事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】 作:山本山
役所のベンチ。智昭が茜を連れて待っていると、自動ドアが開き、玲奈が現れた。
逆光の中に立つ彼女のシルエットは、「献身的な妻」とは別の、凛としたたおやかな佇まいだった。
智昭は、あの日の彼女を思い出した。留学のためA国に降り立った玲奈を空港に迎えに行った時の、初々しい姿。あの日、眩しそうに世界を見渡していた玲奈と、今、目の前に立つ大人の玲奈が重なる。
「あ! ママだ!」
静かな役所に、茜の歓喜する声が響く。智昭の手をすり抜け、茜が一直線に玲奈へと駆け出す。
「ママ~! ……わぁ、ママ、すごく綺麗。お花の匂いがする!」
茜がその胸に飛び込む。玲奈は驚いたように一瞬だけ目を見開いたが、すぐに柔らかく微笑み、その場に膝をついて小さな体を抱きしめた。
その光景を、智昭は数メートル離れたベンチから、ただ見つめることしかできない。
智昭の胸の奥で、愚かしくも熱い期待が湧く。
玲奈は茜の目線に合わせて、その小さな肩を包み込む。
「茜ちゃん、なんだか……少し、大きくなったわね。幼稚園は、楽しい?」
「うん、楽しいよ! 先生がね……」
茜の話を最後まで、玲奈は慈しむような目で見つめ、聞き遂げる。そして、一呼吸置いてから、静かに言葉を紡ぎ出した。
「……茜ちゃん。ママ、貴女に謝らなきゃいけないの。パパとママと、茜ちゃん。三人で過ごす時間を、もっとたくさん作らなきゃいけなかったのに。……できなくて、ごめんなさい。ママが、臆病だったのよ」
智昭は壊れたおもちゃのように微動だにしない。
「ママね、パパにこれ以上嫌われるのが、怖かったの。だから、黙ってしまった。パパはママに、嫌いだなんて一度も言わなかったのにね。……本当に、ごめんね、茜」
「ママ、これからは……一緒にいられるの?」
茜の問いに、智昭は息を止める。しかし、玲奈は静かに、けれど迷いのない動作で首を横に振った。
「ごめんなさい。ママは、もうすぐ海外へ行くの。お仕事で行ってくるわ。しばらく戻れないと思う」
智昭の身体は、徐々に熱を奪われていく。指先から足先までの感覚が消えていく。崩れないように、残っている気力で腹に力を込める。
「茜ちゃん、いつでも電話してね。ママとパパはお別れするけど、今までもこれからも、茜はママの宝物なの。大好きよ」
窓口から呼び出しの声が響く。
玲奈は智昭より半歩先に歩き出した。智昭は彼女の後に続く。
二人の視線が重なるが、言葉は交わさなかった。智昭は何度も何かを言いかけ、その度に言葉を飲み込んだ。
カウンターへ向かう短い距離。彼女に触れたくて仕方がない右手を、智昭は無理やりポケットにねじ込む。
受理証を手にし、法的に「他人」となった。
智昭が間合いを見て、掠れた声で玲奈に尋ねる。
「……疲れてないか……?」
「えぇ……大丈夫よ。智昭、ありがとう」
短い会話のあとは、玄関先に向かう足音だけが重なり響き合う。
自動ドアを通り過ぎ、冬の澄んだ陽光が、昨日と同じように彼らを包み込む。
玲奈は早足で数歩先に進み、くるりと振り返った。陽光を背にした彼女は、穏やかにひと際美しく笑ってみせた。
それから、声には出さずに智昭に伝える。
「さようなら」
ー 車内 ー
智昭はハンドルを握り、後部座席の茜に、あるいは自分自身に語りかける。
「パパがママの側にいなかったせいで、茜にもママにも悲しくて辛い想いをさせてしまった。本当に、済まなかった」
茜は智昭の顔をのぞき込むようにして言った。
「パパが悲しいのは、ママが遠くにいくからなんだね。パパは、寂しがりやだね」
智昭は言葉に詰まる。観念したように、フッと自嘲気味に笑った。
「茜の言う通りだな。パパは、ママがいなくなることに耐えられそうにないな」
娘の言葉に、智昭は救いを感じてしまう。
「茜もさみしい。パパと同じだね」
茜の素直な告白に、智昭の我慢が決壊する。
「……そうか、そうだよな……」
智昭は涙が頬をつたうのをそのままに、必死に前を向く。
「パパ、音楽かけてもいい?」
「あぁ……そうだな。何か、茜の好きな曲をかけてくれ」
智昭は、滲む視界を払うように一度だけ強く瞬きをし、藤田家の本家へと車を走らせた。