事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】   作:山本山 

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63話 現在編

玲奈の自宅で行われた「あの日」から数日後。

 静寂に包まれた長墨ソフトのオフィスには、玲奈が叩くキーボードの音だけが、硬質かつ心地よいリズムで響いていた。

 モニターの青白い光を中心に、礼二と翔太の視線は固定されている。二人は幾分緊張した面持ちだ。玲奈の指先が次々と情報を映し出す。

 画面には、大手通信キャリアの「ファミリー安心ナビ」のログイン画面。

 IDとパスワードは、かつて「家族」で共有していたものだ。智昭はこれを変更していない。離婚がまだ成立していない以上、それは娘・茜の「現在地」を知るための、親としての権利であり義務だからだ。

 

「……やっぱりね」

 

ログインは成功した。だが、表示された地図は無機質なグレーだ。

 『過去の行動履歴』のタブをクリックしても、画面中央には予想通りの文句が並ぶ。

 

《閲覧権限がありません。管理者により履歴表示は制限されています》

 

翔太が小さく舌打ちをした。

 

「やっぱりか。現在地は見せるけど、過去の足取り(ログ)はブラックボックスってわけですね。藤田社長らしい、完璧な情報統制だ」

 

礼二が玲奈の椅子の背にそっと手を置いた。その体温が、強張った玲奈の背中にじんわりと伝わる。

 

「玲奈、無理するなよ。これ以上は……」

 

「いいえ、ここに在るわ」

 

玲奈はポップアップの「OK」ボタンを押さず、代わりにキーボードのF12キーを叩く。

画面の右側に、Webサイトの裏側――ソースコードの羅列が現れた。

 

智昭が独自に開発したシステムならともかく、既存のWebサービスに侵入するのは、今の玲奈にはさほど難しい話ではない。ほんの少しのコツと、違和感への嗅覚があればいい。

玲奈はネットワークタブを開き、サーバーとの通信記録を洗う。

 

画面上では「権限なし」と表示されているが、裏ではブラウザがサーバーにデータを要求し、サーバーは既に「何か」を返している。

ただ、フロントエンド(画面の見た目)のプログラムが、そのデータを隠蔽しているだけだ。

ユーザーに見せないだけで、データは確かにそこにある。

 

「……見つけた」

 

玲奈はコンソール画面に、特定のAPIリクエストを再送するコマンドを打ち込む。

正規のルートではなく、システムが吐き出した生のデータ(JSON形式)を直接引き抜く。

エンターキーを叩く。

 

瞬間、黒い画面に緑色の文字列が滝のように流れ落ちた。

緯度、経度、タイムスタンプ。

茜のスマホが記録し続けていた、真実の居場所。

 

「翔太、優里のインスタの投稿データと照合(マージ)して」

 

「了解」

 

翔太が素早くサブモニターに優里のSNS画像を展開する。

煌びやかな夜景、高級フレンチのディナー、そして『食事後2人っきりのデート♡』というキャプション。

その投稿日時と、引き出したばかりの茜のGPSログを重ね合わせる。

礼二が呟く。

 

「……おい、これ」

 

画面上の二つの点は、途中から決定的にズレていた。

 

優里の位置: S区の三ツ星レストラン『ル・ヴァン』から、優里の自宅周辺へ移動。

 

茜の位置: S区の三ツ星レストラン『ル・ヴァン』から、デパート周辺へ移動。その後、藤田邸へ帰宅。

 

レストランの滞在時間は約1時間。

その間、茜のGPSはほとんど動いていない。

 

「……優里が茜の恩人である、という態度を崩していないだけだね。藤田さんは、優里が『二人で密会している風』を装うのを黙認していた。他の日も確認が必要だけど……茜を常に同行させていたと見て間違いないよ。二人きりになるのを避けるための、盾(バッファ)として」

 

翔太の分析に、礼二が安堵したように息を吐く。

 

「じゃあ、あいつは玲奈を裏切ってはいなかったんだな」

 

その言葉に、玲奈はゆっくりと首を横に振った。

胸の奥で、何重にも塗り固めたはずの感情が溶け出す。

 

「違うわ、礼二」

 

「え?」

 

「これは、もっと酷い裏切りよ」

 

玲奈は画面の中の、小さな赤い点を見つめる。

クリスマスの夜も、私の誕生日も、あの子は優里と共にいた。

 

目を閉じれば、幼子の声が残酷にこだまする。

また、胸の痛みがよみがえる。

 

『優里おばさんがママだったらいいのに』

 

「あの子があんな事を言った理由は、単純そのものだわ。いつも居ないパパと一緒に居られるから。優里と居れば、パパも側に居ると分かったからよ。優里なら叱られたりしない。うるさい事も言わない。楽しくいられる。ただそれだけのこと」

 

礼二が言葉に詰まりながらも、ありのままを返す。

 

「子供は……時に残酷だからな」

 

「そうね。智昭の最大の罪は、茜のそんな気持ちを利用していた事よ。その前提には、『私が母親であることを絶対に放棄しない』という計算が成り立っているわ。私が傷ついても、茜を見捨てるはずがないと踏んでいる。……幼い茜が、本気で母親を拒めるわけがないことさえ、智昭は計算(シナリオ)に入れている」

 

玲奈は冷めたコーヒーを一口含んだ。

味がしない、ただの濃い茶色の水だった。

 

「私をサイボーグか何かだと思っているのかしら? 幼い茜にあんな言葉を言わせるほどの時間を過ごしたことに変わりはないし、彼の行動が茜の中から私を消してしまった事実は変わらない」

 

それは、肉体的な不倫なんかよりもずっと、許しがたい罪(バグ)だ。

 

「……今日は終了」

 

玲奈は淡々とした口調で告げ、PCをスリープモードにする。

夫への未練も、情けも、この瞬間に完全に削除(デリート)された。

 

「礼二、少しお休みもらえる? Y市へ行きたいの」

 

「それは構わないが……悪いが2日ほどしか時間的余裕は無いかもしれない。間に合うか? それに、何をするつもりなんだ?」

 

「母さんのことよ」

 

玲奈はデスクの引き出しから、一枚の古い写真を取り出した。

まだ若く、自信に満ちていた頃の母・静香と、幼い自分が写っている。

 

「あの人たちが母さんに着せた汚名(ダイヤ鑑定ミス)……あれが全ての始まりだった。正雄と佳子(遠山)がどうやって母さんを罠に嵌めたのか、証拠は無くとも当時の記憶を持っている人の話が聞きたいの。もう、待ってるだけはやめたわ」

 

「……なるほど。わかった」

 

「それにね、実父ながらあんな小賢しい男と、どうして母さんと結婚できたのか、不思議なのよ。なぜ母さんは壊れなければならなかったのか。……その答えは、きっとY市にある」

 

玲奈は椅子から立ち上がり、隣のデスクの相棒に視線を向けた。

 

「翔太、一緒に来てくれる? 礼二、会社をお願いね。緊急の技術的なことならPCに送って。……ワガママ聞いてくれてありがとう、礼二」

 

 

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