ボクシング部の練習から帰った夜。
汗で少し重たくなったジャージのまま、ダイニングに入ると、母さんがシチューを温めていた。
部屋いっぱいに漂う、優しい香り。
その中で、僕はつい口を滑らせてしまった。
「ねえ、母さん。駅前で泣いてた黒い人、覚えてる?」
母さんは、おたまを持ったまま顔を上げた。
「え? あの時の人? もちろん覚えてるわ。あの人、どうしたの?」
僕は椅子に腰を下ろして、水を一口飲んだ。
「……実はね、あの人、うちの大学の空手部の主将だったんだ。
名前は**松田一輝(まつだ・かずき)**さん。あだ名は“不死鳥(フェニックス)”。」
母さんの手がピタリと止まる。
「……えっ、大学生だったの!? あんな大人っぽいのに!」
驚いた顔が、なんだか可愛い。
僕は笑いを堪えながら頷く。
「三年生で、剣崎主将と同い年なんだ。しかも、空手部の中じゃ伝説みたいな人らしい。
一度倒れても立ち上がる、不死身の主将だって。」
母さんは小さく目を丸くしてから、少し考えるように天井を見た。
「……なんだか、不思議ね。あの人、すごく“悲しそうな目”をしてたの。
でも、あの時、風の中で私を見て――泣いてたでしょう?
あの涙の意味、なんだったのかしら。」
僕はスプーンを置いた。
「わからない。でも、今日見た時の松田さんは、泣くような人じゃなかった。
強くて、落ち着いてて……まるで別人みたいだった。」
母さんは小さく微笑んだ。
「そう……人って、変わるものなのね。」
少し沈黙が流れた。
時計の針が、静かに音を刻む。
そして、唐突に母さんが明るい声で言った。
「ねえ、今度その“ボクシング部のみなさん”にご挨拶に行こうかしら!」
「――え!?」
僕、思わず椅子からずり落ちそうになる。
「い、いや、母さん、それは! やめたほうがいいって! あの部、主将も先輩も男ばっかで……!」
母さんは無邪気に笑う。
「だって、〇〇くんが毎日頑張ってるんでしょう?
ご挨拶くらいしたいわよ。“お世話になってます”って言うだけだもん。」
「“だけ”で済まないんだよ……!」
僕は頭を抱える。
母さんが来たら、ボクシング部の空気が確実に崩壊する。
剣崎主将も松田さんも、確実に動揺する。
いや、あの二人が同時に動揺したら……大学、壊れる。
母さんはそんなこと、まるで気づいていない。
温め直したシチューをよそいながら、のんびり言った。
「〇〇くんの大学、楽しそうね。
強い人たちがたくさんいて、絵にしたら面白そう。」
「……え、絵にすんの?」
「うん。ボクシングしてる〇〇くんと、その後ろで光ってる“銀の狼”さんと“不死鳥”さん。
題名はね――『守りし者たち』ってどう?」
「……やめてくれ、お願いだから……!」
僕が頭を抱えている横で、母さんはスケッチブックを開いて、もう鉛筆を走らせていた。
白い紙の上に、力強い拳と、どこか悲しげな瞳が並んでいく。
その横顔を見ながら、僕はふと考える。
――松田さんがあの日、母さんを見て泣いた理由。
――母さんが言っていた“懐かしさ”の正体。
もしかしたら、まだ誰も知らない“過去”が、この町のどこかに眠っているのかもしれない。