事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】   作:山本山 

60 / 69
60話 過去編

澄み渡るような青空を、玲奈は他人の空を眺めているようだった。希望と苦しみを抱えていた時は、もっと眩しく感じていたはずなのに。

午後の柔らかな光が差し込む車内。ハンドルを握りながら、助手席のカバンに意識を向けた。

 

(……ようやく、この日が来たはずだったのに)

 

カバンには、二度目となる離婚届が入っている。本来なら、先月には受領証を受け取ってすべてが終わっているはずだった。

だが、智昭はその期間、海外出張が重なり、手続きは無効となった。

今日、もう一度役所へ向かわなければならないという徒労感。

ゆっくり流れる景色に合わせたかのように、帰国後からの出来事を振り返っていた。

智昭が「優里を優先」する記憶の波が押し寄せてくる。

 

夜中の呼び出し。「ダーリン」の表示を見て、一度も振り返らずに出ていった彼の背中。

ドレスショップで唯一目に留まった、六億円のドレス。まさか優里への贈り物だっただなんて……私には最初から何も無かった。公の場でのエスコートなんて一度も…。

彼は藤田グループ社長としての顔だったかしら? いつものように私に声を掛けることも無かったから、一応そうなのかも……。

 

温泉宿でのあの日、朝方に茜までもが内緒で優里のところへ行った。私だけが取り残されたあの虚しい部屋。

どうでもよい存在に対しては、優しい方なのかしら?

いらない優しさね。

 

あなたは本当に……なぜ結婚生活を続けたのかしら?

あぁ、私への最後の配慮だったのかもしれないのね。

 

テレビの中継で、ワインを浴びせられた優里を抱きかかえ、守るように連れ去った智昭の姿。まるで姫のための騎士(ナイト)ね。

大森家に贈られた十二億円という途方もない家。

 

本当に私のことが憎いのかもしれないわ。

 

それら全てが、玲奈がどんなに長年尽くしてこようが、智昭が玲奈に対して出した答えなのだろう。

 

彼女の胸にどうしようもない重みと痛みが蘇る。

左手でそっと胸を押さえた。

心は凪いでいても、身体は痛みを覚えている。

 

 

それでも、帰国後の玲奈はただ泣いて過ごしたわけではなかった。

長墨ソフトへの復帰。真田教授の下での研究、愛する世界への再チャレンジ。画面を前に何時間も没頭してしまう、あの高揚感。

藤田総研との業務提携の際、技術を侮辱した優里に対し、エンジニアとしての誇りをかけて契約解消を突きつけたあの瞬間。

 

本来あるべき場所で、技術者としての尊厳を取り戻し、ようやく「青木玲奈」として歩き出した。

 

A国で聞いた「優里おばさんがママに」あの言葉は、どこか「これで終わる」という安堵があったのかもしれない。

玲奈は深く溜息をついた。もう茜の親権さえ求めない。

彼らの世界から、バグは消えたわ。

そして私は、私の世界で生きるのよ。

 

 

「……今日で、本当に最後にする」

 

 

玲奈は前を向き、アクセルを僅かに踏み込んだ。家族という形は、流れる景色の中に投げ込んでしまおう。

 

「さようなら藤田智昭の妻、茜の母青木玲奈さん」

 

「こんにちは青木玲奈」

 

交差点に差し掛かった、その時だった。

昼下がりの静寂を切り裂くような、

不自然なタイヤの摩擦音。

背後からの強い衝撃。

彼女の身体が弓のようにしなり、

ハンドルに激しく、強く頭を打ちつける。

 

(あ――)

 

玲奈の視界は激しく回転し、やがて真っ白な光の渦の中に消えていった。

 

 

 

どれくらいの時間が経っただろうか。

重い瞼を押し上げると、最初に目に飛び込んできたのは、無機質な白い天井と、鼻を突く消毒液の匂いだった。

意識が霧の向こうからゆっくりと戻ってくる。

痛む首を僅かに動かした時、視界いっぱいに、かつては命よりも大切にしていた愛しい存在が飛び込んできた。

 

 

「……ママ!!」

 

 

震える声と共に玲奈を覗き込んでいたのは、哀れなほど狼狽した茜の顔だった。その小さな手を、青木のおばあさんが後ろから包み込むように添えている。

 

「玲奈……よかった。本当に、よかった……」

 

おばあさんの、深い安堵が滲む声。

玲奈は、茜の涙で濡れた頬と、おばあさんの慈愛に満ちた眼差しを、ただ静かに見つめ返していた。

 

 

 

 

ーーーー

 

退院から半月ほど経った。痛みが完全に消滅したわけではないが、身体は驚くほど軽やかだった。

 

玲奈は自分だけのマンションに戻った。最低限の家具と最新鋭のサーバー。このシンプルな空間が、今の彼女には心地よかった。

 

リビングには、礼二、翔太、辰也が集まっていた。

 

「玲奈、本当に体は大丈夫なのか?」

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。