事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
長墨ソフトのオフィスには、稼働し続けるサーバーの排熱と、わずかな空調の音だけが聞こえる。
全社員が退社した広いオフィスの中で、玲奈はメインモニターに豪華客船摘発当日のログを展開した。
「……気持ち悪いわ」
玲奈がボソリと呟き、キーボードを叩いた。モニターに、港の入線記録と、客船から出たボートの数が並列で表示される。
「客船から出た救助・移送ボートは公式記録では2隻。救護班が1隻、そして智昭自身のボートが1隻……。でも、30分後に港に入線したボートの動体ログは、どう数えても『3隻』ある」
「1隻、増えてるのか」
礼二がコーヒーカップを置き、モニターを覗き込んだ。玲奈は画面の一部を拡大する。
「この増えた1隻……所属不明のボートは、港の手前数海里で、智昭のボートと不自然なほど密着して航行している。まるで、外部のレーダーに対して2隻を1隻に見せかけるステルス航法よ。……もう1隻は何なの?」
玲奈は解析画面を切り替え、新田篤の調査報告データを展開した。
「それと、昨日、浅田から聞いた息子の新田篤。10代の頃から何度も補導歴があり、少年院送りにもなった札付きの悪党よ。最終的にY市に住めなくなって、母親の姓に変えてA国へ渡った……新田篤。辰也によれば、豪華客船で死亡したスパイダー組織のブローカー。A国を拠点にしていた時の名は、ケン・スミス」
新田篤の経歴を眺めながら、玲奈の脳裏に一つの苦い記憶が蘇る。
(新田……浅田の息子……正雄の幼馴染の息子……。彼はスパイダーのブローカー……スパイダーは薬物と人身売買、恐喝……。ケン・スミス……、ス、ミス……?)
玲奈の指が止まった。7年前、彼女が智昭と結婚するきっかけとなった、あのお薬事件。玲奈が汚名をきせられた、あの時の薬。当時、突如として卒院パーティーに現れた父・正雄。
玲奈の脳裏に、ありありと過去の残像が再現される。
彼と初めて結ばれた、あの部屋の肌寒い室温と、使われていない部屋の匂い、そして智昭のアルコールの匂い。普段は見せない彼の懇願するような眼差しと、「そんなに好きか?」と問うた、甘く絡みつく智昭の声。
(智昭は、この事件の真相を追っていたの……? 貴方は私を疑っていたのでは……ない? 初めから、私を信じて……いたの?)
玲奈の鼓動が、否応なしに速まる。うまく息ができない。奥歯をぐっと噛み締め、身体の中のどこかで、何かが決壊するのを防ぐ。
彼女は懸命に感情を支配下に置いた。
(今更、無かったことには、ならないの……)
礼二がホワイトボードに向かい、智昭の「4分間の空白」の意味を書き換えていく。
「智昭が政府に提出した報告書では『データの遠隔破棄を阻止するための制圧』となっているが、実態は違うな。彼は政府のサイバー防衛という特権を盾にして、新田から繋がる真相を根こそぎ、独りで浄化しようとしたんじゃないか?仮説だが、新田に新しい人生(データ)を取引材料として与え、真相に居座る悪の根源を葬るための決定的な証拠と……君の、全方位の安全を取り戻したとか?」
玲奈の手元で、新田の「ケン・スミス」としてのデータが次々とパージされていく。それは、智昭が誰にも知られぬまま、自ら持てる全てを投じて行動した証だった。
「……」
玲奈は早まる鼓動を抑えるので精一杯だった。
翔太が背後で、明後日の「優里の社長就任パーティー」の招待状を確認しながら呟いた。
「明後日は藤田総研の代表取締役就任パーティーが開かれるね。必ず出席しなきゃだね」
玲奈は静かにモニターを閉じ、力の定まらない身体でゆっくりと立ち上がった。
仮説に過ぎないこの話を、実証する場が訪れるだろう。
「礼二、翔太。明後日の優里のパーティーに相応しい装いをしましょうか」