わせながら首を横に振ってシオリを見つめていたが、すぐに我に返った。
そして、朝食をとろうと談話室へ降りて行く二つの背中に向かって叫んだ。
「パーバティ、ラベンダー!マクゴナガル先生を呼んできて!シオリが、様子がおかしいの。目を覚まさない!」
何事かと振り返った二人はシオリの白い顔とハーマイオニーの青ざめた顔に目を見開き、すぐに階段をかけ降りて行った。
「シオリ、・・・どうして、こんな・・・」
ハーマイオニーは冷たくなったシオリの手に触れた。
彼女の意識を、あるいは彼女のすべてをからめ捕ろうとしている何かから取り返そうとするようにその手を必死に握りしめた。
握り返されない手を包みこみながら、指先から自分まで冷えていく気がした。
窓から射し込む日が徐々に強くなっている。
厚いカーテンに囲まれた二人にその光は届かず、夢の底から覚めそこなったように薄暗いベッドでハーマイオニーはシオリの名前を呼び続けた。
しかし、シオリが目を覚ますことはなかった。
シオリはマクゴナガルによって医務室に運び込まれ、そのままになった。
ハリーとロンはシオリが運び出される時、談話室でその姿を一目見ることができたが、いつもの彼女とはあまりにもかけ離れた様子に名前を呼びかけることもできなかった。
二人は小さく震えたままのハーマイオニーをはさむように立ち、白い瞼を閉じて動かない友人を見送った。
鈍く細められた緑の瞳が、昨日と変わらず生徒で溢れている校庭を見やった。
その手は額を押さえていて、時折苛立たしげに髪をかき乱すということを繰り返している。
「額の傷がいつもよりずっと疼く・・・こんなの初めてだよ。何かおかしい。シオリは倒れてしまうし、どうなってるんだ。」
三人は何をするでもなく、廊下の石壁にもたれ並んでいた。
午後になってもマクゴナガルからはなんの説明も、面会もなく、三人がシオリの様子を知ることは叶わなかった。
三人には、胸の中の不安をぽつりぽつりと口にこぼして吐き出すことしかできなかった。
「シオリ、前に倒れた時もあんなだったのかな。あの顔色・・・あれじゃまるで・・・」
ロンの言葉を遮るようにハーマイオニーは首を振った。
「すぐに先生が来てくださったし、きっと良くなるわ。シオリに何が起きたのかは分からないけど、でも、きっと・・・」
そう言いながら弱くなっていく声。
こんなにも眩しい陽気の中、いつまでもかじかんだようにキンとしたままの手を組んではほどいてため息をつく。
また嫌な沈黙が落ち、三人は顔も見合わせず何もない石の床を見つめた。
ハーマイオニーとロンは倒れた友人のことを思っていたが、ハリーだけは違った。
何か危険が迫っている。
ハリーにはそれがはっきりと分かるのに、その正体が見えないことがもどかしかった。
突然ずきずきと痛み出した額の傷と、倒れたシオリの姿がどうしても重なる。
けれどあと少し、見つからないピースを探すようにもう一度校庭を見回した。
生徒たちの笑い声が響く良く晴れた空の下、蔦が絡んで煤けた小屋が見えた。
ハグリッドがひじかけ椅子を外に出して服の袖をまくり、かごいっぱいの野菜の泥をこすり落としている。
突然、ハリーが廊下を飛び出した。
「ハリー!どこに行くんだ?」
ロンとハーマイオニーもハリーを追って日の下に駆け出した。
「どうして気付かなかったんだろう。今すぐハグリッドに会いに行かなきゃ。」
「ハグリッドに?どうして?」
「おかしいと思わないか?」
草の繁った斜面を急ぎながらハリーが言った。
「ドラゴンが欲しくてたまらなかったハグリッドの前に、たまたまドラゴンの卵なんて滅多に手に入らないものを持った人が現れるなんて。」
「どういうこと、何が言いたいの?」
しかしハリーは答える時間も惜しいというように、ハグリッドの元へと走った。
三人に気付いたハグリッドがにっこりとして立ち上がった。
「おう、試験が終わったんだったな。茶でも飲んでくか?」
ありがとう、と言いかけたロンを押さえて、ハリーは息を切らしたまま割り込んだ。
「ううん、僕たち急いでるんだ。ハグリッド、聞きたいことがあるんだけど、ノーバートをくれた人がどんな人だったか覚えてる?」
ハグリッドは不思議そうに眉をちょっと上げて、首を横に振った。
「いんや、顔は見とらん。マントを深くかぶっとった。あの店じゃ珍しいことでもない。ホッグズヘッドにはおかしなやつがうようよしてるからな。」
ハリーの胸が、どくどくとうるさく鳴る。
「その人となんの話をした?ホグワーツのことを聞かれたりした?」
「そうだな・・・俺が森番の仕事をしてると聞いて、あいつは俺がどんな生き物を飼ってるのか興味を持っとった。ドラゴンの卵をくれてやってもいいが、ちゃんと育てられるのかとおどかしてくるもんだから言ってやった、フラッフィーに比べたらドラゴンなんか楽なもんだって。」
ロンとハーマイオニーの顔が段々と青くなる。
