シオリはあの森の中に立っていた。
風が吹く冷たい音、ざわざわと木の揺れる音。
目の前には変わらず固く閉じたままの蕾がある。
いつ咲くのだろうとぼんやりと眺めていると何か聞こえた。
「ねえ、ねえったら。」
女の子だ。
この真っ暗な世界に似合わない可愛らしい声がどこからか聞こえる。
蕾をまじまじと見たが、たまに風に揺れるだけで話す様子はない。
シオリは声のもとを探そうとは思わず、まだ蕾を見ていた。
また女の子がしゃべった。
今度はせっぱ詰まった声だ。
「ちょっと、ねえ、遅刻するわよ!」
何に遅刻するというのか?
まあいいか、と穏やかな気持ちで蕾を眺め続けていると誰かに肩を揺さぶられた。
驚いて振り返ると、突然辺りに光が差して森の景色が消えていく。
シオリは温かい布団のなかでゆっくりと目を開けた。
「・・・ハーマイオニー・・・?」
「もう!早く起きて、初日なのに私まで遅刻しちゃうわ!」
「え?あ、ああ、急がなきゃ!」
そうだ、昨日組分けが終わってグリフィンドール寮で眠りについたのだった。
時計は朝食の時間を指していた。
部屋を見渡すとちょうど階段を降りていくパーバティとラベンダーの背中が見えた。
二人が行ってしまうまでの間も、ハーマイオニーはほとんど怒ってるような声でまくしたてた。
「もう、あなたったら何度声をかけてもちっとも起きないんだもの。私、もっと早くから起こそうとしたのよ。途中で準備できたから私だけ行こうと思ったけど、余りにも起きる様子がないから気になって・・・」
「ごめんね、ありがとう!すぐ準備するから一緒に行こう!」
「一緒に?ええ・・・早くしてね。」
ハーマイオニーは一緒にのところで驚いた顔をしたが、声色はずいぶん穏やかになった。
シオリは洗面台の冷たい水で顔を洗って、タオルで拭きながら制服と鞄をロッカーから引っ張り出した。
着ているものを片っ端から脱いで裸になる。
「ちょっと!もう少し控えめに着替えたら?」
「だって・・・ふんっ、ぐ、時間・・・ないし・・・準備・・・できた!行こう!」
シオリは教科書の詰まった鞄を引っつかんで、ハーマイオニーの手もつかんで階段をかけ降りた。
「起こしてくれてありがとう!危ないところだった。」
「これなら間に合うわ。そんなに急がなくても大丈夫よ。私、ハーマイオニー・グレンジャー。あなたシオリ・アオツキね。」
「うん、よろしくハーマイオニー。良かったらシオリって呼んで。」
「・・・ええ。よろしく。」
ハーマイオニーは恥ずかしそうに顔をそらして、シオリの手をぱっと離した。
しかし先に行ってしまうことはなく、二人はホグワーツでの初めての朝食をゆっくりと味わった。
この日から二人は一緒にいるようになった。
どの授業でもハーマイオニーは予習してきた内容をシオリやネビル(ほんの数日でこの二人しかハーマイオニーの話を聞かなくなった)に丁寧に説明して、授業が終わるとどんなに素晴らしい授業内容でどれほど心が踊ったかという感想を話してくれた。
ネビルは理解できなくても首振り人形のようにとにかく頷いてる様子だった。
シオリはシオリでハーマイオニーが何を話していても黙って微笑んでいたので、反応がほぼないという点では似たり寄ったりだったがハーマイオニーは満足そうだった。
シオリは三つも年下のハーマイオニーが素直に何でも口に出してしまうところを愛らしく思った。
実際、シオリにとっても魔法の授業はどれもとても楽しく、未だに自分が杖を振っていることが奇跡に思えて感動の連続だったので、ほとんどハーマイオニーと同じ気持ちだったのだ。
予習しただけあって、授業内容も概ね理解できたし魔法もうまく使えた。
ただ、入学前に練習して使えることが分かっている呪文はあえて失敗してみせてあまり目立たないように気を付けた。
この世界での役割が分からない以上、シオリはごく一般的な生徒を演じるつもりだった。
シオリはとても楽しいこの一週間の中で闇の魔術に対する防衛術の授業だけが気がかりだったが、とんだ拍子抜けだった。
