事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】   作:山本山 

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56話 過去編

藤田総研、部長室。

デスクに積み上がった資料の山を前に、大森優里は充血した目でモニターを凝視していた。

 

智昭から任されたプロジェクトは、彼女の想定を遥かに超える難問の連続だった。徹夜が続き、先日ついに過労で倒れたばかりだというのに、彼女は早朝からこの部屋に籠り続けている。

 

(……長墨ソフト。あの時、玲奈が邪魔しなければ…スミス教授の推薦もあったのに…)

 

帰国後、彼女は長墨ソフトへの入社を強く希望した。だが、社長の港礼二は、一介の技術者に過ぎない青木玲奈を優先し、優里を冷酷に切り捨てた。

 

その恨みは、今も彼女の胸の奥で牙をむいて渦巻いている。

 

智昭が自分のために部長の席を用意してくれたのは、期待の裏返しだと信じている。

だが、実力が追いつかないなんてあってはならない。

 

(何とかして乗り切るのよ)

 

焦燥が、彼女をある狂気へと突き動かしていた。

 

 

一方、同じビルの会議室では、長墨ソフトの港礼二と青木玲奈が、藤田総研の清水部長との最終打ち合わせを終えようとしていた。

 

「素晴らしい成果です、港社長。青木さんのプログラミングの精度には、我が社のエンジニアも舌を巻いていますよ」

 

清水が感嘆の声を上げる。玲奈は小さく会釈した。彼女が長墨ソフトの実質的な創業者であり、国家の保護対象に指定されるほどの超一流技術者であることは、提携先であるこの会社にも、勿論、伏せられている。

 

「ありがとうございます。……では、本日はこれで失礼します」

 

礼二が玲奈を促し、二人は部屋を後にした。

エレベーターホールへ向かう廊下。

礼二が隣の玲奈に、低く声をかける。

 

「……疲れただろう、玲奈。今日はもう帰ってゆっくり休むといい」

 

「ええ、ありがとう礼二さん。でも、あともう少しだけ……」

 

玲奈の言葉は、到着したエレベーターの扉が開く音にかき消された。

中から現れたのは、藤田智昭、そして彼に寄り添うように立つ優里だった。

不意に視線が交錯する。

玲奈の胸に、鋭い痛みが走る。それでも彼女は視線を下げることも動かすこともなく、風景のように眺めてみせた。

 

智昭は総研のプロジェクトを支えるために、連日優里のサポートに入っている。そんな姿を目前にするとは……。

まだ離婚が成立していない状態で二人の姿を見せつけられるのは、彼が本気なんだと思うと同時に、彼が常識さえ捨てたことを玲奈は思い知った。

 

玲奈は礼二と共に、駐車場へと続く玄関口へ歩を進めた。

玲奈が振り返った瞬間、ビルの影から一人の男が飛び出し、智昭を目がけてナイフを振り下ろした。

 

「……! 智!」

 

玲奈は叫びかけたが、言葉にならない声が広いエントランスに虚しく響いた。距離が離れすぎている。玲奈と礼二は、ただ目撃することしかできなかった。

 

凶刃が智昭に届く寸前、優里が叫び声を上げて智昭を突き飛ばした。

鈍い衝撃音と共に、男のナイフが優里の胸深くへと突き刺さる。

生々しい血の匂いが、一瞬にしてエントランスを支配した。

 

「優里!」

 

智昭が倒れ込む彼女を抱きとめる。白いシャツがみるみるうちに赤く染まっていく。

男はすぐさま逃走し、静まり返った玄関前には、智昭の怒号と優里の苦しげな呼吸音だけが残された。

 

智昭は玲奈たちの存在に気づきながらも、意識を失いかけた優里を横抱きにし、血相を変えて待機していた車へと駆け込んだ。

 

(……あんな、必死な顔…できるんだ……)

 

玲奈は、ぼんやりそんな事を考えていた。我に返り、血溜まりの残された床を見つめた後、自分にできる事は何も無い事を認識して、礼二と共にその場をあとにした。

 

 

一時間後。優里が救急搬送された病院の裏口。

智昭は、返り血を浴びたシャツのまま、溜息をついた。流石に疲れを隠せなかった。

 

「……賢志、藤田総研のエントランスの映像と周辺の映像を頼む」

 

智昭は直属の隠密チームに連絡し、藤田総研ビル周辺の監視カメラ映像を全て確保させた。

モニターに映し出されたスロー映像を、智昭は食い入るように見つめる。

 

「賢志、どう思う?」

 

「プロですね」

 

「やはりそう思うか……」

 

「どこか不自然ですね。優里の動きも」

 

「何が起きているか、わかるか?」

 

「先程確認した映像の中に、茂みに人が倒れているものがありました。それが今回の事件と関係があるなら、その男に聞けば真相は明らかになるかと……」

 

智昭は短く、再度溜息をつく。

 

「その男、確保したか?」

 

「勿論ですよ。もうすぐ連絡が入ります」

 

言葉にしないが、二人の予想は一致しているようだ。智昭のスマホが鳴る。

 

「何がわかった?」

 

「茂みにいた男、白状しました。大森に雇われたと」

 

「優里か? 正雄か?」

 

「……優里です」

 

智昭は三度、溜息をつく。

 

「では、実行犯は捕らえたか?」

 

「すみません、まだ捕らえてません。が、時間の問題です。警察の力を借りています」

 

「康明の見立ては?」

 

「スミスかと……」

 

「スパイダーでは?」

 

「報復とするなら、厳密に、確実に狙ってくるかと」

 

「スミスの根拠は?」

 

「聡美の分析によると、優里を通じて長墨ソフトの革新的技術を狙う予定が、優里は入社できず、我々の仕掛けた小さな罠に気づいたようです。新田の消息も掴めない状態ですので、実力行使に移ったのでは、と」

 

智昭は片眉を上げながら答えた。

 

「まだ、序盤なのにな……わかった。引き続き頼む」

 

智昭は賢志に語りかける。

 

「賢志、スミスが玲奈の存在を正しく知ったらどうすると思う?」

 

賢志は部下の立場から少し離れ、智昭の横に腰掛ける。

 

「俺がスミスなら、間違いなく玲奈さんを狙うな。どんなに隠してるつもりでも、調べたら露見するものだ」

 

「そうだな……。俺もそうする」

 

今日四度目の溜息をつく。

 

「引き続き調べてくれ」

 

「了解しました」

 

智昭は病院の裏口から再び優里の病室へ向かう。行きがけに清司に連絡する。

 

「清司、離婚協議書を作ってくれ。茜の親権は俺が貰うと明記してくれ」

 

通話を終えた智昭の歩みは自然と止まり、病院の廊下の天井を仰ぎ見た。

 

今日五度目の溜息をついていた。

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