事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
Y市の空は、記憶の中にあるよりもずっと低く、灰色に澱んでいた。
「空はもっと高いと思ってたわ」
不意に玲奈は独り言のように呟いた。翔太は横目で玲奈を見、あえて返事はしなかった。
助手席の窓から流れる景色を見つめながら、玲奈はふと、膝の上に置いた手を握りしめる。
「……翔太。この街にはね、三代にわたる女たちの『呪い』が染み付いているの」
ハンドルを握る翔太が、訝しげに眉を寄せる。
「呪い……? 物騒だね」
「(笑)ええ。ことの発端は、私の祖母と、佳子の母親……遠山のお婆さんとの因縁」
ひと息ついてから、玲奈は続けて話し出した。
「青木家と大森家は代々Y市の名士だけど、遠山家は他の市からこちらのY市に移ってきた家なの。どんな経緯で遠山家が衰退したかは知らないけれど、彼らはかなりの窮地に追い込まれたそうよ。それを救ったのは私の祖母、青木おばあさん。金銭的な援助、住む場所の斡旋……祖母にとっては、かつての親友への純粋な善意だったのよ」
玲奈は握りしめた手を一度開き、再び強く握る。
「でも、プライドの高い遠山家にとって、それは『施し』という名の屈辱に、いつしか変質していったそうよ。その感情はどす黒い嫉妬も生み出したんじゃないかしら。その後、青木家が逆に追い詰められた時、遠山家は手のひらを返したように青木家を切り捨てた。……その青木家を助けてくれたのが、藤田家のおばあさんだったの」
玲奈は記憶の中の藤田おばあさんを思い出し、
思わず声が震えた。
翔太は静かに聞き入り、短く
「うん」とだけ返事をした。
「優里の母・佳子と私の母は、幼い頃は親友だった。青木のおばあさんに聞いたことよ。そして、青木家が持ち直した頃に他所の街から戻ってきた佳子は、母・静香の『親友』という仮面を被っていたわ」
玲奈は真っ直ぐ前を見つめ、淡々と語る。
「昔、母がこの時のことを嬉しそうに私に教えてくれたわ。鮮明に覚えている」
彼女は手のひらで頬を拭う。
翔太は車のスピードを少し緩めた。
玲奈はその気遣いに、軽く微笑みで返す。
しばらくして、車は旧市街の狭い路地へと入っていった。錆びついた門扉の奥、雑草が生い茂る庭の先に、目的の平屋はあった。
玄関のドアを叩くと、しばらくして中から人の気配がした。
現れたのは初老の男だった。警備員の制服だろうか、安っぽいスラックスを履いているが、シャツには丁寧にアイロンがかけられている。
男――浅田裕二は、玲奈の顔を見た瞬間、時が止まったように固まった。
「……静香、ちゃん?」
その口から漏れたのは、母の名前だった。
「いいえ。娘の玲奈です」
玲奈が冷徹に告げると、浅田は夢から覚めたように瞬きをし、力なく肩を落とした。
「そうか……娘さんか。よく似ている」
狭いが整頓された居間に通されると、玲奈は単刀直入に切り込んだ。
「30年前の話を聞きに来ました。母・静香が鑑定ミスをしたとされる、100カラットのダイヤについて。……佳子がやったんでしょう? あの日、すり替えたのは」
浅田の背中がびくりと震えた。彼はテーブルの上で組んだ手を、白くなるほど強く握りしめている。
「……ああ。そうだ」
「なぜ止めなかったのですか? あなたと母は幼い頃から面識があったはずです。母が鑑定を間違うと思いましたか? そして、自分の名誉のために嘘をつく人間に見えましたか?」
浅田は顔を上げ、玲奈の瞳を見たあと、堪らず俯いた。
「俺は……どうしようもない臆病者だ。すまない……。君のお祖父さんにも顔向けできない。静香ちゃんがあんなに苦しむなんて……佳子の仕業を……俺の憧れが、とんでもない醜い感情に呑まれてしまった」
「なぜ、後からでもダイヤを出してくれなかったのです?」
「……下心があった。正雄が失敗すればいいと思ったんだ。静香ちゃんが鑑定ミスをして離婚になれば……俺にもチャンスがあるんじゃないかって。そんな浅ましくて汚い期待を抱いたせいで、その後は怖くて出せなかった。彼女の近況を聞くたびに、酒とギャンブルで誤魔化してきたんだ」
浅田は、数十年間抱え続けてきた自分自身の醜さへの嫌悪を露わにした。その罪悪感ゆえに、彼は預かった「本物のダイヤ」を換金することもできず、ただこの家に隠し続けてきた。
「俺は最低の男だ。静香ちゃんの潔白の証を、ずっと持っていた。罪と向き合うのが怖くて、ずっと、この家に……」
「……そのダイヤを出して。母さんの名誉を、今度こそ正しい場所に戻すわ」
浅田ははっと顔を上げたが、すぐに絶望的に首を振った。
「……ないんだ。もう、ここにはない」
「え?」
「約一年前……あいつが持って行った。息子の、篤に渡したんだ……」
玲奈は翔太と顔を見合わせる。翔太が間髪入れず浅田に問う。
「あなたの息子、浅田篤がダイヤを持って行ったんだな?」
翔太が素早くスマホを取り出し、辰也へコールした。
「……息子の名前は、新田篤だ」
浅田が呟く。
「辰也さん。Y市の浅田の息子、『新田篤』という男について照合を」
「折り返し電話する」とだけ通話は切れた。
数分後、辰也から連絡が入る。
「新田篤だな。あいつは三ヶ月前の豪華客船事件で死んでいる。俺が現場で奴のIDカードを直接剥ぎ取って確認したんだ。間違いようがない」
玲奈は受話音越しに聞こえる辰也の言葉に、脳内のプログラムがエラーを吐き出すのを感じた。
「辰也、新田が死んだ現場に、ダイヤはなかったの?」
『……記録に宝石類はない。奴の所持品はIDとわずかな現金だけだ』
一年前、新田の手へ渡った100カラットのダイヤモンド。三ヶ月前、新田の死亡。
けれど、遺留品の中にも彼の家にもダイヤはない。
(物質はこの世から消滅しない。新田が死ぬ直前まで持っていたなら、誰かが回収したはずよ)
「辰也、新田はなぜその場にいたの?」
「彼は人身売買のブローカーだ。犯罪組織スパイダーの末端だった」
「辰也、あなたはなぜその場にいたの?」
「……俺も任務にあたっていた」
玲奈の指先が冷たくなる。呼吸が浅くなる。
「清司もいた?」
「ああ……智昭もいた」
玲奈の心臓が早鐘のように打ち付ける。パズルが動き出す。
「新田の遺体はどこへ?」
新田篤の「死」という確定したデータ。その現場を完璧に仕切り、遺体を回収させたのは誰か。
「智昭が処理したはずだよ。あの人身売買摘発の計画を出したのは智昭だから、不慮の事態も想定して段取りをつけているはずだ」
玲奈の頭のパズルがカチリとはまり始める。
「まさか……」
彼女の手が僅かに震え出し、その震えが全身を覆い尽くす。
その後、どうやって浅田の家を後にしたか分からなかった。翔太の肩を借りてホテルに着いた頃には、夕空は夜へと変わり始めていた。
「翔太、豪華客船の情報、お願い」
翔太は頷き、余計な返事はせず、終始無言のまま彼女を支えた