事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】   作:山本山 

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37話 過去編

短い返答のあと、浅田は何も言わずに通話を切った。

耳元で「プッ、プッ、プッ……」と無機質な音が響き、やがて完全な無音になる。

 

父親の見せたことのない拒絶に、黒いソファに座ったままの新田は身動きひとつできずにいた。自身の気配さえ消すように

ゆっくりと瞼を閉じる。

胸の奥深くで黒い恐怖が忍び寄るのを感じた。

 

 

瞼を開ける。

目の前の、冷めきったお茶をゴクリと音を立てて飲み込んだ。

 

(――このままでは、詰むな……)

 

裏社会で多くの修羅場をスリ抜けてきた彼の本能が、逃れようのない死を感知している。

 

「……やべーな……」

 

一刻前まで退屈しのぎだと高を括っていた自身の愚かさに気づき、思わず乾いた笑いが漏れた。

 

「フッ 右に進んでも左に進んでもデスゲームか……? ……残るは正面突破か……?」

 

前かがみの姿勢で、指が白くなるほど深く手を組む。瞬きのが次第に増えていく。

 

やがて、ひとつの言葉が浮かんだ。

藤田智昭の『弱点』はどこだ?

 

 

 

……考えろ……。

 

 

 

 

部屋では自身の、いつもより早い息遣いだけが繰り返し聞こえている。次第に新田の手のひらには、じっとりと汗がにじみ出てきた。

 

 

 

 

「……待てよ。藤田は、あの幼子がついてくることを許してる。忙しい仕事場にな。あの日、あの対応の早さ……。面子だけなのか? ……違う。そもそも、あそこはガキを連れてくるような場所じゃねえ。手間暇かけて連れて来たんだ。少なくとも、あいつは娘を大事にしてる。……娘を攫おうとした犯人を、あいつは絶対に許さねぇな」

 

 

 ― そして俺は、その犯人を知っている ―

 

 

深く組み込んだ手の力が、少しずつ緩んでいく。崖っぷちで、細い蜘蛛の糸をようやく掴み取った気分だ。

 

 

「挨拶に行くには、手土産が要るな。待ってろよ、、、藤田……」

 

 

無理矢理に笑ってみせてから、ゆっくりと立ち上がり、そのままシャワーを浴びにバスルームへ向かう。

強く握りしめた指が、感覚を失うほどに痺れていた。

 

 

 

熱いシャワーを浴びる。バスルームの小さな窓からは、隣人の母と子供の楽しげな笑い声が聞こえてきていた。

 

 

 

 

 

ーーーー

 

 

タクシーの重いドアが閉まる音がした。

 

――ドン――

 

アスファルトを踏み鳴らすヒールの音が響く

 

カッ、カッ、カッ、カッ。

 

豪奢な邸宅の前に、ひとりの若い女性が佇んでいた。その瞳には自信が満ちている。

 

優里は胸の内で饒舌に呟く。

 

(三世代にわたる因縁にやっと決着が着くわ。憎い青木家を跪かせる日がやってくるのよ。あの日、智昭の娘を私が助けた。フフ、天の采配なのよ。ついにこの藤田邸宅へ足を踏み入れる日を迎えたのね)

 

彼女はしばし門扉のまえで恍惚としていた。

鳥のさえずりを聞いて止まっていた指先を動かす。迷いのない手つきで呼び鈴を鳴らした。

 

(――玲奈、あなたの夫である藤田智昭……『稀代の天才』が築き上げた場所。残念ね、彼の隣に立つのは、もうあなたじゃない。私よ。)

 

力強く顔を上げ、唇の片端を上げて微笑む。

それから彼女は、邸宅の重厚な扉が開くのを待った。

 

(ここには玲奈はいない。いえ、あなたの場所は私がこれから頂くのよ。『母親』という立場、どこまで保てるかしら?)

 

優里は、母親不在という物理的な空白を自分という存在で埋め尽くす、始まりの瞬間に身震いした。

 

音もなくスーっと重厚な扉が開かれる。

 

「優里おばさん! いらっしゃい!!」

 

愛くるしい満面の笑顔で、優里に向かって走り出す茜。優里は両手を広げてそれを迎え入れ、優しく抱きしめて聖母のような微笑みを浮かべた。

 

「こんにちは、茜ちゃん。お邪魔してもいいかしら?」

 

「どーぞー!」

 

茜は優里の手を引きながら、邸宅内を案内する。その後ろを、お手伝いの田代が付いていく。

今日は智昭が不在の日だ。田代は『必ず同席してくれ』との主人の命令を忠実に守る。

 

「大森様、ようこそお越しくださいました。ただ、旦那様はご不在でございます」

 

背後から聞こえる使用人の報告を聞きながら、優里の心は晴れ渡った空と同じで晴れやかだった。

 

「……そう。お邪魔しても大丈夫なのかしら?」

 

後ろは振り向かずに、茜に視線を落とす。

 

「だいじょうぶだよ!!」

 

茜が田代の代わりに返答する。

優里はその返答を聞いてからゆっくり後ろを振り返り、首を少し傾げて使用人に軽く、最低限の返事をした。

 

「わあ、優里おばさん、いいにおいする!」

 

「ふふ、そう? 茜ちゃんのために、甘いお菓子作ってきたのよ」

 

邸宅の奥へと茜に引かれて歩きながら、

優里は邸宅内を隅から隅まで見渡している。

最高級の調度品、最新のセキュリティ設備。

これが藤田智昭の邸宅。流石は藤田家の御曹司――特別な男ね。

 

