事故ったのは玲奈だった 〜社長夫人はずっと離婚を考えていた〜【原作伏線回収・再構成】   作:山本山 

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番外編:逃亡者の長い夜(新田篤)

 

「……っざけんな。あの、クソ野郎……なんだここは? ……あんのやろ……今から戻って息の根止めるか? ………あぁぁーだるっ。」

 

 深夜二時。月明かりさえ届かない湾の、どこかの古い埠頭。手元の明かりを照らせば、そこは小さなボートでさえ入ることのできない、テトラポットが複雑に牙を剥く海だった。

 

 近づけない。下手したら波に遊ばれて、船ごと海の底だ。

(いや、いっそのこと突っ込むか? 隙間にボートが刺されば……。)

 

「いや、なんで、ここで一か八かなんだよ。ふざけやがって……。つまらん男だと思ったが、根性もヘドロだな。クソがっ」

 

 考えても、脱出の答えがわからない。新田は特大の溜息をついた。

 

「やめだ。やめだ。……新しい身分証はあるな…」

 

新田はボートを丁寧に見渡し、ロープに繋がったイカリを見つける。イカリを見つめながら、また沸々と怒りが沸き起こる。

 

「俺の詰めが激甘だった……。クソったれ」

 

新田はテトラポットの海にイカリを放り投げた。複雑な窪みにひっかかり、ボートはこれ以上、流される心配はなくなった。エンジンがあっても、燃料が切れれば大海原に漂う無力な小舟だ。

 

「あの小賢しいクソ野郎は、これも計算済みかっ。苛つくな。腕の一本でも折ってやればよかった……」

 

新田は朝を待つことにした。

 

波に揺られること数時間。少しは眠れるかと思ったが、船酔いとの戦いだった。

 

水平線から太陽が登る。

 

「藤田覚えてろよ……オェッ。誰が『朝日よ、こんにちは』だ……」

 

 

だが、今まで見たことのない景色にかわりなかった。

 

 

通りすがりの地元民に新田は発見され、発見者のお陰で、誘導ボートが間もなく現れて新田を無事岸へ上げた。長時間揺られ続けた新田の足元はふらふらになっており、顔は白く疲れ切っていた。

 

新しい身分証は何の問題もなく機能している。ボートの貸し出し記録付だ。

白い顔のまま、新田は怒りを更新をしていた。

 

(あいつ絶対にコロス)

 

 とは、言ってもグダグダここに居ては何の意味も無い。藤田が用意した航空チケットを手に振り返る事なく空港へ向かった。

 

 

 

 

 それから数ヶ月後。

 

 本国のほぼ裏側、カリブ海諸国のひとつドミニカに身を寄せていた。英語圏。新田は話す事も聞き取りもできるので難なく暮らしていた。

平和そのものだ。

 

 真っ青な空。突き抜けるような日差し。

 

ドミニカの乾いた風は、あの日、湾のテトラポットで浴びたヘドロの臭いも、船酔いの吐瀉物の味も、すべてを過去のものとして笑い飛ばしているようだった。

 

 

 新田は、海沿いの小さな町の片隅にある、ボロい自動車整備工場の軒下にいた。オイルで汚れたタンクトップ姿で、動かなくなった古いシボレーのエンジンを覗き込む。

 

「……おい、ヘスス。このプラグ、もう死んでるぞ。新しいの持ってこい」

 

 現地語の混じった英語で指示を飛ばすと、十代そこらの見習いの少年が

 

「わかったよ、サトウさん!」と

 

陽気に駆けていく。

 

 「サトウ」——。それが今の新田の名前だ。

 

(車を盗みまくった知恵が、こんな所で還元されるとは誰が想像する?)

 

そう心の中でうそぶいてみる。裏社会の「スパイダー」の頃を知る人間は、ここには一人もいない。

 

 今の彼は、たまたま流れ着いたこの異国の地で、壊れた機械を直し、雀の涙ほどの対価と安いラム酒で生きている。

 

 あの時一緒に渡されたクレジットカードは、生活必需品を揃えるくらいにしか使っていない。

というか、使うところが……ない。

 

「ふぅ……」

 

 作業の手を止め、新田は工場の外に広がるカリブ海を眺めた。あの朝、誘導ボートに救助された時の屈辱は、今でも昨日のことのように思い出せる。

 

 智昭が用意したボートには、十分な燃料も、脱出用の接岸ポイントも最初からなかった。ただ一晩中波に揉まれ、地獄の船酔いに耐え抜いた先に「偶然の救助」という名の、計算され尽くした逃げ道が用意されていたのだ。

 

 航空チケットと共に添えられていた、一枚のメモ。

 

『賢明な判断だった』

 

小賢しいメモの筆跡。しかも、水性ペン。水に浸れば消えてしまう。証拠も残らない。

 

新田は、スパナを握る手に力を込めた。

 

「あの野郎……。一か八か賭けさせやがって。俺をあんな無様な姿で国外に放り出しやがって。……殺す。いつかマジで、あのスカしたツラに一発入れてやる。………あーでも、あれだな。今ごろあのダイヤ握りしめて、一人でメソメソしてんだろな。ざまぁみろっ!」

 

 呟いてから、新田はゲラゲラと笑い出した。

 

新田は、自分が一度も「復讐」のために航空チケットを検索していないことに気づいている。

生きてきた真逆の世界に、今は身を置いている。スリルも駆け引きもない、退屈そのものの世界。

 あるのは、修理を待つエンジンと、ラム酒の酔い。そして、夜になれば当たり前にやってくる、静かな眠りだけだ。

 

平和すぎて退屈だ、と毒づく自分もいる。

 

だが、あの日テトラポットで見た

「生き延びた先の絶望的なほど美しい朝日」を、

今の新田は毎日拝んでいる。嫌いになれない。

 

「サトウさん! 仕事終わったら、一杯行こうぜ!」

 

ヘススが新品のプラグを手に戻ってくる。

 

「……たまには、奢れよ。小僧」

 

新田は、自分の顔が少しだけ緩んでいるのを自覚して、慌ててタバコを咥えた。

 

再燃するかもしれない殺意を今は胸に留めて、

安物のライターで火を灯す。

吐き出した煙は、カリブの強い風にあっけなく攫われ、透明な青へと溶けていった。

 

「……覚えてろよ……狂人、藤田。この生活に飽きた頃、お前の首狙うからな」

 

新田は再びエンジンに向き直る。

 

慣れた手つきで、新しいプラグを差し替えた。

 

 





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