クラスメイト達が言うように授業の中身もさることながら、クィレルはその無能で無害な役に集中していてシオリに何の関心も行動も示さなかったのだ。
一体これからどうなるのかクィレルのことで一番気を揉んでいたシオリはほっと胸をなで下ろした。
こうして二人は最初の数日を穏やかに過ごしていた。
「次はついに魔法薬ね。魔法薬は練習ができないから早く授業をうけたくてたまらなかったわ。教科書を読んだ?あんなに様々な効果のある薬を作れるなんて、マグルの世界じゃどれもノーベル賞ものよ。」
シオリとハーマイオニーはネビルの隣に座った。
ネビルは授業のために持ってきた鍋を早速床に転がしてしまい、ばたばたと忙しそうだ。
シオリも入学前に全ての教科書を読んでいたが、ハーマイオニーのように魔法薬に特別魅力を感じることはなかった。
気になる薬があっても、材料を手に入れて何日もかけて一人で調合しきるのは現実的ではない。
つまり、この世界での自分の役割を考えた時に実用的な教科ではないと思ったのだ。
しかしやはりシオリは微笑んだ。
「少し読んだよ。本当にその通りだね。」
「あら、あなたノーベル賞がわかるの?マグル出身だったなんて知らなかった。」
「あー・・・うん。そんなとこ。」
シオリは出身の設定をきちんと考えていなかったなと、適当にごまかした。
その時、地下教室の扉が開いて真っ黒な衣に身を包んだスネイプが現れた。
彼の噂を知ってか知らずか、誰ともなく話し声が止み教室はしんと静まり返った。
スネイプが出席をとった。
低く、つぶやくような声なのに不思議と誰も聞き漏らすことなく返事をした。
スネイプにもマクゴナガルのように何もせずとも生徒を集中させる力があるようだ。
スネイプはハリーの名前まできた時、表情を変えずに、けれどもとびきり意地の悪い声でこう言った。
「ああ、左様。ハリー・ポッター。われらが新しい・・・スターだ。」
(そうだ、この授業は・・・)
シオリはホグワーツでの生活に慣れるのに忙しくてこの嫌なイベントがあるのをすっかり忘れていた。
久しぶりに見るスネイプはシオリの知っている彼とはまるで違っていた。
黒い瞳は冷たく、うつろで、暗いトンネルのようだ。
魔法薬の授業についての大演説を聞きながらシオリは深呼吸して気持ちを落ち着かせた。
「ポッター!」
突然名前を呼ばれてハリーが飛び上がるのが見えた。
思わずネビルも身を縮こまらせている。
「アスフォルデの球根の粉末にニガヨモギを煎じたものを加えると何になるか?」
なぜ自分が当てられているのか、何を聞かれているのか分からずハリーがうろたえる。
シオリの隣ではハーマイオニーが高々と手を上げた。
シオリは何も考えないよう、感じないようじっとしていた。
「分かりません。」
「ふむ・・・有名なだけではどうにもならんらしい。」
その後もロンが助け舟を出せるはずもなく、ハリーはスネイプの理不尽ないじめとも呼べる質問の連続に、完全にお手上げだった。
シオリがちらりと見たハリーの横顔は平静を装っていはいるが、皆の前で無知だと罵られスリザリンに笑い者にされて、なぜ、どうしてと助けを求めているようだった。
そのハリーの様子に自然と手に力が入る。
シオリは気付かないうちにスカートの裾を目一杯握りしめていた。
「ハーマイオニーが分かっていると思いますから、彼女に質問してみたらどうでしょう?」
ハリーがどうにか反撃すると生徒が数人笑い声を上げた。
スネイプは不快そうにハーマイオニーに座るよう言った。
ハーマイオニーは先生に怒られて酷く傷ついたようだった。それもそうだ。
彼女は予習をすませた正しい生徒で、これが"スネイプの"質問でなければ正しい答えを言えたのだ。
「ポッター、君の無礼な態度でグリフィンドールは一点減点。」
めちゃくちゃだ。
しかしシオリはじっとこらえた。
その後も魔法薬の授業中、スネイプはほとんど全ての生徒に理不尽な注意を言い渡した。
