事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】   作:山本山 

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番外編:極限の鼓動(大森優里)

 

 振り下ろされるフラッグを合図に、一斉にマシンが飛び出す。アスファルトが焼ける匂い。耳を突き破るようなエンジンの爆音と共に、観客席を瞬時に通り過ぎていく一台の赤いレーシングカー。その鋭いコーナリングは、見る者を釘付けにした。

 

視界の端で火花が散り、重力に押し潰されそうなカーブを、大森優里は一ミリの迷いもなく攻め抜く。

 

時速200キロを超える旋回。横方向から襲いかかる数Gの重力が、彼女の細い首をへし折らんばかりに引き絞る。タイヤが路面を掴む限界の悲鳴がステアリングを通して掌に伝わり、脳が「これ以上は死ぬ」と警告を発した。

 

極限の集中状態——ゾーンの中で、彼女の視界がスローモーションに変わる。

 

「……まだよ。ギリギリ、ここ!」

 

 クリッピングポイントをミリ単位で捉え、ギアダウンから再びアクセルを全開で踏み込む。命知らずのコーナリングは、サーキットに芸術的なまでの曲線を描き出していた。

 

 レースを終え、マシンから優里が姿を現すと、観客席からは怒号にも似た声援が沸き起こった。肩につかない長さの前下がりボブヘアーを風になびかせ、彼女は手を振ってその熱狂に応える。

 

「……まだ攻めれた? アレが限界かしら?」

 

 ピットに戻り、ヘルメットを脱ぎ捨てた優里の顔には、かつての計算高い微笑みは微塵もなかった。

 

 今日のレースは最終成績が決まる大一番。三位で入賞が確定していたにもかかわらず、彼女は守りに入らず攻めに転じた。結果、順位を一つ上げ、二位という輝かしい成績を収めた。

 

 

 

 かつて、社長就任パーティーの壇上でマネキンの様に立ち尽くしていた女性は、もうこの世にはいない。

 

 あの日、優里の中の「大森優里」は一度、死んだ。空っぽになった彼女に残ったのは、コンマ一秒の差で決まるスピード、ギアチェンジ、ブレーキング——限界の果てに掴み取った、確かな皮膚感覚だけだった。

 

 

 滴る汗を無造作に拭い、タイトなレーシングスーツに身を包んだその姿、無駄が一切ない美しさに視線が引き込まれる。

 

 今の彼女が求めているのは、誰かの肩書きでも寵愛でもない。ただ、より速い世界。

 

 

 

 ふとスマホを見ると、かつての仲間から「藤田智昭の結婚式」の噂が通知されていた。優里はチラリと見出しだけを読み、即座に消去した。

 

 一拍置いて、彼女はふと思った。

 

「……? 今ごろだったの? ……遅すぎない?」

 

 智昭に負けたのも、玲奈に負けたのも事実。

すべてを失った。

 

 けれど、彼女はそこから自らの手で新しい世界を掴みにいった。優里にとって過去の事はもはやどうでもいい事のひとつだった。

 

 

自分の足でアクセルを踏み、

完璧にコーナリングをこなす。

 

その瞬間だけが

 

彼女の情熱が爆発する。





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