事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
激しく降り始めた雨が窓を叩く。
玲奈は、高熱で倒れた親友の凜音を看病するため、夜の街に車を走らせていた。
ハンドルを握る彼女の脳裏には、
先日、優里がアップしたインスタグラムの画像が焼き付いている。
乱れたベッドに、ばら撒かれた赤い花びら。そして、仲間たちと称する者たちに囲まれた、豪華なバースデークルージングの様子。
改めて、智昭のそばには自分の居場所などないことを突きつけられていた。
離婚を決意したからといって、胸が痛まないわけではない。ただ、その痛みを否定することをやめただけだ。すべてを受け入れ、感情をまとめて捨て去る。その決意は、もう揺るがない。
それでも、アクセルを踏み込む足先は氷のように冷えていく。鏡に映る顔からは血の気が引き、玲奈はたまらず車のヒーターを強めた。
身体は意志より心に忠実なようだ。
今はただ、看病に集中することだけを自分に言い聞かせている。
――同じ時刻。
港の最果て、穃東埠頭の廃倉庫群では、別の「仕事」が動いていた。
辰也は、離れた場所にいる清司と連携し、人身売買ルート摘発に向けた極秘の隠密捜査を遂行していた。現場の最終確認は、辰也の役割だ。
しかし、静寂を破る鋭い怒号が雨の闇を切り裂いた。
「誰だ! 止まれ!」
潜入中に響いた鋭い声。
辰也は背後から迫る銃弾を回避し、フェンスを蹴って闇へと躍り出る。脇腹を焼くような熱。黒いジャケットが、自身の血でじわりじわりと重くなっていく。
(……まずい、清司の元へ急がなければ)
辰也は単身で包囲網を脱出した。激痛に意識が削られる中、雨に煙る路地裏でアイドリングを続ける一台の車を捉えた。
玲奈が車に戻り、ドアをロックしようとした、その瞬間だった。
カチリ、と外される音。
玲奈が反応するより早く、助手席のドアが乱暴に開け放たれる。
「――っ!?」
車内に、冷たい雨の匂いと、隠しきれない鉄の匂いが一気に流れ込む。なだれ込んできたのは匂いだけではない。
全身を黒ずくめで固めた大柄な男。深く被った帽子とマスク。その隙間から覗く視線だけが、凍てつくような冷酷さを湛えている。
「動くな」
低く、押し殺した声。
男の右手にある銃口が、玲奈へと向けられた。
知らない男が乗り込んできた恐怖、そして突きつけられた死の感触。玲奈は自身の運命さえも呪いたくなる。
男の脇腹から、赤黒いシミがシートの革へと広がっていく。
「危害は加えない。俺の行きたい場所まで送ってくれれば、自由にしてやる。……運転しろ」
「……どちらへ」
震える声で、玲奈はようやくそれだけを絞り出した。
「穃東埠頭へ行け。具体的な道は指示する」
玲奈は真っ直ぐに前を見据えたまま、答えた。
「必要ありません。道は知っています」
一瞬、辰也の鋭い視線が玲奈の横顔を射抜いた。
(……怯えるだけの女では……ない?)
街灯の光が、雨に濡れたアスファルトの上を幾重にも流れていく。沈黙が支配する車内。
「前のプラタナスの木の下に止めろ」
「はい」
目的地が近づいたとき、玲奈は前方を向いたまま、静かに告げた。
「……傷薬を持っています」
辰也の身体が、微かに強張った。
命を奪おうと銃を向けている相手から返ってきた、あまりにも不似合いな言葉。
不誠実な女だと思っていた。なのに、この切迫した状況でなぜ自分に救急セットを差し出そうとするのか…。
彼の中に、場違いな罪悪感という感情が芽生える。辰也はそれに触れることなく、
無言で車から立ち去った。
車を離れて数分後、辰也は待ち合わせの船へと乗り込む。
そこへ、清司からの着信が鳴った。
『辰也、大丈夫か? うちの者が迎えに行ったが、どこにいる?』
「……少し予想外のことがあったが、今は埠頭に着いた」
辰也の声は、雨音の中に混ざって消えた。
彼女のあの冷たくも澄んだ瞳の残像も雨に流してしまいたかった。