事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】   作:山本山 

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64話 現在編

Y市の空は、記憶の中にあるよりもずっと低く、灰色に澱んでいた。

 

「空はもっと高いと思ってたわ」

 

不意に玲奈は独り言のように呟いた。翔太は横目で玲奈を見、あえて返事はしなかった。

助手席の窓から流れる景色を見つめながら、玲奈はふと、膝の上に置いた手を握りしめる。

 

「……翔太。この街にはね、三代にわたる女たちの『呪い』が染み付いているの」

 

ハンドルを握る翔太が、訝しげに眉を寄せる。

 

「呪い……? 物騒だね」

 

「(笑)ええ。ことの発端は、私の祖母と、佳子の母親……遠山のお婆さんとの因縁」

 

ひと息ついてから、玲奈は続けて話し出した。

 

「青木家と大森家は代々Y市の名士だけど、遠山家は他の市からこちらのY市に移ってきた家なの。どんな経緯で遠山家が衰退したかは知らないけれど、彼らはかなりの窮地に追い込まれたそうよ。それを救ったのは私の祖母、青木おばあさん。金銭的な援助、住む場所の斡旋……祖母にとっては、かつての親友への純粋な善意だったのよ」

 

玲奈は握りしめた手を一度開き、再び強く握る。

 

「でも、プライドの高い遠山家にとって、それは『施し』という名の屈辱に、いつしか変質していったそうよ。その感情はどす黒い嫉妬も生み出したんじゃないかしら。その後、青木家が逆に追い詰められた時、遠山家は手のひらを返したように青木家を切り捨てた。……その青木家を助けてくれたのが、藤田家のおばあさんだったの」

 

玲奈は記憶の中の藤田おばあさんを思い出し、

思わず声が震えた。

翔太は静かに聞き入り、短く

「うん」とだけ返事をした。

 

「優里の母・佳子と私の母は、幼い頃は親友だった。青木のおばあさんに聞いたことよ。そして、青木家が持ち直した頃に他所の街から戻ってきた佳子は、母・静香の『親友』という仮面を被っていたわ」

 

玲奈は真っ直ぐ前を見つめ、淡々と語る。

 

「昔、母がこの時のことを嬉しそうに私に教えてくれたわ。鮮明に覚えている」

 

彼女は手のひらで頬を拭う。

翔太は車のスピードを少し緩めた。

玲奈はその気遣いに、軽く微笑みで返す。

 

しばらくして、車は旧市街の狭い路地へと入っていった。錆びついた門扉の奥、雑草が生い茂る庭の先に、目的の平屋はあった。

 

玄関のドアを叩くと、しばらくして中から人の気配がした。

 

現れたのは初老の男だった。警備員の制服だろうか、安っぽいスラックスを履いているが、シャツには丁寧にアイロンがかけられている。

男――浅田裕二は、玲奈の顔を見た瞬間、時が止まったように固まった。

 

「……静香、ちゃん?」

 

その口から漏れたのは、母の名前だった。

 

「いいえ。娘の玲奈です」

 

玲奈が冷徹に告げると、浅田は夢から覚めたように瞬きをし、力なく肩を落とした。

 

「そうか……娘さんか。よく似ている」

 

狭いが整頓された居間に通されると、玲奈は単刀直入に切り込んだ。

 

「30年前の話を聞きに来ました。母・静香が鑑定ミスをしたとされる、100カラットのダイヤについて。……佳子がやったんでしょう? あの日、すり替えたのは」

 

浅田の背中がびくりと震えた。彼はテーブルの上で組んだ手を、白くなるほど強く握りしめている。

 

「……ああ。そうだ」

 

「なぜ止めなかったのですか? あなたと母は幼い頃から面識があったはずです。母が鑑定を間違うと思いましたか? そして、自分の名誉のために嘘をつく人間に見えましたか?」

 

浅田は顔を上げ、玲奈の瞳を見たあと、堪らず俯いた。

 

