事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
藤田家の応接間からは、おばあさんたちが楽しげに茶を飲み、昔話に花を咲かせる賑やかな声が漏れ聞こえていた。藤田家の祖母と、その親友である青木の祖母。その密な間柄が、
今日、二人の子供を引き合わせた理由だった。
そんな賑わいから切り離された書斎には、重厚な革と古い紙の匂いが満ちていた。
13歳になったばかりの智昭は、青木のおばあさんに挨拶を済ませたあと、一緒に訪れていた少女、玲奈のために、音もなく椅子を引いた。
「ここに座って。あまり面白い本はないけれど」
その動作は淀みなく、周囲が期待する「藤田家の御曹司」としての完璧な立ち居振る舞いだった。
彼は、自分の意図する言葉が正しく届かない事実を知っている。天才と呼ばれる彼の孤独は、落胆と諦めの層を築いていた。彼はその孤独を誰にも悟られぬよう、ひとり静かに受け止めていた。
智昭はノートPCを開き、独学で構築したニューラルネットワークのコードを走らせる。
「……それは、何?」
玲奈が静かに尋ねる。
彼女の視線は智昭の顔ではなく、画面上を高速で流れる青い文字列に固定されていた。
智昭は、いつもと同じ言葉で返した。
「ただの計算だよ」
彼女は彼の言葉など気にせず、画面に流れる文字列を目で追っている。
数分間の沈黙。ただ、CPUの冷却ファンが熱を逃がす乾いた音だけが響く。
玲奈の指先が、画面の一点を迷いなく指した。
「ここ、事故ってるよ」
智昭の喉が、微かに鳴った。彼女が指したのは、膨大な数式の中に潜ませた、智昭自身も正体を掴みかねていた論理の「歪み」だった。
その歪みを認識した瞬間、智昭は玲奈の顔を真っ直ぐに捉え、視線を外すことができなくなった。
智昭は同じ場所にいながら、世界が書き換わっていくのを感じていた。
窓外でポプラの葉が風に煽られ、裏側の白を露わにするたびに銀色の海のようにうねっている。
玲奈という特異点を中心に、世界が鮮明な立体となって映し出された。自分と同じようにこの世界の構造を見つめ、同じ言語で語り合える存在との出会いだった。
それは智昭だけの衝撃ではなかった。
玲奈の指先もまた、画面に触れたまま微かに震えていた。
自分の脳内だけに存在していた「AIの世界」という地図を、完璧な精度で共有できる相手。
二人の間に、誰にも共有できない世界が重なり合っていた。
智昭は、椅子を握る手のひらにじっとりと汗をかいている自分に気づく。
「……直せる?」
「ええ。たぶん、ここをこう書き換えれば」
玲奈のその答えは、智昭が一人で漂っていた孤独な世界に、初めて自分以外の確かな揺らぎをもたらした。
智昭にとって、玲奈だけが彼の平坦な世界を突き動かした唯一の存在となった瞬間だった。
「あら、二人ともずいぶん静かね。お利口さんにしているのかしら」
応接間から、おばあさんたちの朗らかな声が近づいてくる。智昭は瞬時に「完璧な御曹司」の顔を作り、玲奈もまた、何事もなかったかのように指を引っ込めた。
扉の向こうで続く、穏やかな茶飲み話。
その平和な日常のすぐ隣で、
二人の世界だけがひとつに溶け合っていた。