事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
眠りというよりは「気絶」に近い意識の断絶だった。
智昭が跳ねるように目覚めたのは、午前四時。
数時間前まで、シャンデリアの光と憎悪の渦中にいたことが嘘のように、寝室は耳がツーンとする静寂に満たされている。
カーテンの隙間から見えた空は、夜が明けきらないままの薄暗さで、街灯だけが白々と明るい。
智昭はベッドの端に腰掛け、熱を持った顔を両手で覆う。
「終わった……んだ……」
長期間におよぶ捜査、大森家の断罪。すべてをやり遂げたはずなのに、喉の奥には異物が混じっているのか、何度も何かを飲み込む仕草を繰り返す。
ベッドサイドの水を一気に飲み干した。
彼女がいた頃は、水以外に鎮痛剤や胃薬など、体調を気遣う何かが必ず置かれていた。そんな光景が、痛いほど鮮やかに蘇ってくる。
洗面台に向かえば、彼女が振り返り「おはよう」と声をかけてくる日常が再現される。
だが、今、鏡の中にいるのは、一晩で数年も老け込んだような一人の男だ。
視線を落とせば、歯ブラシがポツリと1本だけ置かれている。どこを探しても幻の中にしか彼女がいない。飲み下した筈の異物が再び喉に現れる。
自分一人が泥を被ればいい。
そう信じていた。
だが、昨夜のあのドレスを纏った玲奈の眼差しは、智昭の知らない――いや、かつて彼女が宿していたはずの、強い眼差しだった。
自分勝手な「犠牲」で彼女の尊厳を奪い、彼女の本来の居場所を奪い続けた。
それが唯一の方法だと信じて疑わなかった。
(ほんとうに?)
(共に泥を被る道もあったんじゃないか……? 彼女のあの力の宿った瞳が、答えなんじゃないか……?)
(彼女に「守られるだけの顔」を貼り付けたのは、俺……だったのか……)
指先で鏡に映る自分の顔をなぞる。
窓の外の空はすっかり明るくなり、早起きの鳥たちがさえずり始めていた。
智昭は、力の入らない指でネイビーのシャツのボタンを留めた。
彼女が「似合うね」と選んでくれたシャツ。
着るほどに、彼女のいない現実が押し寄せてくる。
もう、見ないふりはできない。
どこを向いても彼女の残像が現れ、
そして消えていく。
俺の腕の中だけで、ただ守り続けたかった。
智昭しかいない部屋から、押し殺した嗚咽が漏れ出していた。
ーー 数刻後。
智昭は隣の部屋で眠る茜を起こし、朝食を摂らせ、着替えさせる。
玲奈がいなくなってからは、できる限り彼が行っていた。慣れた手つきで茜を助ける。
「……茜。今日、ママに会いに行く。一緒に行くか?」
「うん! いく」
返事をした茜は、智昭の顔をのぞき込んだ。
「…あれ?パパ……悲しいの?」
「……あぁ……とても…、悲しいんだ」
智昭は茜の頭を優しく撫でながら、静かに答えた。
ーー
――同じ頃。
玲奈は、昨夜の「戦装束」を寝室の隅に静かに置いた。
一人の静かな朝。この環境にも慣れた気でいたが、
今日は少し、何か物足りない。
小さなボリュームで、クラシックをランダムに流した。
智昭の、あの疲労が浮かぶ姿。
どんなに取り繕っても隠せないほどの疲労。
(…私は、彼の何を観ていたのだろう……?)
「自分を軽んじている男」と思い込んでいた。
確かに、蔑ろにされることの連続だった。
でも、それは本当に彼がしたことだったのか。
ー いいえ ー
彼の周りがそうしていたのだ。
彼はただ、何も語らなかった。
(彼を信じず、才能を隠すことで『被害者』という安全地帯に逃げ込んだのは、私だったのね)
(私が、彼を信じきれていなかった。私が彼に『父親』としての時間まで奪って、孤独な地獄を歩かせ続けていたのかもしれない……)
(胸ぐらを掴んででも向き合えばよかったのかしら……?…臆病すぎた?……そっか、、これ以上、、嫌われるのが、私は、怖かったんだわ……。変ね……。そういえば…彼は一度も、嫌いだなんて言わなかったのに…)
クラシックのボリュームを上げた。
玲奈は、体に馴染んだシンプルな服を選んだ。
バッグの中には、自分以外の物は何もない。
夫、妻、という枷を外しに行く。
一人の人間として歩むための、清算の儀式。
ーーーー
ー 智昭が茜の手を引き、自宅のドアを開ける。ー
ー 玲奈が一人、誰もいない自宅の鍵をかける。ー
二つの足音が、朝の陽が差し込んでいる「役所」という、一点に向かって、焦点が絞られた。