ネオ・クロノスの夜は昼と同じく灰色だった。ビルの隙間を縫うように走る監視ドローンの光が、街を冷たく照らす。レイスはスラムの外れ、廃墟となった倉庫街に身を潜めていた。エコーを逃がした失敗は、議定府の目に留まるだろう。彼には時間がない。次の指令が下る前に、彼女を仕留めねばならない。
レイスは武器を点検し、弾倉に青く光るエネルギーセルを装填する。段階加速の能力は強力だが、身体への負担も大きい。昨夜の戦いで既に筋肉が軋んでいるのを感じる。だが、彼は痛みを無視した。痛みも、感情も、任務の前では無意味だ。
「大義、理想。そんなものは善悪の天秤には何の影響もない」
と、レイスは呟く。言葉は自分自身への戒めのように響く。
情報屋からの新たな報告がレイスの通信端末に届いた。エコーはスラムの東区、旧発電所の地下に潜伏しているらしい。レイスはコートの襟を立て、夜の闇に溶け込むように歩き出した。
◆◆◆◆
東区はネオ・クロノスでも特に荒廃した区域だ。かつての工業地帯は、議定府の資源搾取で干涸らび、今は反体制派の隠れ家と化している。発電所の入り口は崩れたコンクリートで塞がれていたが、レイスは瓦礫の隙間を見つけ、身を滑り込ませた。
地下への階段は湿気で滑り、錆びた鉄の匂いが鼻をつく。レイスは拳銃を構え、慎重に進む。暗闇の中、微かな足音が聞こえた。段階加速を発動し、感覚を研ぎ澄ます。音は左の通路からだ。レイスは壁に身を寄せ、角を覗く。
そこにはリベリオンの兵士が二人、ライフルを手に警戒していた。レイスは一瞬で戦術を組み立てる。体術で二人を無力化するなら音を立てずに済む。彼は深呼吸し、能力を発動。時間が緩やかに流れる中、彼の身体は流れるように動いた。
一歩踏み込み、拳銃の柄で一人の後頭部を叩き、即座に身を翻して二人目の顎に膝を入れる。二人とも音を立てる間もなく倒れた。レイスは彼らの通信機を奪い、耳に装着する。リベリオンの会話が漏れ聞こえてくる。
『⋯⋯ああ、エコーは奥の制御室だ。執行官が来たって噂が⋯⋯』
レイスは唇を歪め、制御室へ向かう通路を進む。情報屋から送られてきた地図には敵の配置も記されていた。できる限り会敵しないよう、かつ最短で行けるルートを算出しながら。
制御室は巨大な円形の空間だった。中央には古い発電機が唸りを上げ、壁には無数のモニターがちらつく。エコーはその中心に立ち、モニターを操作していた。彼女の赤い髪が、薄暗い光の中で炎のように揺れる。
「また会ったな、執行官。まったく、懲りない男だ」
とエコーが振り返らずに言う。
レイスは拳銃を構え、冷たく答えた。
「言っただろう、仕事だからな。逃げても無駄だ、エコー」
彼女はモニターから目を離し、レイスを見据えた。
「仕事、か。議定府の犬らしい答えだな。けど、本当にそれでいいのか? 」
「またその話か? 」
レイスは一歩踏み出し、銃口を彼女に向ける。
「過去に興味はない。降伏しろ」
エコーは笑い、プラズマブレードを手に取った。
「過去は消えない。お前がどれだけ忘れようとしてもな」
その言葉に、レイスの胸に再び刺すような感覚が走る。裏切りの日。燃える街。叫び声。そして、血に染まった手。記憶の断片がフラッシュバックし、彼の指が一瞬震えた。
エコーはその隙を見逃さなかった。ブレードを振り、青い光が弧を描く。レイスは段階加速で回避し、エネルギー弾を連射。制御室は光と衝撃で揺れ、モニターが次々と砕け散る。
