事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
サミット会場を後にした送迎車の車内は、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
窓の外を流れる都会の夜景が、優里の青ざめた横顔をより青白く照らし出す。
膝の上で握りしめた指先は、小刻みに震えたまま止まらない。先ほど浴びた専門家たちの冷ややかな視線、そして「凡人」という囁きが、耳の奥でリフレインしている。
「……智昭……」
優里が、消え入るような声でその名を呼んだ。
智昭は一度も彼女の方を見ようとはせず、組んだ足の隙間に視線を落とし、タブレットで何らかの数値を確認している。
「……私、本当に知らなかったの。スミス先生があんな……。最後も、もっとちゃんと説明できたはずなのに、混乱してしまって……」
必死に絞り出した弁明。だが、智昭の口から漏れたのは、氷のように冷たい言葉だった。
「説明以前の問題だ、優里。君の勉強不足だ。あのような初歩的な問いに窮するようでは、藤田総研の看板に泥を塗ったも同然だ」
「……っ……」
突き放すような叱責。優里は、喉の奥からせり上がる嗚咽を必死に飲み込んだ。智昭に見放されれば、自分の居場所はどこにもない。
だが、沈黙が続いた後、智昭は静かにタブレットを閉じた。
「……だが」
智昭がゆっくりと顔を向け、優里の目を見つめた。
その瞳には、先ほどまでの冷徹さは影を潜め、どこか深い慈しみを感じさせるような光が宿っている。
「君は、私の宝である茜を救ってくれた恩人だ。あの刺傷事件で君が流した血を、私は一瞬たりとも忘れたことはない」
智昭の指先は一瞬ためらったが、優里の震える手を包んだ。その温もりに、優里は弾かれたように顔を上げる。智昭の唇には、完璧な、そしてどこまでも優しい微笑みが浮かんでいた。
「今回の失態は、私がフォローする。君の実力不足を指摘する声など、私がすべて黙らせよう。君は、私にとって特別な存在なんだから」
「……智昭……」
優里の胸に、甘い熱が広がっていく。叱られた後の、この極上の優しさ。
智昭は優里の手を優しく握り、囁くように続けた。
「明日、辞令を出す。君を藤田総研の代表取締役に就任させる。部長職などではなく、経営のトップとして君を据えることにした」
「えっ……代表、取締役に?」
あまりの飛躍に、優里は目を見開いた。
「ああ。君を誰にも文句を言わせない立場に置く。大森家の娘として堂々と胸を張ってほしい」
「……ありがとう……智昭! 私、期待に応えられるよう精一杯……」
優里は、智昭の胸に顔を埋めようとしたが、智昭のスマホが鳴った。智昭は優里に一度頷き、スマホを手に取り姿勢を整える。
優里はひとつの確信を得た。
智昭は、自分を愛している。自分なしではいられないのだと。
(……見たこと、玲奈? 智昭は私を選んだ。私を、藤田の真ん中に置いてくれたのよ)
優里の顔に、先程の悲哀など初めから存在しなかったかのように、醜いほどの悦に浸った笑みが浮かぶ。
智昭は、前を向きながら車窓に映る彼女の顔を視界に入れていた。
「君の望む椅子に座らせてあげるよ。」
智昭の口元が微かに上がる。
「……大丈夫だ、優里」
智昭は優里の耳元で囁く。
この一言を、
殊更、丁寧に、甘美に。
優里の鼓膜を震わせた。
智昭は、フロントガラスから見えるテールランプの群れをただ追っていた。