「俺は……どうしようもない臆病者だ。すまない……。君のお祖父さんにも顔向けできない。静香ちゃんがあんなに苦しむなんて……佳子の仕業を……俺の憧れが、とんでもない醜い感情に呑まれてしまった」

 

「なぜ、後からでもダイヤを出してくれなかったのです?」

 

「……下心があった。正雄が失敗すればいいと思ったんだ。静香ちゃんが鑑定ミスをして離婚になれば……俺にもチャンスがあるんじゃないかって。そんな浅ましくて汚い期待を抱いたせいで、その後は怖くて出せなかった。彼女の近況を聞くたびに、酒とギャンブルで誤魔化してきたんだ」

 

浅田は、数十年間抱え続けてきた自分自身の醜さへの嫌悪を露わにした。その罪悪感ゆえに、彼は預かった「本物のダイヤ」を換金することもできず、ただこの家に隠し続けてきた。

 

「俺は最低の男だ。静香ちゃんの潔白の証を、ずっと持っていた。罪と向き合うのが怖くて、ずっと、この家に……」

 

「……そのダイヤを出して。母さんの名誉を、今度こそ正しい場所に戻すわ」

 

浅田ははっと顔を上げたが、すぐに絶望的に首を振った。

 

「……ないんだ。もう、ここにはない」

 

「え?」

 

「約一年前……あいつが持って行った。息子の、篤に渡したんだ……」

 

玲奈は翔太と顔を見合わせる。翔太が間髪入れず浅田に問う。

 

「あなたの息子、浅田篤がダイヤを持って行ったんだな?」

 

翔太が素早くスマホを取り出し、辰也へコールした。

 

「……息子の名前は、新田篤だ」

 

浅田が呟く。

 

「辰也さん。Y市の浅田の息子、『新田篤』という男について照合を」

 

「折り返し電話する」とだけ通話は切れた。

 

数分後、辰也から連絡が入る。

 

「新田篤だな。あいつは三ヶ月前の豪華客船事件で死んでいる。俺が現場で奴のIDカードを直接剥ぎ取って確認したんだ。間違いようがない」

 

玲奈は受話音越しに聞こえる辰也の言葉に、脳内のプログラムがエラーを吐き出すのを感じた。

 

「辰也、新田が死んだ現場に、ダイヤはなかったの?」

 

『……記録に宝石類はない。奴の所持品はIDとわずかな現金だけだ』

 

一年前、新田の手へ渡った100カラットのダイヤモンド。三ヶ月前、新田の死亡。

けれど、遺留品の中にも彼の家にもダイヤはない。

 

(物質はこの世から消滅しない。新田が死ぬ直前まで持っていたなら、誰かが回収したはずよ)

 

「辰也、新田はなぜその場にいたの?」

 

「彼は人身売買のブローカーだ。犯罪組織スパイダーの末端だった」

 

「辰也、あなたはなぜその場にいたの?」

 

「……俺も任務にあたっていた」

 

玲奈の指先が冷たくなる。呼吸が浅くなる。

 

「清司もいた?」

 

「ああ……智昭もいた」

 

玲奈の心臓が早鐘のように打ち付ける。パズルが動き出す。

 

「新田の遺体はどこへ?」

 

新田篤の「死」という確定したデータ。その現場を完璧に仕切り、遺体を回収させたのは誰か。

 

「智昭が処理したはずだよ。あの人身売買摘発の計画を出したのは智昭だから、不慮の事態も想定して段取りをつけているはずだ」

 

玲奈の頭のパズルがカチリとはまり始める。

 

「まさか……」

 

彼女の手が僅かに震え出し、その震えが全身を覆い尽くす。

 

その後、どうやって浅田の家を後にしたか分からなかった。翔太の肩を借りてホテルに着いた頃には、夕空は夜へと変わり始めていた。

 

「翔太、豪華客船の情報、お願い」

 

翔太は頷き、余計な返事はせず、終始無言のまま彼女を支えた

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