ネオ・クロノスの下水道は、腐臭と湿気で満たされた迷宮だった。壁には苔がびっしりと生え、滴る水音が反響する。レイスはエコーを追ってこの暗い通路を進んでいた。議定府の強襲部隊が彼女を追跡している以上、時間がなかった。彼の通信端末には、さっき制御室でコピーしたプロジェクト・オラクルのデータが収められている。まだ中身を確認する余裕はないが、その重みが彼の心をざわつかせていた。
「大義、理想。そんなものは善悪の天秤には何の影響もない」
と、レイスは呟く。だが、今回はその言葉にいつもの確信が欠けていた。エコーの言葉──裏切りの日、かつての仲間──が彼の頭を離れない。
突然、前方の闇から金属音が響いた。レイスは即座に段階加速を発動。感覚が鋭くなり、時間が緩やかに流れる。彼はエネルギー拳銃を構え、音の方向へ身を滑らせた。そこにはリベリオンの残党が仕掛けた罠が待っていた。床に隠された爆発装置が、赤い点滅を放っている。
「厄介だ、な! 」
レイスは加速を維持し、爆発の衝撃波を予測しながら跳躍。爆風が彼のコートを焦がしたが、身体には傷一つない。彼は着地と同時に拳銃を撃ち、暗闇に潜むリベリオンの兵士を仕留めた。悲鳴すら上がらない。
だが、その瞬間、後方から別の気配。レイスは振り返り、ガンカタの動きで攻撃を回避。プラズマブレードの青い光が彼の頬をかすめ、壁に火花を散らす。エコーだ。
「しぶといな、執行官」
と彼女が笑う。
「議定府の犬は罠にも引っかからないか。踏んで解除とかしないのか? 」
「罠を仕掛けるなら、もっと賢くやるんだな。さて、逃げ場はないぞ」
レイスは拳銃を構え直す。エコーはブレードを握り、ゆっくりと距離を詰めてくる。
「逃げる? 私はお前を待ってたんだ。ここで話したいことがある」
「話すことなどない」
レイスは引き金を引く。エネルギー弾がエコーに向かって飛ぶが、彼女は驚異的な速さで身を翻し、ブレードで弾を弾き返す。光条が下水道の壁を穿ち、水しぶきが上がる。
「頑固な男だな! 」
エコーが叫び、ブレードを振り上げる。レイスは段階加速で彼女の動きを読み、流れるようなステップで攻撃を回避。だが、エコーの戦術は狡猾だった。彼女はブレードをわざと壁に突き刺し、崩れた瓦礫でレイスの視界を遮る。
その隙に、エコーは彼の懐に飛び込み、ブレードの柄でレイスの腹を殴る。レイスは息を詰まらせながらも、即座に反撃。ナイフを抜き、エコーの腕を狙うが、彼女は一瞬早く後退する。
「やっとよく見えた、お前の目が。昔はこんな冷たい目をしてなかった。あの頃のお前は仲間を、自由を信じてた」
「黙れ! 」
レイスは怒りを込めて拳銃を連射。エネルギー弾が下水道を照らし、エコーは敏捷に動きながら回避する。だが、彼女の目はレイスを嘲るようには見えない。そこには、奇妙な哀しみが宿っていた。
「お前が裏切ったのはなぜだ? 議定府に何を握られた? あの日の真実を、私が教えてやろうか? 」
声が響く。レイスの動きが一瞬止まる。記憶の断片がフラッシュバックする。炎に包まれたリベリオンの拠点。叫び声。そして、議定府の黒い影。レイスは拳を握りしめ、声を低くした。
「…⋯何を知っている? 」
エコーはブレードを下げ、静かに言った。
「プロジェクト・オラクル。あの日、お前が裏切ったのは、議定府の洗脳プログラムのせいだ。仲間を殺したのは、お前の意志じゃなかった」
レイスの心臓が一瞬跳ねる。洗脳? そんな馬鹿な。だが、エコーの言葉は彼の記憶の空白に突き刺さる。あの日のことは、いつも霧がかかったように曖昧だった。仲間を撃った感触。血の匂い。そして、議定府の冷たい声。
「嘘だ」
レイスは拳銃を構え直す。
「プロパガンダを俺に押し付ける気か? 」
「プロパガンダ? 」
エコーは笑うが、その目は真剣だった。
