新 お母さん無自覚美人過ぎです 大学生編   作:松田義和

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ゼロ

 

翌日。

 

地下の練習場は、まるで別世界のようだった。

鉄と汗の匂い、床を叩くシューズの音。

リングのロープが、緊張のリズムで小さく揺れている。

 

「ここが……ボクシング部」

健太が息を呑む。

彩花も目を丸くして、「なんか、映画みたい……」とつぶやいた。

 

部長が僕たちを案内しながら笑った。

「本気のやつしか残らない場所だ。見ての通り、ここの連中は拳で語る」

 

その言葉を裏付けるように、

サンドバッグを叩く音が鋭く響く。

バスッ、バスッ――一発ごとに、空気が重くなる。

 

僕はその光景を見て、

心のどこかがざわついた。

恐怖でも緊張でもない。

 

その時。

 

ギィィ……と重たい音が響いた。

 

全員の動きが止まる。

空気が、張り詰めた糸みたいに静まる。

 

ドアの向こうから、ゆっくりと一人の男が歩いてきた。

黒いトレーニングウェア、光を反射する銀色の髪。

無駄のない姿勢。

まるで“風の中を歩く刃”みたいだった。

 

「主将が戻りました」

その一言で、部員たちが一斉に頭を下げた。

 

部長が振り返り、声を張る。

「おい、新入生、よく見ておけ。

 この人が――俺たちの主将、剣崎零(けんざき・れい)さんだ」

 

その名が響いた瞬間、

地下室の空気が一段階、重くなった気がした。

 

部長は続ける。

「通称“ゼロ”。倒せる者はゼロ、ゼロを超える者もゼロしかいない。そう呼ばれる

 ――日本最強のボクサーだ」

 

静寂。

 

誰も動けなかった。

その圧に、言葉すら出ない。

 

 

僕は無意識に息を呑んだ。

隣で健太がつぶやく。

「……〇〇、間違いねぇ。

 あの人だ。

 俺たちを助けてくれた、“銀の狼”だ」

 

彩花も目を見開いていた。

「ほんとに……あの人……」

 

僕は、剣崎を見つめたまま、

小さく頷いた。

 

あの日、助けてもらった時の背中。

今、こうして同じ場所にいることになるなんて。

 

まるで――運命に導かれたみたいに。

 

 

「ゼロ……?」

彩花が小さくつぶやいた。

 

「うん?」と健太が顔を向ける。

 

彩花は目を輝かせて言った。

「だから“銀の狼”なんだ!」

 

「は? どういう意味だよ?」

 

「“銀牙騎士”だよ。知らないの?

 銀色の鎧をまとって、誰にも負けない騎士。

 ゼロを名乗る者――“孤高の狼”の象徴なんだよ」

 

健太はポカンと口を開けたまま。

僕は息を呑んだ。

まさにその通りだと思った。

 

あの夜、僕らを救ったあの姿。

闇の中に光る銀の髪、迷いのない一撃。

――まるで“狼”だった。

 

そして今、その本人が目の前にいる。

 

 

剣崎はリングに上がり、静かに言った。

「新入生か」

 

低い声。

それだけで周囲の空気が震える。

 

部長が僕たちを示す。

「はい。今日から正式に入部する三人です」

 

剣崎の視線が、僕たちを一人ずつなぞるように動いた。

その眼差しに射抜かれるたび、息が止まりそうになる。

 

そして、短く言った。

 

「――見せてもらおう。お前たちの拳を。」

 

リングライトがきらめき、

銀の髪がわずかに揺れた。

 

その姿はまるで、

神話から抜け出した“銀の狼”そのものだった。

 

 

 

部長が手を叩いた。

「じゃあまずは準備運動からいこうか。

 新入生はロープ10分、シャドー2ラウンド。

 それから軽くミットを打ってみよう。」

 

健太が気合を入れるように声を上げる。

「よっしゃ! 任せろ!」

……けど、ロープ跳び1分で足がもつれる。

 