ハリーはかごの側にへたりこみそうになるのをこらえながら大事なことをもう一つだけ尋ねた。
「その人、フラッフィーのことを聞いてこなかった?例えば、どうやって世話をしてるのかとか。」
「そりゃ聞いてきたさ。あれだけ大きくて頭が三つもある生き物はそういないからな。世話するにも危ないだろうと言うから、なだめ方さえ知ってれば簡単だと言った。フラッフィーはちょいと音楽を聞かせてやればすぐねんねしちまうんだってな・・・おっと、いかん・・・」
ハグリッドは慌てて、しまったという顔をして口を閉じたが三人はもう元来た方へと走り出していた。
玄関ホールに着くまでの間、誰も口をきかなかった。
とにかくはやく城に戻ってやるべきことをやらなければ・・・手遅れになる前に。
三人は騒がしい校庭を後にして城へ駆け込んだ。
外に比べると中は随分ひんやりとしていた。
ハリーはこれから起こることを予感してか、背筋が震えるのを感じながら暗い廊下を真っ直ぐに走っていった。
もう初夏だというのに、一人だけ取り残されたように重いローブを翻し、スネイプは城の中を見回っていた。
授業がほとんどないせいで、ホグワーツには緩んだ空気が流れている。
試験を終え、日当たりのよい廊下や校庭で思い思いに過ごす生徒たち。
これから来る夏休みの予定を話し合う声の中を、真っ黒な影が足早に抜けていく。
ダンブルドアの急な不在のせいで彼の不機嫌な顔はさらに険しくなっていた。
生徒たちは大股に廊下を歩くスネイプを見つけると、そそくさと端によって目を合わせないようにした。
浮かれた生徒たちの小さな校則違反以外は何事もなく見回りが進む。
城全体を包むざわめきに顔をしかめながら、スネイプはふと廊下の外に目をやった。
鬱陶しいくらいに澄みわたった青空が広がっている。
全てを照らそうとする日が目に痛い。
元から自室にこもりがちではあるが、今は試験の採点や夏休みに向けた課題の調整・・・そして、目の前でこぼれ落ちたシオリの涙が彼を暗い地下に留めていた。
離れることを決めた夜に見たのとは違う、静かにはらはらと流れ落ちる涙。
自分を見つめる黒い瞳の変わらぬ輝き。
それらが意味するものをスネイプは考えないようにしていたが、今までのようにただ目をそらすことはできなかった。
瞼の裏にまで刻まれてしまった淡い光が、彼の中で静かに灯り続けていた。
穏やかで、温かくて、決して消えてくれない光。
それは彼の身を焼くほどの熱は持っていない。
それでも耐えず襲われる息苦しさにスネイプは胸をかいた。
日を避けて生きてきたのに、照らされてしまった彼の影が一人きりの地下室でいっそう濃く浮かび上がる。
以前にも増して深まった孤独が、彼女に何かを期待してしまっているせいだと認めるわけにはいかなかった。
すれ違う生徒の群れの中に長い黒髪が見えた。
迷いなく進んでいた足が止まりそうになる。
しかしちらりと見えた顔も、よく見れば背丈も、何もかもが彼女とは違った。
スネイプは短く息を吐いてまた音もなく歩き続けた。
シオリを無意識に探していた自分を嫌悪し、拳を握る。
この汚れた手がまだ彼女に届くかもしれないと、そう思っているとでもいうのだろうか。
希望とすら言えない馬鹿げた未練を振りきるように歩みが速くなる。
しかし離れなければと意識するほど、彼の頭は彼女に支配されていった。
シオリを思い出す度によみがえる、色褪せることのない彼女と過ごした時間。
いまや悪夢となったそれは夜毎、彼の胸に痛みと温もりを連れてくる。
果てのない暗闇の中で自分にそっと寄り添うその二つをスネイプは振り払うことができなかった。
繰り返される耐え難い苦しみこそが、受け入れるべき罰となって彼を生かす。
それが彼の全てだった。
愛のためならば危険を省みない彼の行動は魔法界を救うことになる。
それは後に英雄と呼ばれるにふさわしいものだったが、実際は違った。
誰にも奪われないよう罪と罰を必死に抱える姿は贖罪というには程遠く、赦されたいという感情もない。
スネイプは与えられる苦しみを受け入れ、ただ時が過ぎるのを眺めていただけだった。
彼にとっては危険も恐怖も、本当のところでは落ちていく砂時計のたった一粒と変わりなかった。
その手にある淀んだ重みだけが彼の生を支えている。
シオリという光もその一つとなり、これからも彼は一人、終わりを待つ。
そのはずだった。
この広い城の中、どこにいるかも分からないシオリを想い、もがきながら、スネイプは歩き続ける。
彼女が無事であればそれでいい。
その背中が遠くなるのをここで見つめていればいい。
彼はその手にまた苦しみを握り直し、どこにも繋がらない、どこにも行けないと分かっている道を進み続けた。
無機質な程、淡々とした足音が無数の話し声に紛れて消える。
あんなに晴れ渡っていた空に少しずつ流れ出した雲が光を遮り、城に影が落ち始める。
スネイプが進む道の反対側を、先を急ぐ三つの影が走り抜けていった。