夕方のボクシング部。
サンドバッグの音が軽快に響く。
いつもよりも、部全体の空気が少し柔らかい。
その中心には、もちろん――彩花。
グローブを外してタオルで汗を拭う彩花に、部長が声をかけた。
「なあ、彩花ちゃん。
女子部員が入るなんて、うちの部じゃ前代未聞だよ。
でも……君が入ってから、雰囲気がすごく良くなった。
明るくなったし、みんな練習も前より真剣になった。
本当に、君のおかげだ。」
彩花は少し照れながらも、にっこり笑った。
「ありがとうございます。でも、私なんかよりみなさんがすごいですよ。」
そこへ別の部員が口を挟む。
「そりゃ変わるさ。かわいい女の子が部に入ったら、やる気出ないほうが無理だって。」
部室に小さな笑いが起きる。
彩花は肩をすくめて笑いながら、いたずらっぽく言った。
「じゃあ、もし〇〇くんのお母さんがここに来たら、みなさん全員KOですよ?」
部員たちが一斉に反応した。
「え、あの入学式の……?」
「いやいや、噂は聞いたけど、あれはちょっと盛りすぎでしょ。」
「学長がうわずったって話、マジだったのか?」
彩花は微笑を深めた。
「そうならいいんですけどね〜。でも、ほんとに綺麗なんですよ。〇〇くんのお母さん。」
僕、慌てて口を挟む。
「頼むからやめてくれ、彩花! 話を広げないで!」
健太がニヤッと笑う。
「おいおい、〇〇。だったら一度連れてこいよ。女神降臨ってやつ、見せてやろうぜ。」
部員たちも調子に乗る。
「そうそう、ぜひ! 保護者見学とかでもいいし!」
「むしろモデルとして部のポスター撮らせてもらえないかな!」
僕、真っ青。
「ふざけんな! そんなことになったら部、終わるだろ!」
彩花が笑いをこらえながら言う。
「〇〇くんのお母さんが来たら、剣崎主将も松田さんも黙ってないかもね。」
空気がピタリと止まった。
主将と松田――あの二人の名前が出ると、部員全員の背筋が伸びる。
僕、小声でぼそっと。
「……やめろって、それ一番まずいやつだ。」
健太が肩をすくめて笑う。
「じゃ、決まりだな。次の見学日、〇〇のお母さん召喚だ。」
「召喚すんな!!!」
僕の叫び声が、練習場に響いた。
だが――
誰よりも笑っていたのは彩花で。
誰よりも楽しそうだったのは、ボクシング部の面々だった。
僕は困惑。母さんに言えば間違いなく来る。
僕の平穏な大学生活のピンチだ。
でも、みんなの期待が高まっている。
そうして、笑いに包まれたまま“その日”は終わった。
……まさか、本当にあの人が来るなんて、この時はまだ知らなかった。