事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
サミット会場を後にし、優里を自宅へ送り届けた後の深夜。
智昭は、藤田グループ本社ビルの最上階、月明かりだけが差し込む社長室の椅子に深く身を沈めていた。
「……ひとつ終了……」
言い聞かせるような呟き。
安堵なのか、疲労なのか、自分でも判別のつかない溜息が、暗い部屋に溶けていく。
机の上の端末が静かに震える。暗号化された回線。入ってきたのは、智昭が最も信頼を置く隠密チームのメンバー、聡美と康明からの定期連絡だった。
「ボス、お疲れ様です。……例の、A国にあった新田の隠れ家から押収した資料、すべての解析と裏付けが完了しました」
聡美は、智昭の沈鬱な様子とは真逆の、勢いと艶が混じった声色で報告する。続いて、康明が画面越しに資料のリストを提示した。
「間違いありません。新田を窓口にした人身売買組織『スパイダー』のネットワーク、そして大森正雄が関与していた薬物の流通経路。すべてが実名入りのリストで揃いました。新田の奴、万が一の時の保険として、これほどの爆弾を抱えていたとは……」
智昭は、無機質な画面に流れるおぞましい記録を眺め、人の業の深さを目の当たりにする。
溜息を吐き出し、椅子の背にもたれかかり天井を見上げる。背もたれからは体を支える為の軋む音がした。
大森正雄という男の底知れない強欲さと、それが玲奈の実父であるという逃れられない現実。
このままでは、彼女が実父の業をその身に背負うことになりかねない。どうすれば、彼女をこの泥沼から完全に切り離せるのか。
瞼を閉じて静寂に身を委ねてみるが、明快な答えは容易には出ない。深い、深い溜息が漏れる。
康明の報告は淡々と続いていた。
「資料はすでに、内閣情報調査室の担当者へ直接手渡しました。政府もこれほど大規模な組織犯罪を見逃すわけにはいかない。……大森の断罪は、もはや時間の問題です」
「……そうか。よくやってくれた」
「ボス……顔色が良くないわ。少しは休まないと……守れるものも守れなくなりますよ」
聡美の懸念を、智昭は微かな首振りで遮った。
「いや、大丈夫だ。己の身体の限界値は理解しているつもりだ。心配、ありがとう」
康明の報告に続いて、聡美のどこか畏敬の念を含んだ声がスピーカーから流れた。
「ボス、もうひとつ興味深いものを発見しました。新田がダイヤを隠していた場所のさらに奥、静香さんの私物の中から……。ボスが、以前から懸念されていた、正雄の罪が玲奈さんに及ぶ危険性。それは、もう既に母・静香さんによって護られているようです」
智昭の指が、机の上で止まる。
「……護られている……?」
「ええ。これを見てください。二十数年前の、玲奈さんの出生届の写しです。……父親の欄が、『空欄』で受理されています」
画面に表示された、古びた書類の画像。
そこには確かに、父の名を刻むべき場所が空白のまま残されていた。
「静香さんは、正雄と佳子の関係を玲奈さんの誕生直後に知ったようです。証拠の写真もありました。憶測ですが、佳子が静香さんに送りつけたのでしょう。腕時計をはめた男性の腕に収まる赤子の写真です。……洋介に画像解析をさせたところ、その時計はシリアル番号のあるもので、購入者は青木静香さん本人でした」
「彼女は、玲奈さんが将来、正雄という男の業に巻き込まれるのを危惧していたんでしょう。正雄が力をつける前に、法的な縁を最初から断ち切っていたんです」
智昭は、深く背もたれに体を預けた。
静香は正気を失うずっと前から、直感に近い予見をしていた。
「……そうか。やはり、玲奈のお母様だな」
通信を切った後、彼は机の引き出しから、古いベルベットの小箱を取り出した。
中には、玲奈の母・静香がかつてその価値を正しく鑑定した、純粋な輝きを湛えるダイヤ。
新田の証言通り、旧青木邸の静香の部屋から見つけ出したその石は、あらゆる光を反射して、強く、美しく輝いていた。
智昭はその石を両手でそっと、慈しみをもって包み込む。掌の中の硬質な感触に、玲奈の面影を重ねた。
「……何ひとつ傷などつけさせはしない」
傲慢なまでの自己犠牲。
誰に何を言われようと、彼はとまらない。
智昭の手のひらに納まるダイヤに、何倍もの重力を感じていた。窓の外では、夜明け前の街が静かに息づき始めている。
智昭は、手をつきながら、ゆっくりと立ち上がった。