事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
澄み渡るような青空を、玲奈は他人の空を眺めているようだった。希望と苦しみを抱えていた時は、もっと眩しく感じていたはずなのに。
午後の柔らかな光が差し込む車内。ハンドルを握りながら、助手席のカバンに意識を向けた。
(……ようやく、この日が来たはずだったのに)
カバンには、二度目となる離婚届が入っている。本来なら、先月には受領証を受け取ってすべてが終わっているはずだった。
だが、智昭はその期間、海外出張が重なり、手続きは無効となった。
今日、もう一度役所へ向かわなければならないという徒労感。
ゆっくり流れる景色に合わせたかのように、帰国後からの出来事を振り返っていた。
智昭が「優里を優先」する記憶の波が押し寄せてくる。
夜中の呼び出し。「ダーリン」の表示を見て、一度も振り返らずに出ていった彼の背中。
ドレスショップで唯一目に留まった、六億円のドレス。まさか優里への贈り物だっただなんて……私には最初から何も無かった。公の場でのエスコートなんて一度も…。
彼は藤田グループ社長としての顔だったかしら? いつものように私に声を掛けることも無かったから、一応そうなのかも……。
温泉宿でのあの日、朝方に茜までもが内緒で優里のところへ行った。私だけが取り残されたあの虚しい部屋。
どうでもよい存在に対しては、優しい方なのかしら?
いらない優しさね。
あなたは本当に……なぜ結婚生活を続けたのかしら?
あぁ、私への最後の配慮だったのかもしれないのね。
テレビの中継で、ワインを浴びせられた優里を抱きかかえ、守るように連れ去った智昭の姿。まるで姫のための騎士(ナイト)ね。
大森家に贈られた十二億円という途方もない家。
本当に私のことが憎いのかもしれないわ。
それら全てが、玲奈がどんなに長年尽くしてこようが、智昭が玲奈に対して出した答えなのだろう。
彼女の胸にどうしようもない重みと痛みが蘇る。
左手でそっと胸を押さえた。
心は凪いでいても、身体は痛みを覚えている。
それでも、帰国後の玲奈はただ泣いて過ごしたわけではなかった。
長墨ソフトへの復帰。真田教授の下での研究、愛する世界への再チャレンジ。画面を前に何時間も没頭してしまう、あの高揚感。
藤田総研との業務提携の際、技術を侮辱した優里に対し、エンジニアとしての誇りをかけて契約解消を突きつけたあの瞬間。
本来あるべき場所で、技術者としての尊厳を取り戻し、ようやく「青木玲奈」として歩き出した。
A国で聞いた「優里おばさんがママに」あの言葉は、どこか「これで終わる」という安堵があったのかもしれない。
玲奈は深く溜息をついた。もう茜の親権さえ求めない。
彼らの世界から、バグは消えたわ。
そして私は、私の世界で生きるのよ。
「……今日で、本当に最後にする」
玲奈は前を向き、アクセルを僅かに踏み込んだ。家族という形は、流れる景色の中に投げ込んでしまおう。
「さようなら藤田智昭の妻、茜の母青木玲奈さん」
「こんにちは青木玲奈」
交差点に差し掛かった、その時だった。
昼下がりの静寂を切り裂くような、
不自然なタイヤの摩擦音。
背後からの強い衝撃。
彼女の身体が弓のようにしなり、
ハンドルに激しく、強く頭を打ちつける。
(あ――)
玲奈の視界は激しく回転し、やがて真っ白な光の渦の中に消えていった。
どれくらいの時間が経っただろうか。
重い瞼を押し上げると、最初に目に飛び込んできたのは、無機質な白い天井と、鼻を突く消毒液の匂いだった。
意識が霧の向こうからゆっくりと戻ってくる。
痛む首を僅かに動かした時、視界いっぱいに、かつては命よりも大切にしていた愛しい存在が飛び込んできた。
「……ママ!!」
震える声と共に玲奈を覗き込んでいたのは、哀れなほど狼狽した茜の顔だった。その小さな手を、青木のおばあさんが後ろから包み込むように添えている。
「玲奈……よかった。本当に、よかった……」
おばあさんの、深い安堵が滲む声。
玲奈は、茜の涙で濡れた頬と、おばあさんの慈愛に満ちた眼差しを、ただ静かに見つめ返していた。
ーーーー
退院から半月ほど経った。痛みが完全に消滅したわけではないが、身体は驚くほど軽やかだった。
玲奈は自分だけのマンションに戻った。最低限の家具と最新鋭のサーバー。このシンプルな空間が、今の彼女には心地よかった。
リビングには、礼二、翔太、辰也が集まっていた。
「玲奈、本当に体は大丈夫なのか?」