シオリは何も言われなかった。
怒りのあまりスネイプを見ないようにしていたので目の前を通りすぎたことにも気付かなかった。
どんな注意でも、どんな嫌らしい陰険な言い方でも、この人物に逆らってはいけないと全員が理解していたので言い返す者はいなかった。
そのためハリーのことはあったものの授業が順調に進む中、突然教室いっぱいに強烈な緑色の煙が上がり、シューシューという大きな音が広がった。
シオリは隣のネビルが大鍋を溶かしてしまい、中にあった薬をぐっしょりとかぶってしまうのを目撃した。
薬を浴びたところから恐ろしい勢いでおできが噴き出して、ネビルの全身を覆おうとしている。
「馬鹿者!おおかた、大鍋を火から降ろさないうちに山嵐の針を入れたんだな?」
シオリは薬に触れないように椅子の上に避難し、スネイプが目の前でネビルを怒鳴るのを見ないようにした。
「ポッター、針を入れてはいけないとなぜ言わなかった?彼が間違えば自分の方がよく見えると考えたな?グリフィンドールはもう一点減点。」
あまりに理不尽なのでハリーが言い返そうとした時、先にシオリが口を開いた。
「スネイプ先生、私もネビルの隣にいたのに彼の間違いに気付けませんでした。なのになぜハリーだけを罰するのですか?」
シオリが真っ黒なローブを翻して歩きだそうとしていた背中にそう投げかけると、スネイプはぴたっと立ち止まった。
突然の無謀な異議に、教室の全ての目がシオリに集まる。
ハーマイオニーも訳がわからないという顔でただシオリを見つめている。
「・・・よかろう。教師への不遜な態度でミス・アオツキに罰則を言い渡す。内容は後だ。ロングボトムを医務室へ連れていく。夕食後に我輩の部屋へ来たまえ。」
スネイプは各自薬を瓶につめて提出するよう言うと、シオリを振り返ることなくネビルを引きずるようにして大股で地下教室を出ていった。
扉の閉まる音と同時にロンとハーマイオニーが立ち上がった。
「おっどろいた。君どういうつもり?あのスネイプに自分から罰則をもらいに行くなんて!」
「そうよ。あんなの減点してくれって言ってるようなものだわ。減点されなかったのは運が良かったけど罰則だってどんなものだかわからないのに・・・どうしてあんなことしたの?」
「黙ってた方がよかったのは分かってるけど、おかしいと思っちゃったから口が勝手に動いたんだよ。私が正しいんだから別にいいの。寮の得点より大事なことだからね。」
シオリが二人の目も見ずに言った。
物語に思わず口を出してしまったことを激しく後悔していたし、口を出したことですっきりするどころか、むしろ怒りが形になって収まらなくなったのをこらえようとしているからだった。
その様子がどう映ったのか、ハーマイオニーはそれ以上何も言わなかった。
「君って・・・変わってるよ。」
ロンは理解できないと肩をすくめたが、その声はどこか嬉しそうだ。
何もなかったかのようにもう鍋を片付け始めているシオリにハリーがおずおずと近付いた。
「あの、ごめん。君まで巻き込んで・・・」
「違う。私はしたいことをしただけだから気にしないで。ハーマイオニー、罰則あるし夕食早くすませたいから先に行くね。」
シオリはほとんどハリーに被せるように早口で返事をすると、さっさと教科書を鞄にしまって教室を出ていった。
一人で短く夕食をとった後、シオリは足取りが重いということもなくスネイプの私室に向かっていた。
むしろ道すがらまた怒りがわいてきて足が速くなる。
少し前まで毎日見ていた扉をノックした。
すると勝手に扉が開いて、スネイプが座って何かを書いている姿が見えた。
机の上では書類が小さな山になっている。
「失礼します。」
シオリが部屋に入ると、スネイプが杖を振って扉が閉まった。
そのまま、また書類に目を落としこちらを向く様子はない。
ただでさえ薄暗い部屋の中に何の物音もせず息苦しい。
他の生徒ならここで尻込みして何も言えないところだが、シオリはかまわずはっきりと声をかけた。
