春。
桜が満開。
風が吹くたび、花びらが雨みたいに降ってくる。
僕、〇〇、18歳。
今日から大学生。
高校を卒業して、あっという間の春。
健太はスポーツ大学へ、彩花は美術系の女子大へ進学。
みんな別々の道を歩き始めた。
……はずだった。
本当なら、今日くらい落ち着いて式に出たかった。
なのに――僕の平穏は、式が始まる前から崩壊していた。
原因は、100%、母さん。
駅から続く桜並木。
スーツ姿の新入生と家族たちが行き交う中、
人の波がふと途切れた。
「〇〇くーん、こっちこっち〜!」
春風に乗って、澄んだ声が響く。
その声の主――母さんだった。
白いワンピースに、淡いピンクのストール。
髪はゆるく結ばれ、陽光を受けて柔らかく光っている。
歩くだけで、周囲の空気が静まっていく。
通りすがりの学生たちが振り向き、
「……誰?」
「モデル? 女優?」
父兄までもがスマホを取り出してざわついた。
母さんはそんな注目にまるで気づかず、
「桜、すごく綺麗ね〜!」と笑う。
その笑顔は、まぶしくて、やさしくて、無防備すぎる。
僕はため息をついた。
「……母さん、頼むから目立たないでくれ……」
大学の講堂は、1,000人近い人で満席。
静かなクラシックが流れ、司会者の声が響く。
「それでは、学長挨拶をお願いいたします」
壇上に立つのは、大学の象徴・黒川学長。
七十代後半、知的で品格のある人物……のはずだった。
「えー、諸君、本日は──」
そのとき。
「ピコン♪」
澄んだ音が講堂に響いた。
……母さんのスマホ。
「あっ、ごめんなさい〜!」
母さんが慌てて操作する。
しかし、なぜか音が止まらず「ピコン♪ピコン♪」連打。
講堂がざわつき始めた。
黒川学長の声が、一瞬止まる。
不愉快そうな怒りの視線を講堂後方に向け――凍りついた。
その目に映ったのは、
柔らかな光に包まれた母さん。
静まり返った会場で、
学長の声がわずかに震えた。
「え、えー……あ、あの……」
会場、ざわめき。
壇上の隣にいた文学部長が心配そうに小声で囁く。
「……学長、どうされました?」
学長は、まるで幻を見たように目を細め、呟いた。
「……あの人は……まさか……」
え、なに!? まさかってなに!?
教授席の列でもざわつきが起きていた。
経済学部の古賀教授が眼鏡を上げながら言う。
「先生……あの女性、どなたです?」
隣の法学部教授が顔を赤らめて答える。
「し、知らん……が、まるで天女のようだ……」
心理学科の若手講師は完全に呆然。
「なんか……講堂の空気、変わりましたね……」
学長が原稿を落とした。
「え、えー……新入生の諸君っ!」
声が上ずる。
「学問とは……その、えー……心の……美しさ、えー……」
何言ってるのか、もう誰にもわからない。
壇上の照明が学長を照らし、
その下で彼は、ただ一点、後方の母さんを見ていた。
僕は頭を抱えた。
「うわぁ……母さん、今、学長を壊した……」
式が終わると、
講堂の外では教授たちがざわざわしていた。
「黒川学長、挨拶途中で噛みましたね」
「いや、あれは“動揺”だ」
「まさか、女性関係……?」
人文学部の佐伯教授がぼそっと言う。
「……昔、黒川先生が研究していた“幻視体験のモデル”に似た人がいる、と言ってたな」
やめてくれ、意味深な伏線みたいにするの。
僕は人混みを抜けながらため息をついた。
「もう、初日からカオスすぎる……」
だが、母さんは全く気づいていない。
「〇〇くん、学長さん、優しそうな方だったねぇ!」
「いや、優しいというか……多分今、魂抜けてると思う」
「え? どういうこと?」
「いや、いい、何でもない」
キャンパスを出ると、
桜の花びらが母さんの髪に舞い落ちた。
「〇〇くん、大学っていいねぇ。
いろんな人がいて、夢がある感じ!」
母さんの声は、春の風みたいに柔らかかった。
その笑顔を見た瞬間、
式典の混乱も、全部どうでもよくなった。
――と、そこへ。
「おーい! 〇〇ーーー!!」
聞き慣れた声。
坂の上から健太と彩花が走ってくる。
二人ともスーツ姿。
「お、お前ら!?」
「へへっ、実はギリギリで志望校変えた!」
「そう! 偶然、同じ大学に受かってたの!」
母さんが嬉しそうに笑う。
「まぁ! なんて素敵な偶然!」
健太がウィンクして言う。
「偶然じゃねぇよ、運命だ!」
彩花が続ける。
「また三人で頑張ろうね!」
僕は笑って頷いた。
「……うん。頼むから、母さんのことはもう話題にしないでくれ」
健太:「無理だな。あの美人、もう大学中の伝説だぞ」
彩花:「“入学式で学長を黙らせた母”ってSNSでバズってるよ」
僕:「やめてくれぇぇぇぇ!」
春風が吹き抜けた。
桜が舞い、笑い声が響いた。
――新しい物語の幕が、再び上がった。