「昔は違った! 」
叫ぶエコー。そこに籠もるのは、激情。そして疑問。
「リベリオンの仲間だった! なのに、なぜ議定府に寝返った! 」
「黙れ! 」
レイスが吠え、加速を最大限に引き上げる。彼の動きはもはや人間の限界を超え、幽霊のようにエコーの周囲を舞う。ガンカタの流れるような攻撃で、彼女を追い詰める。だが、エコーもまた驚異的な反応速度でブレードを振るい、レイスのエネルギー弾を弾き返す。
戦いは一進一退だった。レイスの拳銃が放つ光条が制御室を切り裂き、エコーのブレードが空気を焦がす。だが、レイスの身体は限界に近づいていた。段階加速の連続使用は、彼の筋肉と神経を蝕む。汗が額を流れ、視界がわずかに揺れる。
エコーはそれを見抜いた。
「どうした、疲れたか? 」
ヘラヘラと、そう嘲笑う。
「まだ⋯⋯終わらん」
レイスは歯を食いしばり、加速をさらに高める。だが、その瞬間、エコーが仕掛けた罠が発動した。制御室の床から電磁パルスが放たれ、レイスの拳銃が一瞬機能を停止。エコーはその隙にブレードを振り下ろす。
レイスは咄嗟に身を投げ出し、床を転がる。ブレードは彼の肩をかすめ、コートを切り裂いた。血が滲むが、レイスは痛みを無視し、予備のナイフを抜いて反撃。エコーの腕に浅い傷を負わせる。
「仕留め損ねたか。まあいい、頃合いだ。これを見てみろ」
彼女はモニターの一つを指す。そこには、議定府の内部資料と思しきデータが映し出されていた。ファイル名は《プロジェクト・オラクル》。レイスの目が細まる。
「お前は、何が言いたい? 」
エコーはブレードを下げ、静かに言った。
「議定府の真実だ。レイス、お前が忠実に仕えるその組織は、ネオ・クロノスを支配するだけじゃなく、人類の未来を握り潰そうとしてる」
「戯言だ」
レイスは拳銃を再起動させ、彼女に狙いを定める。
「議定府が何をしようと、俺の仕事は変わらない。それは善悪の天秤には関係のないことだ」
「本当に? なら、なぜお前はあの日のことを忘れられない? 」
エコーの声は鋭く、レイスの心を抉る。
「お前が裏切った仲間たちの顔を、覚えてるだろ?」
レイスの引き金にかかった指が止まる。エコーの言葉は、彼の凍りついた心を揺さぶっていた。裏切りの日。リベリオンの仲間たち。彼が議定府に寝返った理由。それは…。
その瞬間、制御室の天井が爆発音とともに崩れた。議定府の強襲部隊だ。黒い装甲服に身を包んだ兵士たちが、ロープで降下してくる。エコーは一瞬で状況を把握し、隠し通路へ飛び込んだ。
「待て! 」
レイスが叫ぶが、強襲部隊の隊長が彼を制止する。
「レイス、貴様の任務失敗は議定府に報告済みだ。この作戦は我々が引き継ぐ」
レイスは隊長を睨みつけた。
「俺の獲物だ」
「黙れ、執行官。貴様は議定府の命令に従うだけだ」
隊長は冷たく言い放ち、部隊を率いてエコーの後を追う。
レイスは拳を握りしめ、制御室に一人残された。モニターにはプロジェクト・オラクルのデータがまだ映っている。彼は一瞬迷った後、端末に近づき、データをコピーした。エコーの言葉が頭から離れない。議定府の真実。裏切りの日。そして、彼自身の過去。
「大義、理想⋯⋯」
レイスは呟き、唇を歪めた。
「そんなものは、確かに何の影響もない。だが、真実はどうだ? 」
彼はコートを翻し、強襲部隊とは別のルートでエコーを追うことを決めた。ネオ・クロノスの闇は、さらに深くなるばかりだった。