事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】   作:山本山 

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54話 過去編

あの祝祭のクルージングから一ヶ月。

世間では、藤田智昭の隣に収まった優里が「次期・藤田夫人候補」として華やかに取り沙汰されていた。彼の思惑通り、世間は騒がしくその座の行方を注視している。

 

智昭は公海上を進む超大型客船の、窓一つない極秘のモニター室にいた。

 

「……智昭、正面のカメラに映っているのが元締めの男だ。案外、派手なタキシードを着てるな」

 

清司の声が、無線を通して耳に届く。

 

政府関係者が身内にいる彼らは、裏社会においては「取り締まる側」の人間として認識される。その出自を知られている清司は、当然この「影の社交界」に姿を見せることはできない。彼は別フロアで、持ち前の人たらしな社交術を駆使して抱き込んだ船内の協力者から、刻一刻と変わる現場の情報を吸い上げていた。

 

そして、藤田智昭という男もまた、経済誌やメディアに幾度となく晒され、多くの人がその顔を認知している。その顔を晒すわけにはいかない。

 

智昭は密閉されたモニターの青白い光に照らされながら、これから行われる計画を反芻していた。決して、ミスは許されない。

 

本来なら政府が執り行う案件に、彼は半ば強引に自らの計画を持ち込んだ。厳密に計算された計画を提示すれば、政府はむしろ喜んで智昭の案に便乗した。そして、智昭は計画の遂行者としてこの案件に潜り込むことに成功したのだ。

 

真の目的は、新田の偽装死の精度を上げることだ。この計画が成功すれば、新しい日々が待っている。智昭はそう信じて疑わなかった。

 

 

玲奈が既に家を出る準備を整え、A国の棚にしまい込まれてしまった、離婚協議書という名の決別を知らないまま、今の智昭は目の前の計画に全神経を集中させていた。

 

「智昭、技術班から通信の掌握が完了したと報告があった。いつでもいけるぞ」

 

清司のナビゲートを受け、智昭は冷徹に状況を俯瞰する。

背後に控える辰也もまた、音もなく銃の感触を確かめていた。一ヶ月前の傷は完治している。だが、時折傷が疼くたびに、辰也の脳裏には自らが知る玲奈とは違う、あの雨の夜の澄んだ瞳がよぎる。

 

(俺達は彼女を長い事遠ざけていた……。あの夜の彼女は不誠実とは真逆の態度だった……)

 

辰也は、胸の隅の痛みを無視できずにいた。

 

階下では、仮面をつけた観客たちの下卑た拍手と共に、禁断のオークションが始まろうとしていた。

 

智昭は冷たく目を細め、マイクを通して清司に命じた。

 

「……始めようか。この不合理な世界を、根こそぎ刈り取る時間だ」

 

智昭に死ぬつもりなど微塵もない。誰ひとり被害は出さない。死ぬのは、新田という名の記号だけだ。

 

 

この計画をやり遂げる。

 

 

階下の会場で始まったのは、密室性の高い「マッチング」という名の取引だった。

 

ドレスアップした女性たちが、給仕に導かれるようにして富豪たちの座る各テーブルへと運ばれていく。

彼女たちは社交慣れしている一方で、どこか虚ろで妖艶な微笑みを浮かべていた。あくまで自らの意志で「パトロン」を選び、契約を交わす――そんな欺瞞に満ちた同意の演出が、この場の格を担保している。

 

モニター室の智昭は、その光景を淡々と見つめていた。

 

「……吐き気がするな。同意という名の強制か」

 

清司の声がイヤホンに響く。清司が使う政府の回線通信システム。別室でモニターを注視する彼は、この凄惨な商売の裏側に強い憤りを感じていた。

 

「あぁ。だが、この『建前』があるからこそ、奴らは罪悪感なく金を積み上げる。……ブローカーの一人が動いたぞ。予定通り、ターゲットのテーブルに付いた」

 