(……玲奈。あなたはここにいないのよ。これからこの人達の瞳には、私しか映らなくなるのよ。)

 

子供部屋に入ると、茜はさっそくお気に入りのぬいぐるみや、父親に買ってもらった最新の知育玩具を広げた。

 

「あのね、これ、パパがくれたの! はじめはいっぱい失敗したけど、もう簡単にできるよ!」

 

茜は、優里に褒めてもらえるのを期待して瞳を輝かせている。

 

差し出されたのは、AIを搭載した高度な学習用タブレット。優里はその端末を一瞥し、

すぐに慈愛に満ちた表情で茜の横に座り込んだ。

 

「……そう、偉いわね! こんなに難しい機械、もう茜ちゃんできちゃうのね。凄いわ。パパに教えてもらったの? やっぱり智昭さんの子供ね。……だけど、パパはとってもお仕事が忙しいんじゃないかしら? パパの大切なお時間を奪ったら、パパが可哀想よ」

 

優里はしゃがみ込み、茜の耳元で囁き続ける。

 

「でも、それじゃあ茜ちゃんが寂しいわよね。……ねぇ、茜ちゃん、優里おばさんと沢山、遊びましょうよ。あなたの好きな所、行きたい場所、おばさんがいつでも連れて行ってあげる。本当はいけないかもしれないけど、ママがいつも『ダメ』って言ってる場所も、内緒で連れて行ってあげるわ。勿論、甘ーいお菓子も一緒に食べましょう! 茜ちゃんと優里おばさんだけの、秘密の約束よ」

 

優里は茜の柔らかい髪を指で梳いたあとに、

小指を差し出した。

 

「やったー! 約束だよ、優里おばさん!」

 

扉の付近で田代が無言で二人の様子を見守っている。優里にとって彼女の存在はただの背景に過ぎない。

 

居ない者として振る舞うが田代の瞳には

彼女の傲慢さがアリアリと映し出されている。

 

「ねえ、茜ちゃん。ママはどうしてるの?」

 

茜はキョトンとしている。

 

「? ママ? 元気だって言ってたよ」

 

優里の動きがピタリと止まった。少し間を空けてから、まるで大変なことが起きているかのように尋ねる。

 

「……ママはどうして、ここにいないの?」

 

茜は今、パパとママがいない現実に少し寂しくなったしまった。

 

「……んー、わかんない。パパは帰ってくるよ?」

 

はじめは寂しさを感じた茜だが、持ち前の前向きさで返答した。

 

優里は少し残念そうな顔を見せながら、

さらに言葉を重ねた。

 

「……そうなの?……。優里おばさんは好き同士なら一緒に暮らすと思ってたんだけど…、パパとママは違うのかしら?茜ちゃん、寂しいね。」

 

優里は茜を優しく抱きしめた。

 

「でも、大丈夫よ。これからはちっとも寂しくないわ。だっていつでも、優里おばさんとパパが側にいるもの。これも、パパと優里おばさんとの約束ね」

 

もう一度、小指を差し出す。

 

茜は、ママとパパが居ない時の寂しさをこれから感じなくて済むかもしれないと素直に喜んだ。

 

「うん! 約束だよ!」

 

茜の瞳に喜びが浮かぶ。優里は壊れ物を扱うように茜を優しく抱きしめている。

 

(……今日はここまでね。時間はまだあるはずよ)

 

その時、外から車のエンジン音が聞こえてきた。

 

「あ!! パパだぁ〜! 田代さん、パパが帰ってきたね!」

 

「えぇ、おかえりになりましたね。お迎えに向かいましょう」

 

田代が手を差し出すより早く、優里は茜の手を握った。

 

「茜ちゃん、一緒にパパをお迎えしてもいいかしら?」

 

「うん! 一緒に行こう。」

 

「ありがとう。」

 

楽しそうに歩き出す二人を、邸宅の使用人たちが目配せしながら見守る。

田代はその様子に、一抹の不安を覚えていた。彼女の振る舞いはこの先、誤解を呼ぶのではないかと危惧し始めたのだ。

 

(ご主人様にお話しする方がよいのだろうか?……でも、大森様は丁寧に扱えとのご指示。今日は初めてのご訪問だものね。もう少し様子をみましょう)

 

 

玄関には、精悍な姿をした智昭が既に到着していた。

 

「パパ〜〜おかえりなさい!」

 

優里の手を払い除け、智昭に駆け寄る茜。

智昭は娘を抱き上げた。

 

「ああ、ただいま」

 

優里は軽く手を握りしめ、早まる鼓動を悟られぬようゆっくりと近づいていく。

 

後ろから田代が追い越し、挨拶をした。

 

「おかえりなさいませ。ご主人様」

 

田代が荷物を受け取るために近づこうとしたが、それより先に優里が智昭に歩み寄った。

田代の眉間に一瞬、皺が寄る。

 

「おかえりなさい。智昭さん。お疲れ様」

 

女の顔で微笑む優里。智昭の表情は崩れない。絵に描いたような笑顔のままだ。

 

「ああ、来ていたのか。夕食はもう食べたかい? よかったら一緒にどうだ?」

 

荷物を田代に渡しながら、智昭は優里の方を向き、とりわけ優しい声色で尋ねた。

 

「どうする?」

 

「ええ、ご一緒させてもらうわ」

 

その瞬間、この邸宅に玲奈とは別の女の影が入り込んだ。

 

 

 

 

 

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