事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】   作:山本山 

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57話 過去編

藤田総研ビルの玄関先で起きた、あの凄惨な事件から1ヶ月半。

都心の高級ホテルで開催された「Global AI Innovation Summit 2026 (GAIS)」の会場は、世界中から集まった最新技術の熱気と、それを選別する冷徹な知性に包まれていた。

 

「刺傷事件から奇跡の生還を遂げた、藤田総研の若き女性部長」

 

メディアが好んで消費したその美談を背負い、大森優里は智昭にエスコートされて会場に現れた。

藤田グループの社長として、智昭は集まった名だたる実業家や記者たちを前に、一切の感情を排した声で彼女を紹介した。

 

「皆さんに紹介しましょう。我が藤田グループの傘下、藤田総研で部長を務める大森優里です。本日のサミットの主賓、スミス教授の愛弟子として、現在進行中のプロジェクトを牽引しています」

 

智昭の言葉に、周囲から期待を込めた拍手が送られる。智昭に公の場で紹介される現実は、優里にとって高揚感と、とんでもない快感を伴うものだった。

 

(……ようやく、この場所に立てた。玲奈には一生手が届かない、世界の中心に)

 

「さて、私は少し知己と挨拶をしてくる。君は藤田総研の顔として、存分に皆さんと交流してくるといい」

 

智昭は優雅に、しかし事務的にそう告げると、優里を一人残して事業家たちの輪の中へと消えていった。

 

一人になった優里の周りには、即座に黒山の人だかりができた。だが、そこに集まったのは社交辞令を並べる投資家だけではない。AIの実装現場で長年戦ってきた、見識の深い技術者や経営者たちだった。

 

「スミス教授の最新論文にあった『多層化における学習効率の非対称性』ですが、優里さんはどう解決されました? 今回の実装にはかなり高い計算資源が必要なはずですが」

 

一人のベテラン技術者が問いかける。優里は、スミスから受け取った「想定回答」を必死に手繰り寄せた。

 

「ええ……。スミス先生の理論を忠実に再現することで、アルゴリズムの最適化を図っています。リソースに関しては、藤田グループの資産を最大限に活用していますわ」

 

「……再現、ですか? それでは今回のプロジェクトの目玉である『リアルタイム自己修正』の負荷には耐えられないと思うのですが。具体的にはどのレイヤーで処理を切り分けているんですか?」

 

別の経営者が眉をひそめる。優里の答えは、専門家からすればあまりに浅く、現場を知らない者の「逃げ」に近い。

 

「それは……機密事項に関わりますので。ただ、先生の指導の下、完璧な設計になっています」

 

優里がそうかわすたび、周囲の専門家たちの間に、目に見えない「微妙な空気」が流れていく。

彼らの視線は、尊敬から「確認」へ、そして確信を伴う「疑念」へと変わり始めていた。

 

(……なんだ。期待していたが、スミスの虎の威を借るお嬢様か。藤田社長がなぜ、こんな女を部長に据えたんだ……?)

 

その時だった。

会場のあちこちで、電子音が重なり合って響いた。

一人、また一人とスマホを取り出し、画面を凝視した人々の顔から余裕が消える。

不穏な振動音が波のように会場を埋め尽くしていく中、モニターは呑気にスミスの功績を映し続けている。だが、人々の目はもはや壇上にはなかった。

 

「おい、これ……」「スミスが?」

 

ヒソヒソとしたざわめきが急速に広がり、優里を囲んでいた群衆が、潮が引くように物理的な距離を置いた。その靴音が、彼女にリアリティをもって、逃げ場など無い現実を突き付ける。

SNSのトレンドを埋め尽くしたのは、スミス教授の重大な不正疑惑。過去数年間の論文におけるデータ改ざんと、他者のアルゴリズム盗用の証拠が当局に提出されたという衝撃的な速報だった。

 

「……スミスが、不正? 過去の論文も全部調査対象だって……」

 

「おい、さっき彼女『スミス教授の理論を忠実に再現している』って明言したよな?」

 

「ということは、藤田総研の技術も……根底から嘘なのか?」

 

批判の波が押し寄せ、優里の顔から血の気が引いていく。

助けを求めて会場を見渡すが、智昭は遠くのテーブルで、変わらず平然と事業家たちと語らっていた。智昭のスマホはポケットの中で沈黙を保ったままだ。

優里が孤立し、周囲の視線が針のように刺さり始めたその時、智昭がようやく彼女の元へと歩み寄った。

 

「……失礼。藤田総研の部長が、少し混乱しているようだ」

 

智昭は優里に寄り添い、周囲に微笑んでみせた。一見、献身的なエスコート。

 

「智昭さん、みんなのスマホが……!」

 

「ああ、驚いたね。だが優里, 君なら大丈夫だ。君はスミス教授の指導を誰よりも受けてきた『愛弟子』なんだから。皆さんに説明してあげなさい。君が苦労して実装したあの『多層ニューラルネットワーク』の、バックプロパゲーションの最適化……あれは君独自のアレンジなんだろう?」

 

智昭が振った話題は、一流のエンジニアなら基礎中の基礎。しかし、深い理解がなければ即座にボロが出る問いだった。

 

「え、ええ……。もちろん……。独自に……先生の教えを、その、昇華させて……」

 

優里の返答は支離滅裂だった。智昭は「恩師の不祥事にショックを受けているようでして」と高度なフォローを口にするが、その解説が鮮やかであればあるほど、隣で固まっている優里の「無能さ」が衆人環視の中で引き立てられていく。

 

パーティーの終盤。

ホールの柱の陰で、優里は震える手でシャンパングラスを握りしめていた。そこへ、通り過ぎる若手エンジニアたちの容赦ない声が聞こえてくる。

 

「……藤田社長も災難だな。あんなお飾りを庇わなきゃいけないなんて」

 

「スミスの愛弟子って、結局ただの『スピーカー』だったわけだ。あの程度の理解じゃ、うちの新人の方がマシだよ」

 

「天才? 笑わせるなよ。天才の仮面を被った、ただの少し優秀なだけの凡人じゃないか」

 

優里は指先が白くなるほどグラスを強く握りしめた。

さっきまで感じていた世界の中心にいるような感覚は、今や、泥沼に沈んでいくような惨めな敗北感へと塗りつぶされている。

 

 

智昭はそんな彼女の背中に向かって、手元にあるグラスを軽く掲げ、小さく呟いた。

「乾杯」

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