「罰則を受けに来ました。」
スネイプがゆっくりと立ち上がり、黙ってシオリの前まで来た。
何か言いたげに見下ろしてくる暗い瞳を無視してシオリは真っ直ぐ前を見た。
視線が交わされることのないまま、少ししてスネイプがもう一つの広い机の方へ行き何か白いものをつまみ上げた。
「ドクツルヘビの牙を全て粉末にしろ。どんな小さな欠片もないよう、全て、粉末にするのだ。」
机にはドクツルヘビの牙が量りの皿いっぱいに置かれていた。
シオリはさっさと椅子に座って用意されているナイフを手に取った。
「わかったのかね?返事がないが。」
「・・・わかりました。」
スネイプを見ずに低く答えると、スネイプはもといた机に戻っていった。
そこからシオリは無心でドクツルヘビの牙を刻み続けた。
無心と言うにはあまりに荒々しく口元はきつく閉じすぎてひん曲がっていたが、とにかく作業をこなし一言も発しなかった。
この牙と言ったら硬くはないがすぐにころころと転がっていくし刻むのにそれなりに力が必要で、シオリは途中からスネイプと牙のどちらに腹が立っているのかわからなくなってきた。
二人ともが沈黙して息詰まる部屋に牙の砕ける音だけが延々と響く。
どちらもちらりとも互いを見なかったし、沈黙を続けることで互いを責め合っているようだった。
あと少しで全てが粉になるというところで、シオリがやっと声を出した。
「いっ、た・・・」
だんまりで書類を片付けていたスネイプが立ち上がり、椅子がガタンと音を立てた。
やや大きな歩幅でシオリのもとへ行くと机に赤い点が散っていた。
「・・・指を切ったのか。ナイフを乱雑に扱うからだ。」
シオリは顔を上げず、まるでスネイプがそこにいないかのようにまた口を閉じてナイフを持った。
「傷薬がある。作業を止めて・・・」
「結構です。」
シオリが初めてスネイプの顔を見た。
黒い瞳は水に濡れているような、炎が燃えているような、不思議な揺らぎ方をしている。
反対に眉は真っ直ぐにのびていて、感情が読めない。
スネイプは目をそらせずに、しかしどうしたらいいか分からずただシオリを見つめ返した。
やがてシオリは何事もなかったかのように机に目を落とし、ドクツルヘビの牙を刻もうとした。
スネイプはとっさに傷ついている方の手をつかんだ。
「止めたまえ。先に薬を・・・」
「結構です。」
シオリはつかまれた手を振り払うと、懐から杖を出した。
呪文をとなえると血の流れが止まった。
傷は痛々しく割けたままだが作業に支障はない。
しかしシオリは指の傷ではなく、胸の内側が割けてしまったように痛んでまた口をきつく閉じた。
(分かってる。私のわがままなんだ。セブルスにこんな風にありのまま、いい人でいてほしいなんて・・・)
本の中にはない本当のスネイプを知ったことで、シオリは物語での本来の彼の性質を受け入れるのが難しくなってしまった。
冷酷で理不尽、積もり積もった思いのせいでハリーを一人の人間として認めることができないスネイプ。
そうでなければならないと分かっているのに、優しくされるとハリーへの酷い態度が思い出されてスネイプに苛立ち、それを隠すことができない。
これではただの八つ当たりだ。
(人としての優しさを持っているところも、ハリーを憎んで酷いことをするところも全てセブルスの一部だ。私が分からなきゃいけないのはそこなんだ。)
ちょうど全ての牙が粉になったところでシオリの胸の中も片がついた。
(だからって今日見たことを全部なしにして今までみたいに接することはできない。私は・・・セブルスと一緒にはいれない。)
シオリは立ち上がってスネイプの顔を見れずに扉へ向かった。
片がついたはずの胸の中はまだひりひりとしている。
「失礼します。」
扉がゆっくりと閉じて、スネイプは暗い地下室でまた一人になった。
シオリが魔法を使ったからだろう。甘い残り香が鼻をかすめる。
スネイプはしばらくただじっと立っていたが、やがてまた書類の山へと戻っていった。