「なら、だ。なぜお前はあの日のことを思い出せない? なぜ、議定府がお前を執行官に選んだと思う? 」
レイスは答えられなかった。代わりに、彼は加速を発動し、エコーに向かって突進。彼女を黙らせようとするが、エコーは冷静に対応。ブレードと拳銃が交錯し、下水道は光と衝撃で揺れる。
戦いの最中、レイスの通信端末が鳴った。議定府からの緊急指令だ。
「執行官レイス、反逆者エコーの抹殺を優先。強襲部隊は既に到着。失敗は許されん」
レイスは一瞬、エコーから目を離し、通信を切る。だが、その隙にエコーが動いた。彼女はブレードを投げつけ、レイスの拳銃を弾き飛ばす。武器を失ったレイスに、彼女は近づき、囁く。
「プロジェクト・オラクルは、議定府が人間の意識を操作する計画だ。お前はその最初の成功例。だが、まだ間に合う。目を覚ませ! レイス! 」
その瞬間、天井が再び爆発。議定府の強襲部隊が突入してきた。黒い装甲服の兵士たちが一斉に銃を構える。隊長が叫ぶ。
「反逆者エコー、レイス、即時抹殺! 」
「なんだと? 」
レイスは目を細める。議定府が自分を抹殺対象に? あり得ない。だが、隊長の目は冷酷で、銃口は確かにレイスにも向けられている。
エコーが笑った。
「ほら、見たことか。議定府はお前すら使い捨てにする」
レイスは歯を食いしばり、床に落ちた拳銃を拾う暇もなく、ナイフを手に戦闘態勢に入る。強襲部隊が一斉に発砲。レイスは段階加速を限界まで引き上げ、弾丸の軌跡を読みながら動き回る。
舞う。その動きで、兵士たちの間を縫う。
エコーもまた動いていた。彼女はブレードを振るい、兵士の一人を切り倒す。
「レイス! 共闘だ、活路を開くぞ! 」
「ふざけるな! 」
レイスは叫ぶが、状況は彼に選択の余地を与えない。強襲部隊の攻撃は容赦なく、レイスとエコーは背中合わせで戦うことになった。レイスのナイフが兵士の喉を切り裂き、エコーのブレードが装甲を貫く。
戦闘は熾烈だったが、レイスの身体は限界に近づいていた。段階加速の過剰使用で、視界がちらつき、筋肉が悲鳴を上げる。それでも、彼は動きを止めなかった。議定府への疑念が、彼の心を突き動かしていた。
◆◆◆◆
強襲部隊をなんとか退け、レイスとエコーは息を切らしながら下水道の奥へ逃げ込んだ。レイスはエコーを睨み、ナイフを突きつける。
「説明しろ。プロジェクト・オラクルとは何だ?」
エコーは肩で息をしながら答えた。
「議定府の最終目的だ。人間の意識を制御し、完全な服従を強いる。定められた未来しか見えなくなる、終末の予言。だから、
レイスは拳を握りしめる。
「証拠は? 」
「私の仲間が、オラクルのデータを盗んだ。制御室のモニターで見たろ? お前がコピーしたデータにも、その一部があるはずだ」
レイスは通信端末を取り出し、データを確認する。そこには、確かに《意識制御》《執行官プログラム》《試作体001:レイス》と書かれていた。彼の胸に冷たいものが広がる。
「…⋯俺が、実験体? 」
レイスは呟き、目を閉じる。記憶の霧が、少しずつ晴れていく気がした。あの日の裏切り。仲間を撃ったのは、本当に自分の意志だったのか?
「レイス、お前はまだ人間だ。議定府に操られる前のお前を私は知っている。一緒に戦い、そしてネオ・クロノスを解放しよう」
レイスは目を開け、エコーを睨む。
「俺はリベリオンに与しない」
だが、と彼は端末を握りしめ、続ける。
「議定府が俺を裏切ったなら、そいつらを叩き潰す」
エコーは小さく笑った。
「それでいい。とりあえず、生き延びようか」
二人は下水道の奥へ進む。背後では、強襲部隊の新たな足音が響いていた。レイスの心は、初めて感じる熱で揺れていた。真実を求める熱。そして、議定府への怒り。
「大義、理想⋯⋯いや、真実だけが、天秤を動かす」