「健太、ペース落とせ!」

僕が言うと、彩花が笑っていた。

「男子、早くもガス欠だね。」

 

僕も全然笑えなかった。

息が上がってる。

シャドーを始めても、足のリズムがとれない。

鏡に映る自分の構えが、まるで素人。

 

そんな僕らを、リングの上の剣崎が黙って見ていた。

腕を組み、まったく表情を変えない。

 

 

「じゃあ順番にいこう。」

部長が声をかける。

 

最初は健太。

ミットを構える先輩に向かって、拳を放つ。

 

パン、ポコ、ポコ。

 

……軽い音。

 

先輩が苦笑する。

「肩で打ってるな。腰が死んでる。」

 

健太が悔しそうに唇を噛む。

「うるせぇ、見てろ! 次は――」

力を込めて振り抜いた拳は、空を切った。

「……はい、終わり。」

 

次は僕。

 

ミットを前に立つ。

心臓がバクバク。

一発、二発、三発――。

 

ドス、ドス、と鈍い音。

悪くないと思った。

 

けど、リング上の剣崎が小さく首を振る。

 

「……遅い。考えすぎだ。」

 

僕は一瞬、息が止まった。

視線が鋭く突き刺さる。

“感じろ”とでも言うように。

 

 

「じゃ、最後は君だね。」

部長がミットを構える。

 

彩花は軽く深呼吸して、前に出た。

姿勢がすっと伸びる。

さっきまでのおっとりした雰囲気とはまるで違う。

 

足の位置、肩の角度、拳の握り――

全部が自然に整っている。

 

部員たちがざわめいた。

 

「構え、綺麗だな……」

「フォームが無駄ねぇ……」

 

彩花が、静かに口を開いた。

 

「――“あしたのために その1”。

 ひじを左わきの下から離さぬ心がまえで――」

 

健太が小声で「おい、それマンガのセリフじゃねぇか」と呟く。

けど次の瞬間。

 

パァン!

 

ミットが爆音を立てた。

空気が弾けたみたいに、練習場が揺れる。

 

二発、三発――まるでリズムを刻むように打ち込む。

 

剣崎の瞳が、一瞬動いた。

 

部員全員が息を呑む。

彩花は体を引いて、右ストレートを放つ。

 

「――“あしたのために その2”。」

 

ドガァンッ!

 

ミットを構えていた先輩が、一歩、後ろに吹かれた。

「な……なんだ今の……!」

 

部長が唖然としている。

「ま、参ったな……お手本みたいだ……」

 

リングの上で、剣崎が静かに言った。

 

「――止めろ。」

 

練習場のざわめきが、ピタリと止まる。

 

剣崎がロープをくぐって降りてきた。

無言で彩花の前に立つ。

 

間近で見ると、圧が違う。

誰も声を出せない。

 

剣崎は、彩花の手首を取って軽く持ち上げた。

「……握りが正しい。

 余計な力がない。

 見えてるな、君。」

 

「み、見えてる?」

彩花が戸惑いながら聞き返す。

 

剣崎はわずかに口角を上げた。

「打つ前に“当たる”場所を見ている。

 それがボクシングだ。」

 

彩花は真っ赤になりながら、こくりと頷いた。

 

 

部員の一人が小声で言った。

「まさか、主将が新入生を褒めるなんて……」

「初めて見たぞ……」

 

健太がぼそっと呟く。

「チクショウ……俺、今、完全に脇役じゃん……」

 

僕は笑えなかった。

剣崎さんの目が、まだ僕を見ていたからだ。

 

その視線に、心臓がまた跳ねた。

 

あの夜、僕を助けた時と同じ目。

冷たくて、優しい。

“ゼロ”――倒せる者がゼロ。

 

その意味を、ようやく理解した気がした。

 

 

彩花の拳が、主将に認められた日。

僕の中の炎も、静かに燃え始めた。

 

いつか、僕もあの眼差しを正面から受け止められるように。

 

 

 

 

 

 

 

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