事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】   作:山本山 

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68話 現在編

眠りというよりは「気絶」に近い意識の断絶だった。

 智昭が跳ねるように目覚めたのは、午前四時。

 

 数時間前まで、シャンデリアの光と憎悪の渦中にいたことが嘘のように、寝室は耳がツーンとする静寂に満たされている。

 カーテンの隙間から見えた空は、夜が明けきらないままの薄暗さで、街灯だけが白々と明るい。

 智昭はベッドの端に腰掛け、熱を持った顔を両手で覆う。

 

「終わった……んだ……」

 

長期間におよぶ捜査、大森家の断罪。すべてをやり遂げたはずなのに、喉の奥には異物が混じっているのか、何度も何かを飲み込む仕草を繰り返す。

 ベッドサイドの水を一気に飲み干した。

 

彼女がいた頃は、水以外に鎮痛剤や胃薬など、体調を気遣う何かが必ず置かれていた。そんな光景が、痛いほど鮮やかに蘇ってくる。

 

 洗面台に向かえば、彼女が振り返り「おはよう」と声をかけてくる日常が再現される。

 

だが、今、鏡の中にいるのは、一晩で数年も老け込んだような一人の男だ。

 

 視線を落とせば、歯ブラシがポツリと1本だけ置かれている。どこを探しても幻の中にしか彼女がいない。飲み下した筈の異物が再び喉に現れる。

 

 

 

自分一人が泥を被ればいい。

 そう信じていた。

 

だが、昨夜のあのドレスを纏った玲奈の眼差しは、智昭の知らない――いや、かつて彼女が宿していたはずの、強い眼差しだった。

 

自分勝手な「犠牲」で彼女の尊厳を奪い、彼女の本来の居場所を奪い続けた。

 

 それが唯一の方法だと信じて疑わなかった。

 

(ほんとうに?)

 

(共に泥を被る道もあったんじゃないか……? 彼女のあの力の宿った瞳が、答えなんじゃないか……?)

 

(彼女に「守られるだけの顔」を貼り付けたのは、俺……だったのか……)

 

指先で鏡に映る自分の顔をなぞる。

 

 窓の外の空はすっかり明るくなり、早起きの鳥たちがさえずり始めていた。

 

 智昭は、力の入らない指でネイビーのシャツのボタンを留めた。

 

 彼女が「似合うね」と選んでくれたシャツ。

 着るほどに、彼女のいない現実が押し寄せてくる。

 

 もう、見ないふりはできない。

 

どこを向いても彼女の残像が現れ、

そして消えていく。

 

 

俺の腕の中だけで、ただ守り続けたかった。

 

 

 

 

 智昭しかいない部屋から、押し殺した嗚咽が漏れ出していた。

 

 

 

 

ーー 数刻後。

 

 智昭は隣の部屋で眠る茜を起こし、朝食を摂らせ、着替えさせる。

 玲奈がいなくなってからは、できる限り彼が行っていた。慣れた手つきで茜を助ける。

 

「……茜。今日、ママに会いに行く。一緒に行くか?」

 

「うん! いく」

 

 返事をした茜は、智昭の顔をのぞき込んだ。

 

「…あれ?パパ……悲しいの?」

 

「……あぁ……とても…、悲しいんだ」

 

智昭は茜の頭を優しく撫でながら、静かに答えた。

 

 

 

 

 

ーー

 

 

 ――同じ頃。

 

 

 

玲奈は、昨夜の「戦装束」を寝室の隅に静かに置いた。

一人の静かな朝。この環境にも慣れた気でいたが、

 

今日は少し、何か物足りない。

 

小さなボリュームで、クラシックをランダムに流した。

 

智昭の、あの疲労が浮かぶ姿。

 どんなに取り繕っても隠せないほどの疲労。

 

 

(…私は、彼の何を観ていたのだろう……?)

 

 

「自分を軽んじている男」と思い込んでいた。

 

確かに、蔑ろにされることの連続だった。

でも、それは本当に彼がしたことだったのか。

 

 ー いいえ ー

 

彼の周りがそうしていたのだ。

彼はただ、何も語らなかった。

 

 

(彼を信じず、才能を隠すことで『被害者』という安全地帯に逃げ込んだのは、私だったのね)

 

(私が、彼を信じきれていなかった。私が彼に『父親』としての時間まで奪って、孤独な地獄を歩かせ続けていたのかもしれない……)

 

(胸ぐらを掴んででも向き合えばよかったのかしら……?…臆病すぎた?……そっか、、これ以上、、嫌われるのが、私は、怖かったんだわ……。変ね……。そういえば…彼は一度も、嫌いだなんて言わなかったのに…)

 

 クラシックのボリュームを上げた。

 

 玲奈は、体に馴染んだシンプルな服を選んだ。

 

バッグの中には、自分以外の物は何もない。

夫、妻、という枷を外しに行く。

一人の人間として歩むための、清算の儀式。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

ー 智昭が茜の手を引き、自宅のドアを開ける。ー

 

 

ー 玲奈が一人、誰もいない自宅の鍵をかける。ー

 

 

二つの足音が、朝の陽が差し込んでいる「役所」という、一点に向かって、焦点が絞られた。

 

 

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