事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
Y市のホテルの一室で、智昭は窓の外から見える分厚い雲の流れを見ていた。彼は昨日の出来事をひとつ残さずなぞろうとしている。
(新田の要求は「死の偽装」……なぜ耳元で呟いた? あの状況下での至近距離……挑発だけだろうか? あぁそれにしても厄介だ……。それにスミスとは密だろう……)
智昭に次々とのしかかる圧。その横顔には隠しきれない疲労が滲んでいた。
テーブルを挟み、賢志と康明が向き合っている。智昭と新田が交わした「死の偽装」は、下手をすれば藤田智昭の破滅を意味する。智昭の安全が脅かされていることに、賢志は何も言えず押し黙ったままだった。
康明が代わりに言葉にした。
「ボス、昨日から緊張状態が続いています。いくら強靭な身体でも持ちません。少し休んでください」
智昭は小さく頷いた。だが、彼には休む事は毒になる。守りたいものを守れなくなる事は、彼にとって死に等しかった。智昭はいつもの声色で、言葉を落とす。
「新田との契約は成立だ。ダイヤの件、茜の安全、そしてスパイダーの本国ルート。条件はすべて飲ませた」
智昭の言葉に、康明が手元の資料から顔を上げた。
「新田は死を偽装してまで組織を抜けたがっている。並の覚悟ではないですね。だがボス、数日後に行われる薬の取引を黙認するわけにはいかない。政府との契約がある。それを遂行する条件下だからこそ、貴方の個人的な捜査は黙認されているはずです」
「分かっている。浅田の動きは掴んでいるんだろ? 上杉にはそれを叩かせろ。その隙に、俺が直接現場に入る。それから新田との契約の話は他言厳禁だ」
康明が制止しようと口を開きかけたが、智昭はそれを視線で遮った。
「新田は俺を常に見ている。俺以外の人間が動けば、奴は即座に契約を破棄し、茜を消すだろう。それに、政府に報告できない『私的な工作』に、お前たちを巻き込むわけにはいかない。新田も俺がいなくなるのは困るはずだ」
智昭はスマホを取り出し、電話をかけ始めた。
「慎也、状況が逼迫し始めた。この間送った男の画像、覚えてるな? こいつの手の甲には精巧な蜘蛛の墨が入っている。会社と関連事業の警備にこの男の顔を配り、最大限警戒するよう通達を出してくれ。すぐだ」
ーーー
浅田は警備員室のモニターを見つめながら、無線機を手に取った。
「ネズミが動いた。ダミーを壊したぞ」
その報告は、即座に現場近くの新田へ伝わった。浅田が駐車場に仕掛けたのはダミーのジャマーだ。新田もまた、些細な失敗も許されない。藤田の手が伸びていることを前提に、最大限の警戒を敷いていた。
智昭は駐車場内の死角に配した車内で待機していた。その時、端末が震えた。新田からのメールだった。
『邪魔するな』
取引開始直前の牽制。智昭は、自分たちの動きが完全に漏れていることを確信した。
横に置いたノートPCから賢志の声が飛ぶ。
『ボス、上杉さんがダミーを破壊しましたが、こちらのメインモニターのノイズが消えません。本物は別の場所です。映像での証拠確保は諦めてください』
「……了解だ。プランBに切り替える」
智昭は短く答えると、インカムのスイッチを入れた。
「康明、周辺の信号制御はどうなっている」
『いつでもいけます。現場から半径二キロの監視カメラもこちらでバイパスしました。発火のタイミングで、周辺のパトロール車両のルートを三〇〇秒逸らします。……ボスの自車、本当にいいんですね?』
「構わん。」
駐車場の片隅で、新田とスパイダーの人間、大森正雄、そして大物取引者の男たちが向き合っていた。アタッシュケースが開かれ、中身の確認が始まる。
