事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
豪華客船の喧騒から遠く離れた、漆黒の海。
「死体」として運び込まれた新田篤を乗せた医療高速艇は、重く冷たい飛沫を上げながら、暗闇の中の待機場所へと到着した。
もう一艘の小型ボートが、静かなエンジン音を響かせて近づき、やがて横付けされる。
現れたのは、藤田智昭。
清司と辰也には「後処理を部下に任せる」とだけ告げ、独り、新田が待つ「境界線」へと足を踏み入れた。
「……ッ……来たか、藤田」
艇内のストレッチャーの上で、新田が重い瞼を開ける。
愛理の手によって血糊を拭い去られた彼は、防弾ベストを貫通せんばかりの衝撃に耐えながら、目の前の男を冷ややかに見上げた。
智昭は何も言わず、自らの右腕を新田の前に差し出す。
約10ヶ月間、彼の右手首に在り続けた異物。金属製のブレスレットが、深く手首に食い込んでいる。
新田が自分のコレクションの中から選んだ、智昭への「呪縛」。智昭にとって、行動を縛り、監視するために嵌められたその腕は、屈辱以外の何物でもなかった。
「ブレスレットを外せ」
智昭は一旦右腕を下ろし、続けて問う。
彼の声は、黒い海の波音を背に、新田の耳元で低く響く。
「……ダイヤの在り処と、本国のスパイダーと取り引きしている人間を言え」
彼は左手でナイフを握り、その刃先を新田の頸動脈へとあてた。
「……ハイハイ、降参だ。わかってるさ……」
新田は首元の冷たいナイフに意識を向けながら、腹の底から声を出す。
「てめぇ……このナイフどけろや。できることもできねーじゃねぇか。あ?」
智昭と新田の距離は、拳一つ分。
互いの息遣いが聞こえるほど間近で、二人の視線は一切逸れることはない。
瞬きさえも許されない時間が流れる。
背後に控える愛理たちは、その殺気に身動きができずにいた。
智昭はすんでのところで理性を働かせ、左手のナイフを新田から外した。
賢志が後ろから新田の後頭部に銃口を突きつける。新田は両手を挙げたまま、片手をヒラヒラさせながら、ゆっくり首から下げているネックレスを引き出した。先端には、小さな鍵がぶら下がっている。
「俺にしかできねーぞ。邪魔すんなよ」
どこまでも不遜な態度の新田に、賢志は眉間の皺を深くし、拳銃を握る手に力を込めた。
智昭はそれを目線ひとつで制止した。
新田は背後の様子など気にも留めず、智昭の右手首を引き寄せ、鍵を回した。
カチッという音と共に、重厚な金属塊がガシャンと音を立ててボートの床に落ちた。
「あーあ。これ、億超えなんだからな?」
新田がふざけた態度を見せる中、智昭は問いを重ねる。
「ダイヤはどこだ。スパイダーと取り引きしている人間は?」
新田の顔が一瞬緩んだ。
「……お前、本当はダイヤだけで充分なんだろ? 取り引きしてる人間なんて、どうでもいいんじゃねぇのか?」
智昭は何も反応しない。
「……案外、つまらん男だな。100カラットの原石は……Y市の旧青木邸だ。静香の部屋にある。後は自分で探せ」
「スパイダーと取り引きしている人間は?」
智昭は再び、左手を新田の前に突き出した。
「焦るな。A国の俺の家だ。もう場所は掴んでるんだろ?」
「家のどこにある。言え、煩わせるな」
「ハイハイ。つまらんうえに、やかましい男だ。テーブルの裏確認しろ。外れるようになってる。……俺は親切な人間だな」
新田は嘲笑うようにそう言った。
「……賢志、康明。聞こえたな」
智昭の命を受け、二人は無言で頷くと、闇の中で即座に情報の裏取りを開始した。その間、愛理も智昭の傍らへと移動する。
智昭は新田の足元に、一つの包みを投げ込んだ。
「中に新しい身分証とパスポート、新しいスマホを入れた。本国から一番遠い国の航行チケットと、新しいクレジットもある。スマホの位置情報は、こちらから常に確認できるようになっている。不穏な動きを確認すれば、その新しい身分も即座に抹消する」
「おいおい、横暴だな。俺の金を取りに行かせろよ」
「何だ、お前。あんなはした金のために、このチャンスを無駄にするのか?」
「……ッ……テメェ……!!」
新田は一瞬、怒りで襲いかかりそうになったが、不安定なボートの上であることが新田の立たされている状況を思い出させた。
「……チッ……しゃーねぇか。他人の手に渡るくらいなら、オヤジにやってくれ」
「それは契約には無い」
「……お前、本当に面白くない男だな」
智昭は冷たく言い放った。
「……お前は、この瞬間からこの世に存在しない。二度と、私たちの前に現れるな」
智昭はボートへ戻ろうと背を向けたが、最後に新田の足元へ、港までの航路を示す小さな端末を投げ入れた。
「……後は自力で行け。」
愛理たちは智昭のボートに飛び乗り、再び闇の中へと消えていった。
残された新田は、遠ざかるボートをいつまでも凝視していた。まだ自由を確信したわけではない。ダイヤが彼らの手に渡るまで、自分の安全など保証されないことを悟っている。
ただ、智昭が見せたあの異常なまでの執念に、新田は自分と同じ匂いを感じ取っていた。
「……あいつも、狂ってんだな。」
暗闇に漂うボートの上で、新田は港までの航路を示す青白い端末を拾い上げた。