清司は、ブローカーの一人である新田と智昭が内通していることなど微塵も知らない。彼にとっての新田は、単なる摘発対象の一人に過ぎなかった。

 

モニターの一角。給仕に扮した新田が、人身売買の元締めである男のテーブルで機敏に立ち働いている。

智昭は、清司や辰也の耳には入らない、自分と直属のチームだけに繋がる極小の通信機へと意識を切り替えた。

 

「……聡美、康明。愛理、洋介。準備はいいか。賢志、システムを。……誰一人、真実を悟らせるな」

 

智昭の指示に、選りすぐりの精鋭たちの無機質な応答が返ってくる。

清司が使う政府の回線のさらに裏側で、智昭チームは独自の暗号化回路を構築していた。

 

「……五、四、三……」

 

智昭は冷徹にカウントダウンを開始した。

 

「……二、一。落とせ」

 

賢志が操るプログラムにより、会場の照明が激しく明滅した。

 

それを合図に、客船の給仕や客に擬態していた伏兵たちが一斉に動く。政府の突入部隊がなだれ込むのとほぼ同時に、元締めのボディーガードたちは抵抗の隙さえ与えられず、瞬時に無力化されていった。

 

完璧に計算された制圧劇。

 

だが、その混乱の極致で、数発の乾いた音が響いた。

 

「伏せろ! 撃ってくるぞ!」

 

誰かの叫び声。交戦の最中、遮蔽物へ逃げ込もうとした新田の背中を、不運な流れ弾が貫く――。

事前に愛理と洋介が仕込んだ特殊な塗料が、防弾ベストの上で鮮血のように弾け、背後の白いテーブルクロスを赤黒く汚した。

 

「ブローカーが……! 智昭、ブローカーの一人が撃たれた!」

 

無線の向こうで、清司が愕然とした声を上げる。

現場の制圧に当たっていた辰也もまた、折り重なる状況の中で倒れ伏す新田を確認した。すぐさま遺体のポケットからIDカードを剥ぎ取り、本人であることを確認する。

 

「新田篤……」

 

辰也がそう呟くのを、智昭は無表情に聞き届けた。

 

「……摘発を開始だ。ブローカーの遺体は、速やかにこちらで用意したルートで回収する。清司、辰也、お前たちは予定通り撤収を。……深追いすれば、摘発の邪魔になる」

 

智昭の声に私情は一切含まれていない。

親友二人の動揺さえも、新田の死を確定させるための「証言」として冷静に利用する。

 

騒動ののち、辰也が沈痛な面持ちでモニター室へと戻ってきた。

銃の熱を掌に感じながら、辰也は隣に立つ智昭の、あまりにも静かすぎる横顔を盗み見る。

 

「……智昭、ブローカーの新田は……助からなかったのか」

 

「あぁ……計算外の事態で……残念だ」

 

智昭は短く答え、瞼を一度閉じたのち、再び誰もいなくなったモニター画面を見つめた。

その様子に微かな違和感を感じた辰也が、問いを重ねる。

 

「智昭……何か、他に問題があったのか?」

 

「ん? いや……。そうだな、その通りだ。計画が完璧ではなかったと……思ってな」

 

それ以上、二人が語ることはなかった。

清司の苦い声が、二人の沈黙を破った。

 

「……智昭、悪い。俺のミスだ。ブローカーがあんなことになるとは……。クソ、後味の悪い結末になっちまったな」

 

「お前のせいじゃない、清司。……あとの処理は政府に任せ、撤収するぞ」

 

智昭は微かに口角を上げ、通信機を切った。

彼の中では、すべてが完璧だった。

 

親友二人にも、政府にも、組織にも、新田の死は「確定」した。

 

豪華客船の明かりが夜の海に浮かび上がっている。その明かりを外れれば、どこまでも深い闇が広がる。その中を新田は今、賢志たちが用意した秘密の搬送ルートを経て、この世界から「消滅」しようとしている。

 

 

智昭はひとり死に物狂いで2人溶け合った世界を守ろうとしている。

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