事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
A国よく晴れた昼下がり。心地よい季節の日差しがテーブルに差し込む。智昭は右腕のブレスレットに触れながら、柔らかい日差しが時折、鋭く白く反射する光を目で追っていた。
テーブルを挟んで座る優里は、博士号を得た高揚感と己の価値に酔いしれたままメニューを眺めている。メニューをめくる紙の音がやみ、それから優里は智昭を見つめる。
「智昭、突然の誘いだったけど、仕事は大丈夫だった? なのに、お祝いまでしてくれて本当に嬉しいわ」
「あぁ、大丈夫だ。それに、当然のことだろう?君はそれだけの成果を出したんだから」
智昭は相変わらず極上の微笑みを浮かべている。
手元にあるスマホをそっと丁寧に伏せた。
数時間前に玲奈へ送ったメッセージ。
『急用ができた。今日のランチはキャンセルだ』
用件のみの事務的な文面。
彼の視線は、一輪の花を飾る透明な花瓶で止まる。
智昭の思考を、茜の明るい澄んだ声が遮った。
「パパ、優里おばさんってとっても優しいね! フェンシングも教えてくれたし、お勉強もパパと一緒に教えてくれるんでしょ?」
「あぁ、そうだよ。優里おばさんは特別に優秀なんだ」
智昭は茜の頭を撫でる。
その動作の一つ一つを、優里は漏らさず見ていた。優里は満足げに目を細め、無言のまま茜のナプキンを整えてやる。
「優里おばさんが、ママだったらよかったのに。そしたら毎日一緒でしょ?」
茜の無邪気な言葉が、レストランの静寂に響いた。
優里の手が一瞬静止し、再び茜の背中をふわりと撫でる。その瞳には期待が溢れていた。視線は茜の背中に向けたまま、優里が答える。
「まあ、茜ちゃんたら……」
智昭は微動だにせず、皿の肉にナイフを入れた。一口サイズに切り分けたそれを、ゆっくりと口に運ぶ。
咀嚼し、肉が喉を通り過ぎるのを待ってから、
ナプキンで口元を拭った。
「……茜、面白い提案だね。さあ、冷めないうちに、温かいうちに早く食べなさい」
智昭は右手首をわずかに傾けた。
日差しを捕らえたブレスレットが、鋭い閃光となって優里の視界を正面から一瞬射抜く。
「……っ」優里は不意の眩しさに眉をひそめた。
智昭は無表情にワインを口にする。
智昭は背後の気配に気づかなかった。
入り口の陰、柱の影に、自分に会うために海を越えてきた妻が立っていたことを。
彼女が手にしていた小さな包みが、力なく指先から零れ落ちそうになっていることも。
智昭が静かにワインを口にした瞬間、
玲奈が音もなく、振り返ることなく背を向け、
独りA国の懐かしい街並みを後にしたことを。
智昭は何も知らないままだった。