取引が終盤にかかるタイミングで、智昭はポケットからスイッチを取り出し、押し込んだ。
離れた位置に停めていた智昭の自車が、音を立てて炎上した。
「なんだ!?」
浅田やボディガードたちが一斉に炎へ意識を向けた。たちまち黒煙が天井を覆い、現場の視界を奪う。
賢志が叫ぶ。
『今です! ボス、目標の車両は正面三〇メートル。右側から警備が二名来ます、巻いてください!』
智昭は煙の中を走り、逃走を図る大物取引者の車へ肉薄した。混乱し、後部座席へ飛び込もうとする男の背後を掠める。
衝突する寸前、智昭は用意していた小型のGPS端末を車体に叩きつけた。磁石が吸い付く手応えが指に残る。
炎上する自車から爆ぜた破片が、智昭の右腕を深く切り裂いた。熱風が肌を焼くが、智昭は声を殺して闇に沈んだ。
「出せ! 早くしろ!」
新田の指示で、取引者たちの車が急発進し、駐車場を脱出していく。
ーーー
智昭は駐車場のアスファルトに座り込み、背中をコンクリートの支柱に預けた。
インカムからは賢志の叫びに近い声が響いている。
『ボス! 応答してください。ターゲットは湾岸エリアへ移動、目的地は埠頭の旧大森倉庫です。……ボス!』
「心配いらない」
智昭はそう告げ、荒い息を吐きながら右腕を見た。ジャケットを突き破った破片が深く食い込み、拍動に合わせて鮮血が噴き出している。幸い、車からの熱風による火傷は赤らむ程度の軽症で済んだが、この出血量はまずい。
智昭は震える左手でネクタイを力任せに引き抜くと、それを口に咥えて端を固定し、傷口の数センチ上を渾身の力で縛り上げた。
「……っ!」
激痛に視界が歪む。ネクタイが肉に食い込み、出血の勢いが鈍るのを指先で確認した。
智昭はぐっと歯を食いしばり立ち上がると、待機させていた予備の車両へと辿り着いた。
「……賢志、聞こえるか。追走は……二人に任せた。俺は、病院へ向かう。……表沙汰にするな。いつもの、闇医者だ」
『ボス! 了解しました。康明に連絡して、受け入れ態勢を整えさせます。GPSの解析はご心配なく。今は……!』
「……分かっている」
智昭は車を発進させた。意識が遠のくのを、首を振り、舌を噛む痛みで押し戻す。
ーーー
15分後。智昭が闇医者の処置室で縫合を受けている間、賢志と康明はホテルのスイートルームで凄まじい速度のタイピング音を響かせていた。
「よし、GPSの信号が静止した。埠頭の第八倉庫だ。……康明、例の件を」
「分かっている。新田を欺くための仕上げだ」
康明が端末を操作し、懇意にしている地方局のデスクへ情報を流す。
数分後、深夜のニュース速報がテレビ画面に踊った。
『速報です。Y市内の駐車場で車両火災が発生しました。原因はバッテリーの不具合で発火し、車体の中で燃え広がりエンジンに引火し爆発したと見られます。運転していた人物は行方不明。現場には激しい損傷を受けた車両のみが残されており……』
「……これで、車は『事故』で燃えたことになった。誰の車か調べられません。新田も深追いはしないはずです」
賢志の言葉が、処置を終えて戻ってきた智昭を待っていた。
智昭は白を基調としたホテルのソファに、処置されたばかりの右腕を庇うようにして深く沈んだ。
「……新田は、動いたか」
「はい。報道を見て、新田の端末からスパイダーの本国ルートへ暗号通信が飛びました。ボスの狙い通り、車両不備という認識を植え付けることに成功しています」
智昭は天井を見つめ、静かに息を整えた。
彼は瞼をゆっくり閉じ、息を長く吐き出した。
映像の証拠もなく、車も燃えた。だが、掴むものは掴んだ。智昭は力を込めて瞼を開く。
智昭の瞳には、傷の痛みと連動するかのように、決意が新たに宿っていた。